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14 雲間から(3)
「わしは先払いをしている。体の一部を捧げることで、生涯の厄から逃れておる。さもなくば、勤まらん」
玲凛はふと考え、微妙な表情を浮かべた。
「なるほど、それで宦官なんだ」
さすがの玲凛も、それ以上踏み込みはしなかった。
「じゃあ、紀宗様、ご報告します」
わざとらしく玲凛は姿勢を正して見せた。
「ここには何もいないわ。少なくとも、私は何も感じない。そう伝えても、まだ周りの人が恐れるようなら、見せかけだけの儀式をすればいい」
紀宗は顔を背け、
「儀式ならば何度もした。だが、奴らは信じない。まだ見えるとうるさい。ついには、私が力のない無能だとまで言いおる」
玲凛は苦笑した。
「それは飛んだとばっちりよね。本当に、何もいないんだから」
紀宗は唸って首を振った。玲凛は部屋の中を見回した。室内はうっすらと白く埃が積もり、隅には蜘蛛の巣がかかっていた。牀はすっかり乾いており、傍に置かれた交椅も床から生えたように重たくそこにあるだけだった。天井と床の染みは雨によるものか、雪解けの水か。長く放置された御簾は虫に食われて窓枠に粉となって散らばっていた。
玲凛は真顔になった。
「幽霊なんてね、人の心の中にいるのよ。そう簡単に誰にでも見えたら、玲家はこんなに苦労してない」
同じ玲家の血を継いでも、その力の差は個人によって大きく異なった。玲陽のように圧倒的な重荷を背負う者もいれば、玲凛のように寿魔刀なしでは何もできない者もいた。玲格のように己を見失って傀儡に魅入られたかと思えば、玲心のように自ら傀儡となり果てる者まで様々だった。
ただ一つ、不幸であるという一点だけは、悲しいほどに一致していた。
「人の心が招く幻覚、か。確かに、そなたが言うと説得力があるな」
紀宗は自戒も込めて呟いた。玲凛は憂さを晴らすように鼻を鳴らした。
「とりあえず、形だけの儀式はしてあげる。そうでもしなければ、女たちの思い込みは消えないだろうから。任せておいて。そういうはったりは得意なのよ」
さすが歌仙親王の従兄妹と言うべきか。
紀宗はかつて犀星に煮え湯を飲まされたことを思い出していた。やり返してやろうとも思ったが、当の緑権は今は温泉街の主人であった。
「女たちの間からその噂が消えたら、後は好きにさせてもらうから。それと、ここには住まないからちゃんとした部屋を用意して。あと、ここで一番偉い人から話が聞きたい」
「宇城様につなぐことを約束しよう」
「さっき、梅香館で御簾の向こうにいた人よね?」
玲凛はにやりと笑った。
ひと月にも満たない休息だった。
ある朝、突然に旦次が辰巳を訪れ、慌ただしく急かされて犀星たちは五亨庵へ戻った。旦次は、犀星を迎えに来たというよりも、むしろ、涼景を連れ戻すのに必死な様子だった。
蓮章が無理をしたか。
犀星はふと、心の底で思いながら、しかし、不思議と痛みはなかった。
辰巳で玲凛と交わしたわずかな言葉が、犀星の胸に蘇った。
山桜の名。五亨庵の石巡りとその代償。
それは決して看過できない決定的な事象であるはずなのに、心が思考を拒んでいた。
返ってきた忙しくも平和な日常が、永遠に続くように過ぎていた。
玲陽と慈圓が五亨庵を留守にして、近衛詰所にはいつもより一人だけ多く、二人の右近衛兵が詰めていた。東雨が全力で薪を割る音が、時折、中庭から聞こえてきた。
庵の中は静まり返り、空気はぴたりと動きを止めていた。
犀星は、自分の席からぼんやりと五つの石を眺めた。
几案に見え隠れする特徴のある岩肌が、こちらを覗いているかのように、犀星を見つめていた。
背後には、水の石がそっと佇んでいた。
玲凛が、後宮へ行きたい、と言い出したのは、五亨庵に戻ってすぐのことであった。
一度言い出したら決して引かない玲凛の性格を、犀星も十分にわかっていた。そしてそれが単なる思いつきや好奇心ではなく、玲家の血筋への、そして皇家の因縁への、決着をつけるための挑戦であることも、理解していた。
本来ならば、犀星が行わねばならないこと。
心の隅でそう思いながら、ずっと、遠ざけてきた責任である気がした。
「星兄様は、皇帝のことを、どう思っているんですか?」
去り際に問いかけられて、犀星は答えられなかった。玲凛は、犀星の迷いそのものを悟ったかのように、静かに笑って問い詰めなかった。
唇を噛んで耐えた沈黙。
あの瞬間の自分の胸中を、犀星は何度も反芻しては、やり場のない焦燥感に苛まれた。
幼い日、宝順が自分と犀遠を救ったことは、偽りのない真実であった。
そして今、宝順帝のために、東雨が、涼景が、そしておそらくは、犀星の知らない所で誰かが、理不尽をその身に受け、逃れがたい束縛の中でもがいていることもまた、真実なのである。
自分が受けた恩と、現在の出来事とが、どうしても相反していた。
何をもって、人を計ればよいのであろう。
玲凛に問われたとき、真っ先に犀星はそのことを考えた。繰り返し思い出すうちに、犀星は一つ、疑惑を胸に抱き始めていた。
もし、宝順が、今を見越して幼い犀星の心に楔を打っていたとしたら。
決して逆らえぬよう、命の枷と、ほどけぬ鎖で、封じてしまっていたとしたら。
策にはまるのは、犀星の好むところではない。
だが、何一つ確証がない。
ただ純粋に、宝順の純真さが、罠に落ちた哀れな一人の男と、望まれず生まれてしまった弟を慮っただけの優しさだったのではないか。
そうであって欲しいと、願い続けている自分がいた。
犀星は一瞬、思考を止めた。
願ってしまうとはすなわち、信じてはいない証明だった。
途端に思考が、がらがらと崩れ始めた。
表面が剥がれ落ち、内側から疑念が顔を出した。
何ゆえ、今、この時、自分はここにあるのか。
そして、玲凛が後宮で見つけるのは、どのような真実なのか。
胸騒ぎが、抑えきれなかった。
犀星は筆を置くと、静かに立ち上がった。
水の石に指先で触れ、口の中で祈りを呟いた。
そこから、木の石へと巡る。
ゆっくりと、たっぷりと気がすむまで時間をかけて、犀星は一つ一つ丁寧に歩みを進めた。
石に触れている間だけではない。
次の石へと進む、その時間もまた、祈りに満ちていた。
玲陽が癒されるよう。二人が永遠に共にいられるよう。
その願いは、石に宿り、歩みに宿り、呼吸に宿った。
石の巡りをするようになってしばらくして、犀星は自分に与えられた代償が何であるのか気づいた。
最初は思い違いかと疑ったが、今は確信に変わっていた。
記憶が抜け落ちていく。
以前は容易に思い出せたことが、今は空洞となっていた。誰かがそのことを話題にしても、何のことかわからないこともしばしばあった。
しかもそれは、公的な物事ではなく、極めて私的な記憶。いや、記憶よりももっと深い、思い出と呼べるものだった。
その喪失感は、想像するより残酷だった。
周りは皆、覚えていて、笑顔を向けてくれるというのに、自分が返すのはただの作り笑いに過ぎないのだ。
今はまだ、誰もそのことに気づいてはいない。
気づかれてはならない。
ふと、玲陽の言葉が思い出された。
『良くないことが起きたら、すぐにやめるように』
あの時の玲陽の顔は、まだ思い出すことができた。
これを伝えれば、石巡りを止められるだろう。
だが、自分がこの巡りを辞めた時、玲陽の身に何が起きるか、五亨庵に何が起きるか、その方が恐ろしかった。
紀宗が言ったように、この世界が狂ってしまうのかもしれない。
犀星にとって、守るべきものは玲陽ただ一人である。
だが、人が生きるには、思うよりも多くのものを必要とする。
命、肉体、記憶、包む人々、静かに眠れる時間、世界を美しいと感じる安らぎ。すべてが玲陽の一部なのだ。
その何もかもを、守りたかった。
犀星の代償を知れば、玲陽は言うだろう。
そんなものはいらない。
あなたさえいればいい。
その答えさえ、容易に犀星には想像がついた。胸が苦しく、道に迷うように不安だった。
犀星は長くかけて石を巡り終え、中央の石畳に立った。五亨庵の中心で、犀星は胸に手を当て、目を閉じた。ふわりと暖かな風がまとわりついた。
これは五亨庵の呼吸なのだと、犀星は思っていた。
自分がこの地に石を見つけ、庵を建て、願いを込めた。
あの山桜、祇桜に導かれて。
そのために玲陽の力に目覚め、五亨庵と深くつながり、新月の光に侵された。傀儡の浄化は、五亨庵の力となって庵に宿り、結界を成し、それが犀星を守る盾となった。
犀星が招いた災いの果てに、今があった。
奏鳴宮で、夕泉に告げられたことが、次々と心をよぎった。犀星が懺悔するより先に、玲陽は犀星を見つめ、ただ一言だけ言った。
『あなたが自分を責めるのは、嫌です』
それは犀星の全てを許し、飲み込み、受け入れ、抱きしめ、自らの一部として共に背負い、同時に未来もまた縛る、その決意の表れだった。
犀星は知らず知らずに、自分の肩を両腕で抱いていた。
玲陽に未来を捧げる。
思い出が削られたとしても、今がある。
この瞬間から明日へ、その次の朝へ。失われるよりも多くのものを築いていけば良い。
前を見ろ。
犀星は自らを叱咤した。
今ここで泣き崩れても、途方に暮れても、過去は消えない。
まっさらな未来だけが、希望だった。
誰かが思い出を奪うというのなら、自分は新たに生み出していけば良い。
未来が、犀星の味方だった。
心の底に舞い上がっていた泥が、静かに沈み始めていた。澄んだ水が、優しく胸を撫でた。
と、不意に風の気配が変わった。
犀星は静かに目を開けた。
五亨庵に、誰かが入ってきた気配は無い。
だが、何かが違う。
景色がぼんやりと揺らいで見えた。
自分の目がおかしくなったのか、それとも本当に何かが起きているのか、定かではない。
すすり泣く声が、どこからか聞こえた。
また傀儡か……いや、これは人の声だ。
直感的に犀星は悟った。
視線が、絡みついた。
素早く周囲を見渡した。だが、誰の姿も見つけることもできなかった。
「東雨か?」
思わず犀星は声にした。
隠れて、どこからか自分を脅かす気なのではないかと、わずかに期待したが、反応はなかった。
「陽?」
犀星は、内扉を振り返った。
だが、大切な人の返事は得られなかった。
「誰だ!」
誰もいない空間に、犀星は一人、声を上げた。
途端に、すすり泣きの声が、けたたましい笑い声になって高まり、ふっと消えた。
ゾッとして、犀星は膝をついた。
その声には、明らかに聞き覚えがあった。
静寂が庵の中を支配し、犀星の浅い乱れた呼吸が、時の流れに霞んでいった。
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