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14 雲間から(2)

 白麻の貫頭衣の肩口が大きく開き、中に着こんだ薄墨の着物の袖がずるずると落ちて、健康的な肉付きの腕が、天へ突き上げられた。深緋色の布をふんだんに使用した幅の広い|広裳《こうしょう》が、開かれた足に沿って華やかに風に翻った。群青の腰帯に鹿の角から削りだした自作の|玉佩《ぎょくはい》をつるし、ならべて、五亨庵の石を思わせる五つの珠を連ねた飾りを下げていた。  全ては、巫女を装った祭具という名の見掛け倒しだった。  長い黒髪をすべて太く編み込み、後頭部で龍がとぐろを巻くように高くまとめ上げていた。  本当はさらりと下ろす方が手間がかからないのだが、長く垂らす髪は女性の象徴とされ、不本意ながら宝順への売り込みにもなってしまうらしい。  冗談ではない。  玲凛は髪にかける時間を惜しみはしたが、どうにか体裁を保った。  花を象った簪は巫女としての神々しさの演出であると同時に、いざとなった時の鋭利な武器としての意味が大きかった。腰には常に、赤色の鞘に収めた寿魔刀を履いた。腕に飾った金属の腕輪すら、いざとなれば防具として使うつもりでいた。  玲凛の、巫女の陰に隠された戦士の周到ぶりを知る者は誰もいなかった。  玲凛と後宮と。  この組み合わせはあまりに異質すぎた。  文句が出ることはあるものの、総じて、玲凛はこの新しい環境を楽しんでいた。  ただ一つ、紀宗が条件とした初仕事を除いては、である。  玲凛が自由にその立場を生かして宮中を詮索する唯一の条件が、この紀宗の提示した仕事だった。  これさえ片付ければ、数カ月、好きに動くことが許された。  玲凛が探る皇家の裏の情報は、紀宗にとっても好奇心を刺激されるものだった。  知りたがり、という一点で二人は共謀した。  玲凛は見慣れない後宮で悪戦苦闘しながらも、自らの好奇心を埋めるべく暗躍を始めた。迷路のような後宮の中の探索はもちろんのことだったが、それよりも先に、まずは紀宗からの依頼をこなさねばならなかった。  梅香館を離れ、紀宗は玲凛と二人で、高級の外庭を歩いた。  夏の終わりの季節は、夕刻になれば過ごしやすいが風吹いてた。  どうにも気に入らない小男の紀宗の後ろを、歩きにくい狭い歩幅でついていきながら、玲凛は周囲を見た。  夏の終わりの夕刻、玲凛の目に映るのは、三百年以上の歴史が積み上げた欲望と血の気配が漂う閉鎖的な空間だった。  梅香館のように整えられた表舞台の裏で、比べようもないほど広大な泥沼が広がっていた。果てしなく続く入り組んだ回廊。三百年もの間、改築と増築、修繕を繰り返してきた天輝殿と同様、後宮もまた広大で、複雑な構造に埋め尽くされていた  一つ、部屋の前を過ぎるごとに、静かな廊下の奥からは、まるですすり泣くような声が聞こえてきそうなほど、特有の暗がりが潜んでいた。  星兄様には地獄ね。  玲凛は冷静に思った。傀儡の声を聞くという犀星が、眉をひそめて脂汗を浮かべる様子が想像できた。  夏の終わりの長い夕陽が回廊に深く差し込み、景色を暖かな橙色に染め上げていた。だがその色も、憧憬や心の慰めより、中途半端に不安を掻き立てる、孤独を思い知らせる残酷さがあった。  玲凛の歩む道を、赤褐色の夕陽が染めた。  幾つもの大きな建物は細い回廊でつながり、互いに支えあって形を造る、まさに迷宮だった。  じりっと空気を焼く油灯と、漂う香。夕闇が迫るにつれ、壁沿いの窪みに設置された油灯の皿に役割の宦官が順に油を注いでいた。  それと同時に、石の隙間から突き出した香炉台からは、重苦しく淫靡な香りの煙が立ち上り、廊下の空気を淀んだ沼底のように変えていく。  玲凛は、香の匂いが嫌いだった。  それは、生き物の持つ本能を狂わせ、危険をぼかし、感覚を鈍らせる。しいては、命の危機にも直結する厄介な存在だった。玲凛が許せるのは、大切な玲陽のさりげない心遣いまでであった。  屋敷の壁には内側から御簾が下ろされており、日没とともに眠りにつくようだった。  御簾の影が、何かの拍子で玲凛の貫頭衣にゆらゆらと揺れた。  紀宗が向かう目的地は、後宮の中でも中央あたりに位置していた。  回廊の両側には、広い白土の広場が広がり、左右には二つの井戸と、三つの釜、そのそばには常に薪が用意され、小さな小屋には産婆が詰めていた。  それらの中央に、木の板を何枚も重ね、その内側に綿を貼り、さらに石で固めた、特殊な小屋があった。天井から垂れ下がった太い縄。壁に固定された金属の杭には、男が両端から引き合っても千切れないほど、丈夫な縄が結ばれていていた。中央はわずかに低くなり、人一人が横になれるだけの空間があった。空間の底の一部には蓋がされ、それを取り除くと、くぼみの中の水が一気に床下に流れる仕組みだった。  誰もが憧れ、得も言われぬ感情を抱くその小屋こそが、産屋だった。  穏やかなで健やかな出産を願うために呼ばれたのか、と思っていた玲凛は、さらに奥へ進む紀宗の後を、不満そうについていった。  現在使われている産屋より少し離れたところに、構造こそ大差ないが、明らかに荒れ果てた一室があった。  皇帝の妻が子を産むのだから、部屋は一つとは限らないだろう、と気楽に考えた玲凛だったが、紀宗の様子は明らかにおかしかった。 「ここは、呪われていおる」  紀宗は、いきなり、冗談でもないことを言った。 「この季節、ここでお産を迎えるものは、皆、流産や死産を繰り返すのだ。それまでどれほど健康であっても、だ。それゆえ昨年からは、もう、こちらは使われていない」 「一つあればいいじゃない」  玲凛はあまり深く考えていなかった。紀宗が顔をしかめた。 「妊婦は重なることがある。現在は、身分の高低でどこを使うかを決めているが、よくないことが続き過ぎれば、見過ごすことはできぬ。それに、最近では、この近くで怪しい人影を見た、何者かが赤子を殺しにくる、叫び声が聞こえる、など、常軌を逸した噂が頻繁で、誰もが怯えている」  そこまで聞けば、十分だった。  玲凛は腰に手を当てて胸を張った。 「つまり、私がその幽霊だか何だかを、綺麗に消してしまえばい言ってことよね」 「そうなる」  あっさりと紀宗は認めた。認めてから、すまなそうに顔を上げた。  紀宗はまず玲凛を、奥の産室へと直接連れて行った。  広々とした一帯に幾つもの産屋が点在していた。出産が近づくと、妊婦は時々の事情に応じて、ひとつの小屋を与えられた。  紀宗はまっすぐと、隅の方の扉のない産屋に向かった。  そこは華やかな女たちがいる表舞台と違い、奥まって忘れ去られたような小さな部屋だった。  木の板に敷かれた藁や綿、そして内側の崩れかけた石の壁。  玲凛は精一杯に周囲の気配に集中し、瘴気のかけらを拾い集めようと、見えないものを見るために自然と目を開いていた。  何人かの女が、興味を持ったらしく、物陰からこちらを覗いていた。  紀宗は部屋の前まで案内すると、顎で入り口を指した。 「この部屋を浄化できれば、そのままそなたが使うが良い」  玲凛は露骨に顔を歪めた。 「この部屋って産室でしょう? 私が住むわけにはいかないじゃない」 「ここの連中は疑り深い。清めたと言って、すぐに信じる者などおらぬ。そなたがここで暮らし、異変がないことを証明するのだ」 「あんたね、いくらなんでも、産室って……」 「呪われた場所で暮らすのが嫌ならば、自ら浄化せよ。そういうことだ」  玲凛は呆れ返った。やはり食えない男である。陰陽官はこれだから……  これは噂に違わぬ実情だった。  玲凛は部屋の四方を見渡しながら、一歩足を踏み入れた。腰の寿魔刀にはすでに手がかかっていた。だが、部屋を検分して、玲凛は首をかしげた。 「何がある?」  どこか期待したような紀宗の声に、玲凛は軽く睨みを返した。 「何もない」  彼女はきっぱりと言った。 「ここには恨みも妬みも、悲しみも、憎しみも怒りも何もない。綺麗なもんよ」 「そのようなはずはない」  紀宗は自らも部屋を覗き込んだ。 「なんでそんなことが言い切れるの?」  玲凛の方が逆に尋ねた。紀宗はわずかに目をそらして、 「これは玲妃の使ったもの……」  玲凛はしばらく考えて、言葉の意味に気づくなり、どきりとした。  玲姫とは、すなわち犀星の母、玲心のことだった。 「伯母上が……ここで壮絶な最期を遂げた」 「そうだ、身籠ってから精神を狂わせ、出産時には完全に正気を失っていた。常に縛られ、のたうちまわっていたという」 「その地獄の末に、ここで星兄様を産んだってこと?」  玲凛は、改めて丁寧に部屋を見た。 「ここに、叔母上が……」 「出産後、危うく玲親王を殺めるところだったが、そなたの母、玲芳がそれを止めた」 「詳しくは知らないけれど、伯母上はすぐに亡くなったって聞いてる」 「一刻もせずに狂い死にした」  何事でもないと言うように平然と言って退ける紀宗に、玲凛は腹立たしさよりも清々しささえ感じた。ここまで何も考えず、事実を事実のまま感情を抜いて話ができると、相当に楽だろうと思った。  紀宗は細い目をわずかに開き、 「あれだけの最期だったのだ。恨みつらみが残されていない方がおかしいだろう? あれ以来、ここを使うものは決まって難産だ。母子ともに助からぬことも多い。それゆえ、誰もが気味悪がって、ここには近づかぬ。女たちの間には、最近ここから泣き声や悲鳴が聞こえる、亡霊を見たとまで言う者もいる」  語りながら、紀宗自身が気味悪がっているのがよくわかった。 「あんた陰陽官でしょう」  玲凛は、世間話をするように切り出した。 「そんな噂なんか信じてどうするのよ。あんたはどうなの? ここに何かいると思うの?」 「わからん」  紀宗は肩をすくめたようだった。もともと小さい体が余計に縮んだ。玲凛は呆れた息をついた。 「あんた、よくそれで務まるわね」 「そなたは陰陽官を何だと思っておるのだ?」 「薄気味悪い連中。あと、いけすかない。それからあんたについては、陽兄様に酷いこと言ったから殴りたい」  矢継ぎ早に玲凛は本音を吐いた。 「それでも、一応、皇帝に仕えて、権力をもらって、偉そうにしているからには、何かできるんでしょう? 傀儡喰らいは無理だとしても、よくないものを鎮める、とか、接触を防ぐ、とか……」  紀宗はもう縮める肩もないと言う素振りだった。 「期待を裏切って申し訳ないが、陰陽官はそのようなものではない」  何度も同じ誤解を受けてきたのだろう、紀宗は言い慣れた口調で、 「我々はあくまでも陰陽のことわりにのっとり、物事を判断し儀式を取り行う。死んだ者の霊などは見えぬし、そなたが相手をする傀儡とやらとも出会ったことなどない。ただ儀式をするだけだ。古の書物に従い、粛々とな」 「その割には、あんたの周りには変なものが色々いるんだけど」 「おそらく代償であろう」  既に諦めているように、紀宗は遠くを見た。 「代償……そういえば、あんた、五亨庵の石巡りもやってたわよね。異変はないの?」

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