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15 烈火なるも涼(3)

 想像していたよりも柔らかい声が、先に言った。 「玲仲咲です。今は、寿魔内侍ってことで……」  ざっくりと説明を省略して、玲凛はまた少し近づいた。 「心得ています」  女が言った。 「先日、瑞香館で御簾越しに拝見いたしました」 「御簾? では、あなたが正室……ご正室でいらっしゃる……宇城様ですか?」  まどろっこしい。  言葉遣いに苦慮しながら、玲凛はどうにか言いたいことを口にした。  宇城の気配は優しかった。  故郷の母を思い出して、玲凛はふと心が緩んだ。周りの反応を伺いながら玲凛は続けた。 「宇城様はここで何をしてらっしゃるんですか?」  従者たちはちらりと抗議の目を開けた。  このような目は、いつものことだ。  玲凛は、今更気にすることはやめていた。それよりも、ここまで肉迫したからには、宇城の知る天輝殿の、皇家の隠す何かを知りたかった。 「夜に部屋を出てはいけない、ときつく言われています。けれど、この様子だと、宇城様は慣れていらっしゃるみたい。他の人たちに外出を禁止しているのは、宇城様が一人で自由に歩き回るため。違いますか?  玲凛は毅然として言い切った。宇城は少し俯いた。その仕草は本当に玲芳を見るようだった。娘の際限のない暴走を嘆き、それでもどこか許していた、温厚な母の面影があった。 「さすがは、玲親王の御縁者ですね。聞きにくいことをはっきりおっしゃる」 「星兄様に会ったことがあるんですか?」 「いいえ。私は後宮を出ることはできませんし、男性はこちらへ来られませんから」  玲凛は、その鉄則を思い出した。宇城は、寛いだ口調で、 「けれど、お噂は、かねがね、ここにも届いてきます」 「噂……さぞ、大きく成長してやってくるんでしょうね」  玲凛は苦笑した。 「あてにならないものを、あてにするのは、身を滅ぼします」  この言葉には、さすがに従者たちが、どよめき立った。ただ、宇城だけは意外にも幼い声色で軽く笑った。  玲凛はほっと息をついた。  宝順帝の正妻、後宮の支配者、という肩書きからは想像できない、穏やかで話のわかる落ち着いた女性の印象が強かった。  なんだか、いい人みたい、と玲凛は素直に思った。  宇城には、他の側室たちが纏うような邪気がなかった。嫉妬や悲しみ、苦悩、それらが残した痕跡は、確かに心の傷として残っているようだったが、表面は乾いていて、とっくに水気を失っていた。干上がった感情の川底が、その心を幾筋もえぐっていたが、そこに水の匂いはなかった。 「辛いこと、たくさん乗り越えてきたのですね」  玲凛は思ったことを言葉にした。 「乗り越えた、などと大げさなものではありません」  宇城もまた、正直に言った。 「私は今でも、縛られています。けれど、心の干し方を覚えてしまったようです」  玲凛は、そこに宇城の強さを見た。  感情を失わず、それでいて流されない。  必要ならば激流を呼ぶこともできようが、その水脈は完全に宇城の意思によって支配され、制御されているようだった。  本当に、強い人なんだ。  玲凛は、心底、そう、思った。同時に、それだけの境地に至るには、核心となる何かに触れている可能性があることを期待した。 「宇城様は、ご正室、つまり、後宮で一番、偉い方なんですよね?」  曖昧にできないことを、玲凛は確かめた。従者たちは玲凛の性格をすでに察し、諦めたのか、大きな反応は示さなかった。そもそも、宇城が寛容であることが、従者たちの警戒の閾値を下げているとも言えた。 「何を持って偉いと表するのか、わかりかねますが、位で言えば確かに一番上になります」 「一番位が上なら、全員に言うことを聞かせられるんじゃないですか?」  玲凛の質問はまっすぐで明快だった。宇城はには、幼子のような問いを笑って受け取る余裕があった。  玲凛はすっかり星明かりに目が慣れて、細部まで、宇城の様子を見てとることができた。エリには黒糸の蔦模様の刺繍があった。腰の帯には質素な玉飾りが一つだけ、揺れていた。それは、宇城のような身分の者が身につけるには、少々、物足りないような気もした。  全体的に簡素で、犀星を思い出させた。  後宮で最も位が高い妻なのだから、もっと豪華絢爛で重たい揺れものをぶら下げている姿を思い描いていたが、実際には真逆だった。 「一番偉い、というのが人を動かせることだとしたなら、私は偉くありませんね」 「宇城様でも自由にならないことがあると言う意味ですか?」 「自由になることの方が少ない位です」 「自由になるのはどんなことですか?」  玲凛はさらに質問を重ねた。浮きは少し考えてから、 「身に付ける。着物の色や簪、くらいですかね」 「好きなものも食べられないんですか?」  すぐに食欲に話が飛んだ。 「食事は皆用意されています。私の体調を良くするのも悪くするのも他の誰かです」 「体調だけじゃはないです。好きなものを食べたら幸せな気持ちになるし、楽しくなるじゃないですか」 「確かにそうですね。あなたの焼いた鹿の肉は、大変美味しかったですもの」 「食べたんですか?」  玲凛は、少し驚いて言った。宇城は目尻に細かな皺を寄せて笑った。 「肝を、頂きました」  その笑顔は、世辞ではなかった。  玲凛は、普段の食事を思い出した。玲凛は妾たちと一緒に、広い食堂で好きに食べることを許されていた。自分の好みに合わせて大皿から自分で取り分け、好きに選べた。  だが、それは身分が高くなるにつれて、許されない形式だった。正室ともなれば、そのわずかな楽しみすらない。決められた時刻、決められた膳、決められた薬。与えられるものを受け入れるだけの食事だった。 「私は家のものですから」  宇城は言った。 「でも心配はしていませんの。私の実家は私がここにいる限り安泰です。私に対して良くない事はしないと信じております」  後宮では、女は生まれた家に所属する、と聞いていた。  宇城は家の代表として後宮に入り、家の命運を背負って、今の地位を守られなばならなかった。それを拒むことは、家族のすべてに不幸な運命が待っていることを意味していた。  一瞬、玲凛は玲心のことを思い出した。  どうして自分の生家は、玲心が後宮に入ることをあれほどに拒んだのか。  それは血を奪われることだけではなかった。玲家という家を皇家に侵略されることに対する激しい血の敵対だった。  その絶対的な閉塞状態の中で、玲心はどんな思いでここにいたいのか。女を人とは扱わない無機質な体液の受託、その末に犀星を身ごもり、あの産屋で心を病みながら拘束されたまま産月を迎え、壮絶な出産の末に手ずから赤子を床に叩きつけようとした狂気。そして直後に産後の出血が止まらず、叫び声をあげながら絶命した問いう最期。  玲芳はその一部始終を見ていた。  玲凛には、知らず知らずのうちに、当時の話が断片的に与えられ、やがては一つの時間軸の事実として、心に刻まれていた。  宇城であろうと、玲心であろうと、それが正常な、自由な生涯であるとはとても思われなかった。 「宇城様」  玲凛はもう、すぐそばに立っていた。  そして、姿勢を正して宇城の顔を見た。  女性同士の間に、階級による目線の制限はなかった。 「私は、知りたいことがあって、後宮に来ました」  玲凛は正直に言った。 「私は、玲家の血と皇家の血が、複雑に絡んでいるように思えてなりません。私自身は、血の力に支配されることはありませんが、私の大切な人たちにとって、それは本当に深い問題なんです。どうか、皇家の血について、ご存知のことを、すべて、教えてくださいませんか?」  従者の中に、小さく抗議の咳払いをする者もいた。はっきりと言わないにしても、明らかに戸惑いと嫌悪が行き来していた。  玲凛であろうと他の誰であろうと、踏み込んだ好奇心は、排除すべき者だった。  だが、宇城はそんな従者たちを視線だけで寝らせた。それから、玲凛にまっすぐに体を向けた。 「皇帝陛下の血筋には、何か、ある。あれは、普通の人間ではない」 「あなたは、陛下にお会いしたことが?」 「いいえ、ありません」  玲凛は言った。 「けれど、噂のせいでせいではありません。詳しくは言えませんが、皇帝陛下と同じ地に連なりを持つ者たちが、玲家の力にも関係するところで、異常な反応を示しています。無関係とは思われず、隠されている者があるのなら、それを知りたいと思ったのです」 「知って、どうするのですか?」  当然とも言える問いに、玲凛ははっきりと、 「私の大切な人たちの邪魔は、させません。必要ならば断ち切り、封殺します」  従者が思わず動揺の声をあげたが、再び、宇城がそれを制した。じっと、宇城は玲凛の目を品定めするように見つめた。 「皇家に連なるは、極秘のこと。簡単に外に漏らすことはできません。私のように、知ってしまった女は、生涯、ここを出ることはゆるされない。あなたも、私のように、一生、ここに閉じ込められたいのすか?」 「いいえ」  玲凛は迷う間もなく、否定した。 「私は知った上で、ここを出て行きます。そうしなければ、せっかくの知識も役に立たない。私の目的は知ることの先、その知識を持って、大切な人を守るという目的を果たすことにあります」  責めるでもないが、重たい沈黙で、宇城は考え込んだ。 「あなたのおっしゃることは、まこと、その通り。それができればどれだけいいでしょう。しかし、世は思い通りにいかないのが常なのです」 「常かもしれませんが、絶対じゃないです」  玲凛は堂々と言い放った。 「他の誰かができなくても、私にはできることがある。そう、信じて進むだけです」  宇城は、声が出なかった。  玲凛の主張は世間知らずの浅はかな暴走とも思われた。同時に、それだけのことを成し遂げる人間にだけ見えている、真理であるようでもあった。 「わかりました」  長くだまってから、宇城は言った。 「ただ、一つ、条件があります」 「無償で教えてもらえるとは思っていません。言ってください」  玲凛は頷いた。宇城は、玲凛の目を見つめながら、 「私には、どうしてもお救いした方がいらっしゃる。その方は、長くこの宮の奥にとらわれておいでです。その方の苦しみを解き、解放してくださると約束いただけるなら、私の知る全てをお伝えいたしましょう」  玲凛は、わずかに考えた。 「誰かを、助ければいい、ということですか?」  腕力が通じるならば、難問とは思われなかった。 「その方は、心をとらわれておいでです」  難問だ。  玲凛は思い、それでも、自分を鼓舞するように頷いた。 「わかりました。最善を尽くします。これから、宇城様と私は、志を同じくする仲間よ」 「……仲間?」  宇城はあっけにとられたように目を開いた。だが、次の瞬間、麦の穂が開くように微笑んだ。 「わかりました、玲仲咲。その申し出、お受けしましょう」

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