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15 烈火なるも涼(2)
玲凛は一通り小刀を振るうと、素手で腑を探った。体重をかけて、胃や腸をひとまとめにして外へ引き摺り出し、用意していた樽の中へと収めた。すでに叫び声を上げることもできず、袖で鼻を包んで眉を顰め、女たちは全てを見届けようと瞬きも忘れていた。
玲凛はさらに体内に手を突っ込んで何かを掴んだ。引き出された腕は凝固した血の塊と色に二の腕まで染まり、その細い指には、鷲掴みに心臓が握られていた。ぎょっとして、その光景に誰もが息を呑んだ。
「肝は特によく効くわ」
何に効く、とはあえて言わず、玲凛は別のたらいに肝を分けた。
汲み置いていた水で素早く血を洗い流すと、再び小刀で関節に沿って腱を切り離し、前肢と後肢を胴体から外した。
本来であれば相当な重労働のはずだったが、鹿の体を知り尽くした玲凛は、最低限の力でその構造を利用し、驚くべき正確さと速さでそれを成し遂げていった。
幸いなことに、産屋のそばには井戸も竈も薪も揃っていた。出産を助けるはずのこの設備が、今は玲凛の味方だった。
玲凛は軽々と井戸から桶いっぱいの水を汲んで、自分が浴びた血と後ろ足に残った血を、一気に流した。
「では、いただきましょうか」
女たちは顔を見合わせた。玲凛は鹿の頭から袋角を外し、器用に薪と麻紐で土台を作って竈の両端に固定した。そして、枝分かれした角の股に後ろ足の骨を乗せ、下から竈の火で炙り始めた。
臓物の匂いが次第と薄れ、かわりに、香ばしく焼けた肉の匂いが漂い始めた。まるで野営の食事のように、表面の焼けた肉を刀で削いで、木板に並べながら、
「さぁ、どうぞ。これを食べれば、もう、怖い思いなんかしなくなるわよ」
ごくり、と、何人もが喉を鳴らした。
互いに様子を探っていたが、すぐに我慢できなくなった一人が肉に手を伸ばした。 恐る恐る口に含み、目を閉じて飲み込むと、女は何かが吹っ切れたように表情が明るくなった。
「美味しいでしょ」
玲凛は次々と焼き進めながら、にっこりと笑った。
先ほどまで、獣の血と腐臭にまみれていたとは思えない、清々しく可憐な笑顔だった。
堰を切ったように肉に駆け寄る女たちを、紀宗は冷や汗にまみれて見守っていた。とても食欲など湧くはずがなく、ただひたすら、玲家の血の恐ろしさに身の毛がよだった。
玲凛は鮮やかに、女たちの妄想を現実の強烈な体験で塗り替えた。すでに幽霊を恐れる者はいなかった。
翌日の昼には、件の産屋の屋根に奇妙な案山子が掲げられていた。
案山子は玲凛と同じ貫頭衣を纏い、懐には大量の藁が詰められて着膨れしていた。布袋で作られた顔には、狐とも猪ともわからない化粧がされていた。玲凛が自ら作り上げた魔除けの案山子の両腕は、鹿の角だった。
玲凛の破天荒ぶりは、歌仙も都も、そして後宮でも、変わることはなかった。薫風と離れ、大太刀を失ってもなお、玲凛は玲凛のままであった。
むしろ、体一つとなった今こそ、その真価を発揮するように自由でさえあった。
紀宗が与える情報だけで満足するはずもなく、玲凛は昼には出入りが厳しい場所にまで、闇に紛れてさまよい歩いた。
後宮は、まるで迷宮である。
大部屋があるかと思えば、その隙間に小部屋があり、さらに奥の壁の向こうには、また別の通路へと続く回路が長く横たわっている。
明かりは最小限で、昼間は隙間からの日の光が差すものの、夜となれば身動きも取れない。夜に出歩くのなら、必ず行灯が必要になる。それは逆に、自分の存在を知らせてしまう。
屋外ならば、どれほど暗くともやがて目が慣れ、わずかな星明かりで道を知ることができた。
森を歩く時でさえ、臭いと音と風の気配、足裏から伝わる地面の感触が助けてくれた。
だが、宮殿の内部ではそれすらない。どこも同じような景色が続く。
宵闇を自在に動ける玲凛の、本領が試されていた。
玲凛は、密かに一つの方法を試みていた。
玲凛は先だって、鹿の角の先端を切り取りこっそりと手元に忍ばせていた。たとえ見つかったとしても、厄除けだと言い張るつもりだった。
鋭利な角は、柱の隅に小さな傷をつけるのにうってつけだった。夜、手探りでも、その傷の数を数えれば、自分の位置を把握できた。
三百年の歴史を誇る天輝殿の由緒ある柱も、床も、梁も、彼女にとっては道を記すための木簡に過ぎなかった。
玲凛はそっと笑みをこぼした。
今日は早い時間に宝順の|侍寝《じしん》があって、後宮内は一時、騒がしくなった。妾や側室が、十数名、列を作って部屋へと連れて行かれるのを、玲凛も柱の陰からこっそりと見た。
宝順にとって、女は子を産むための器に過ぎなかった。親しくなった妾たちの話によれば、その扱いは特殊だった。並べられた女たちには、仰向けに寝かされ、腹を湿布で温められた。その場で採取した宝順の体液が特殊な薬液で薄められ、一人ずつ腹の奥に竹筒で流し込んで注入されるのだという。役目はそれだけだった。あとは体に馴染むまで放置され、時が過ぎれば部屋に戻される。誰も、宝順に触れることさえなく、宝順もそれを望むことはない。
血筋を残す道具であることは、皇帝もまた、同じなのかもしれなかった。
玲凛は都にいた時のように、慣れた着物を着込んだ。
角の破片を、帯の間にひそませ、動きやすいように締め方を緩め、歩幅を広げた。
陽兄様が見たら、心配するだろうな。
懐かしい兄の笑顔が浮かんできて、一瞬、目頭が熱くなった。
はだけた着物の裾から足が覗いても、明かりのないこの場所では、誰も咎めようがなかった。
玲凛は、自分の部屋の入り口あたりを手探りした。すぐ先に、見張りの宦官がうつらうつらしている呼吸が聞こえた。
今夜は、左へ行ってみよう。
そう決めると、玲凛は左手を壁に押し当てて、歩数を数えながら進んだ。
昼間は、それなりにやることが詰まっていた。女たちにせがまれて武術の型を見せる振りをして稽古を欠かさなかった。あくびを押し殺して彼女たちの茶飲話に付き合い、情報を引き出そうと悪戦苦闘もした。だが、玲凛が欲しい皇帝の血脈に関わる情報は、そう簡単に聞こえてはこなかった。
それでも、玲凛には諦めるという選択肢はなかった。今できることを全てやること。それだけだった。
こうやって夜ごとにうろつき、建物の構造を体で覚えていくのが、今の玲凛の役割だった。
頭の中には、後宮内の地図が正確に描かれていた。それは、有事において絶対に欠くべからざる情報だった。
何より、もっと多くのことが知りたい。
昼間よりも、夜の方が秘密がこぼれやすい。
玲凛は、通路ごとにつけた印を頼りに先へ進んだ。
一見まっすぐに見える回廊は、実はわずかに湾曲し、方向感覚が狂うようにできていた。
それに気づいたのは、歩き始めて、三日ほどしてからのことだった。
足元も、平坦ではなかった。所々にわざと段差があり、歩調が乱れるように作られていた。
何も知らずにここを駆け通せば、足がもつれて転倒するのは明らかだった。
いざ戦場になっても、容易に奥へは進めないよう、最深の宮は巧みに作り上げられていた。
これはおそらく後宮に限ったことではなく、天輝殿のあらゆるところに当てはまる特徴だった。
表側の謁見室や回廊、内儀場、多くの者たちがよく出入りする場所は、直線的で見通しも良く、開けた印象があった。それは警備のしやすさ、視覚的な威圧感のためと考えられた。
だが、中殿より奥に入れば、そこはまさに人を欺くための罠が縦横に張り巡らされていた。
蓮章が欲しがっていたのは、この場所の情報であった。
まずは頭の中に全てを描く。
問題は、それをどのような手段で外へ伝えるかである。それについて、一つ、玲凛に案があった。
今は、正確な情報が優先。
玲凛は手応えを感じながら、また一歩、歩み出した。
宝順が中殿より奥に姿を隠した後、その先で何が起きているかは、表の世界では知るよしもない。石の間より奥となると、どのように通路が分かれ、どこに通じているのか、誰にもわからなかった。涼景や蓮章はおろか、禁軍の長である然韋ですら知りえないことだった。後宮は区画ごとに宦官長が管理し、他の区画の情報が漏れることはなかった。それらの全てを束ねているのが、正妻である宇城、ただ一人だった。
あくまでも、外を守るのが、男の役割であった。それより先は、宦官が勤めを代わって担った。そして、元締めの正妻が、表に出てくる事は無い。
玲凛が接触すべきは、蓮章たちでは触れることのできない、正妻・宇城である。
どこから手をつけるべきか。
慣れない女社会の煩わしさに調子が狂い、呼吸とも言うべき刀も奪われ、玲凛はもどかしさに苛まれながら、それでも天性の勘を働かせた。
手がかりは、必ずあるはずだ。
あれこれと事情をつけて、紀宗はいつまでも、宇城との会見を先延ばしにしていた。紀宗の都合を待っている玲凛ではない。
執念深く、玲凛は周囲に注意を向け続けた。それは闇夜に素手で狩りをするより難しかった。
日が過ぎ、玲凛はあることに気がついた。
女たちが宝順に呼ばれる際に通る楼閣の道。その途中に、表に張り出した広縁があった。そこには、いつも同じ人影が、じっと背を向けて立っていた。
始めは、ただの偶然かと思ったが、どうもそうではないらしい。
着物は違えども、背格好から同じ人物である事はわかった。
毎日毎日、自分の後ろを女たちが連れられていくのを、背中だけで見守っている女。
玲凛には、彼女が普通の側室や妾とは思われなかった。
あの人と話がしてみたい。
玲凛の狙いは、明確だった。目的が定まれば、歩みはより確かになった。未踏の地図を開拓するのではなく、明らかになった地図の一点を目指して颯爽と玲凛は闇の中を進んだ。指先で確かめる傷の印、数える歩数、日によって違う、巡回の宦官の気配。何もかもを素早く把握し、すり抜けていく。
やがて、薄い霞のような光が、景色にぼんやりと滲んできた。行く手の天井が開けて、夜空の光が差し込まれていた。
玲凛は歩みを緩め、やがて、広縁の手前だ立ち止まった。
このような時刻、部屋からの外出は禁止されていた。
自分の他にその禁を破る者がいるとすれば、それは余程の事情か、誰にも咎を受けない者に限られた。
広縁の中程で、こちらに背を向けて、あの女が立っていた。脇には四人の宦官と、二人の侍女がわずかに首を垂れて付き従っていた。足元に行灯が置かれていたが、火は消えていた。
暗く沈んだ藍色の着物と、わずかに色の薄い広い裾の裳が、広縁の床板に広がっていた。高く結った髷が、幅のある髪帯と二筋の簪でまとめられていた。
「あの?」
玲凛は小さく首を傾げてから、思い切って声をかけた。
驚いた様子もなく、流れるように女は半分、振り返った。
「突然、すみません。ちょっと通りかかったので」
ありえない理由を口走って、玲凛は取り巻きたちを見回した。わずかに目配せしただけで、誰も、玲凛を遮ることはなかった。
「あなたは、玲親王のお従兄妹君でしたね」
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