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15 烈火なるも涼(1)
夏の日差しがうざったかった。
わずかな風を求めて、暁演武の練兵場の軒先に出てきた蓮章は、小手をかざして雲ひとつない空を見た。
夕立でもあれば涼しくなるのに。
空は地平まで晴れて、重なる都の街並みがゆらゆらと揺れていた。
日陰の長榻に腰掛け、膝に肘をついて背を丸め、髪を掻き上げた。湿った肌は冷たいのに、胸の中は火のようだった。
そっと頬を撫でて、叩いたばかりの化粧の粉を馴染ませた。薄くなった肉の感触が、自分の顔ではない手触りを指先に残した。
練兵場では、数十名の兵士たちが、有り余る力をぶつけて声を張り上げ、訓練に励んでいた。
いつから、あんなに熱心になったんだか。
蓮章は半分閉じた瞼の奥から、その景色を眺めた。
期待していたほどに風はなく、むしろ、むき出しの土から立ち上る熱気で、灼かれているような気さえした。
暑くて、寒い。
次から次へと、蓮章の心に不満の泡が浮かんでは、消えていった。
心が、重たかった。
時が経ち、宮中は一時の平穏を取り戻した。そこに、蓮章が果たした功績は大きかった。だというのに、気持ちは全く晴れなかった。
五亨庵も静かだった。それは、ある意味、嵐の前を意味していた。
次の雨まで、俺はもたないかもしれない。
蓮章はそっと、自らの手首を押さえた。かすかに脈動があった。
ひときわ大きな歓声が上がって、何人かが、表門の方へ駆け出していった。自然とそれを目で追って、蓮章は乾いた喉に唾を飲み込んだ。
駆け寄ってきた隊士たちにもみくちゃにされながら、涼景が精一杯にこちらに首を伸ばすのが見えた。自分でも気付かぬうちに、蓮章は笑みを浮かべていた。
「蓮、無事か!」
答えるより先に、涼景は蓮章に駆け寄ると、肩を抱きしめた。声も出ず、蓮章は目を見開き、そして閉じた。
「あいつ、おまえの居所を言わないから、何かあったんじゃないかと……」
肩が軋むほどの涼景の力に、蓮章はため息を漏らして身体を緩めた。懐かしい匂いに、夏の暑さも身体の冷たさも、すべてを忘れていた。
「涼……」
腕を回すと、記憶以上にたくましい体があった。思わずしがみついた指先が背に食い込んだが、涼景は逃げることなく、されるに任せていた。
「蓮、会いたかった」
耳に直接、ささやかれる声。
久しくなかった生きている実感が、蓮章を現実に引き戻した。恐る恐る横目で見れば、案の定、にやついた隊士たちの視線が濁流のようにこちらに注がれていた。
一瞬、蓮章の顔が輝き、それから急に沈み込んだ。
「涼、やめておけ」
心と裏腹の言葉が出るのは、いつものことだった。
「このまま、人前で抱かれたいか?」
本気の一言に、涼景は逆に力を込めた。
「やれるものなら、やってみろ」
涼景には蓮章の不調が一目でわかっていた。
「おまえ、壊れてしまいそうだ」
「…………」
違和感を感じて、涼景は眉を寄せた。
こういう時、蓮章は決まって白を切るのだ。どれほど調子が落ちていても、涼景の前では意地を張る。それは、涼景とて同じだった。
それが今、蓮章は無言で返した。
涼景はそっと体の間に隙間を作ると、それを埋めるように蓮章を覗き込んだ。
二人だけの空間が愛おしく、手放せない衝動がこみ上げた。
「どうして、姿を隠していた?」
寂しさをあらわに、涼景は嘆いた。
「あいつも居所を言わないし、どれだけ心配したと思ってる?」
「さすがに少し、疲れただけ。おまえこそ、平気か?」
鼻先が触れるほどに顔を寄せて、涼景の頬を手のひらで包み、蓮章はそっとささやいた。
「俺ならおまえよりはるかにましだ。おかげさまで、然韋もおとなしくしているし、備拓様も夕泉の動きを伝えてくる。当分は静かだろう」
「そうか。それは何よりだ」
蓮章の声は、少しも安堵していはいなかった。涼景は蓮章の頭をさらに引き寄せた。
「蓮、まさかとは思うが、俺に隠れて、動いているんじゃないだろうな」
「何の話だよ。俺にだって休息は必要ってだけだのことだ」
蓮章はさらりとかわしたが、涼景は声をひそめた。
「あいつが表に出すぎている。可哀想だが、破綻する前に戻ってくれ」
「そうならないよう、おまえがうまくやってくれ」
「そろそろ限界だ。俺は、おまえじゃないと……」
蓮章はわざと顔を近づけ、涼景は息を飲んだ。今ならば、何もかも叶いそうなほどに、涼景は隙を与えてくれていた。それは、蓮章も同じだった。だが、ふたりを取り巻く仲間たちの野次だけが願望を願望のままに打ち砕いた。
「真昼間から見せつけるのは勘弁してくれ」
重たい音を響かせて、荷車を押してきた旦次が怒鳴った。展開を期待していた数名が文句を言ったが、旦次は一喝して黙らせた。
苦々しくそれを聞いていた涼景の頬に、突然、蓮章が唇を当てた。
右頬の、傷の上だった。
あまりのことに、涼景は動くこともできず、わずかに肌を震わせてじっと蓮章の体を掴んでいた。
柔らかく湿った舌先が、丁寧に傷跡を舐め辿った。
涼景は完全に思考が吹き飛んだ。
長い付き合いの中で、このようなことは初めてだった。
蓮章は目を閉じ、まるで神聖な儀式ででもあるかのように続けた。
物見高い暁隊士たちが、興奮した顔で互いに小突き合いながら、二人を取り囲んで囃し立てた。
涼景と蓮章の親密な噂は、疑惑を超えた事実として、まかり通っていた。だが、実際に二人のふれあいを見ることはなく、いつも絶妙な距離感で寄り添う姿しか確認できなかった。
それが今、白日と衆目の中で、惜しげもなく露わにされていた。
蓮章は固く盛り上がった傷跡を唇で甘く噛んで、名残を惜しむように頬を摺り寄せた。
「忘れるな」
涼景にだけ聞こえる声を、蓮章は直接耳の奥へ吹きかけた。
手放すまいと、涼景は激しい息を一つ吐いて、蓮章の頭を掻き抱いた。横顔が重なり、すべてを共有する安心感が二人を包んだ。
夏の日は、果てしなく続くかに思われた。
「仙水、梨花、いい加減にしろ。そんなに恋しいなら、今夜、二人にしてやるから、今は堪えろ」
旦次が苦虫を噛み潰した顔で、二人を見下ろした。
「せっかく最近、隊士たちが少しはまともになってきたってのに……」
旦次は、荷車を目で示した。
「そんなことしてる暇があるなら、これを天輝殿に届けてくれないか?」
なし崩しに雰囲気を破壊されて、涼景は体を起こした。それでも、蓮章の肩に置いた手はそのままだった。
「なんだ、それは?」
荷車には、見事な体躯の牡鹿が積まれていた。
「凛からの注文だ。三歳の牡鹿を全力で捉えよ。あと、藁だとか鋸だとか色々……」
「物騒だな……」
蓮章が、ぼんやりとつぶやいた。旦次も頭を掻きながら、
「なんでも、儀式に使うから上等の物を用意しろ、とか」
「儀式?」
涼景は眉をしかめたが、蓮章の肩は離さなかった。
「なぁ、蓮。凛のやつ、裏で何をやっているんだよ?」
蓮章は先ほどまでの熱を忘れるように、顔を背けた。
「俺が知るかよ。あいつの考えなんか、わかるわけがない」
そうだ、俺には、おまえさえ、見えていないのだから。
蓮章はそっと、涼景の手を撫でた。この温もりの奥にあるものの名前さえ、わからなかった。
寂しさが、ふっと吐息に混ざった。
暁隊から届けられた三歳の牡鹿は、玲凛の満足する大物であった。
「あいつら、腕を上げたわね」
最低限の傷で仕留められた鹿を見て、玲凛は不敵に笑った。
いつもなら紀宗が乗るような立派な輿に乗せられ、牡鹿は後宮の奥深く、梅香館をすぎて、噂の産屋の前へと運ばれてきた。
てっきり、紀宗がまた祈祷を行うためにやってきたのか、と興味もなく眺めていた妾や側室たちは、手足をきちんと括られて立派な角を蓄えた巨大な獣の姿を見て、悲鳴を上げて腰を抜かした。騒ぎが騒ぎを生み、牡鹿と玲凛の通り道は、さながら敵の奇襲を受けた本陣のように騒然となった。
玲凛は産屋の前に鹿を横たえると、足を肩幅に広げてその前に立った。
玲凛の背後には、怖いもの見たさの女たちが互いの着物の裾を踏みながら、大変な人だかりを作っていた。すでに、身分も序列もなく、気の強い者は前に乗り出し、その陰から押し合いながら少しでも儀式を見ようと皆が群らがった。
玲凛は背中に十分な人の息を感じて、ほくそ笑んだ。
「では、これから、皆さんが怖がっているものを、全部、吹き飛ばしてあげる」
人だかりの隅で、紀宗が顔を歪めた。
さほど期待はしていなかったが。
紀宗のわずかな期待すら、玲凛が叶えることはなかった。陰陽官に伝わる儀式の礼法を、この自由奔放な娘が知るはずもないのだった。
鹿の血は、玲凛の弟子たちによってしっかりと抜かれていた。袖と裾を紐でたくし上げて、見事な肉体美を晒しながら、玲凛は|鋸《のこ》を日にかざした。
「さぁ、よく見ていてよ。見ればみるほど、ご利益があるから」
そんな馬鹿な。
紀宗のため息は、女たちの悲鳴にかき消された。
玲凛の動きに迷いはなかった。首の付け根に鋸を当てると、絶妙な力加減で皮を回し切った。そこから片足で鹿の肩を固定し、見事な手つきで頚椎を切り落とした。ごとり、と傾いた首に、女たちから絶叫が上がり、何人かが気を失った。
「いいわね。その調子」
玲凛が、まるで計画通りだ、というように、女たちを振り返った。跳ねた血が飛んで頬を点々と染めているのを見て、また、ふたりが倒れた。
「今、気を失った人たちは、もう、大丈夫。加護がついたわよ。さぁ、どんどん倒れて!」
紀宗は思わず顔を背けた。
玲凛は鹿の首を産屋の入り口に据えた。首のない胴体の断面を見て、前列の女が目を覆った。
「ちゃんと見ていなきゃだめよ」
玲凛は小刀に持ち変えると、後肢の足首に切り込みを入れ、そこから刃先を皮と肉の間に滑り込ませた。はじめは何をしているのかわからなかった女たちも、次第にむき出しにされていく肉の色に反して青ざめ、顔を手で覆いながら、隙間から興味ありげに様子を覗いた。
最低限の切開で剥ぎ取られた鮮やかな鹿の子の皮が、敷物のように女たちの前に広げられた。まとわりつく匂いが風に乗って鼻を突き、何人かがまた、目を回した。
白磁の器の中で上品に煮詰められた鹿肉しか知らない女たちは、目の前の四つ足をした生々しい姿を、食い入るように見つめていた。
筋肉の繊維と黄色みがかった太い腱、縞模様に走った血管と脂身の透ける白が、日差しに照り映えて強烈に存在感を示していた。
手を休めることなく、玲凛は一人で解体を続けた。
「この気温だから、早くやってしまわないと」
その言葉の意味に、何人かがふらついた。
内臓を傷つけないよう、慎重に腹膜を切り開くと、途端に臭気が跳ね上がった。文字通り、息をすることもできなくなった者たちが狼狽え、後退った。反対に、玲凛の手元を少しでも見ようと、近づいてくる者もあった。
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