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16 尸の夢(1)
月に二度、犀星は天輝殿に参上した。
宝順の御前会議への参加は、犀星にとってほぼ唯一の官吏たちとの接触だった。
犀星に対する根も葉もない疑いが晴れ、議場には変わらぬ停滞した雰囲気が漂い、代り映えのない話題が並べられた。
決まり切った現状の報告を、尚書令が読み上げた。左相が重々しく文句をつけ、取り巻く官吏たちがそれを煽り、不運な尚書令は肩をすくめるだけだった。誰もが生産性のない話題に相槌を打った。
犀星はいつものように遠くを見ながら、無味乾燥な話は聞き流した。時折何か思うところがあるのか、膝に乗せた指先が震えたが、それ以上の反応は示さなかった。
この場に、夕泉が姿を見せたことは一度としてなかった。夕泉の政治不干渉の姿勢は、今の犀星には、ありがたかった。しかし、その表情は暗く沈んでおり、安堵しているのかさえ定かではなかった。
天輝殿で行われる会議において、外的な脅威はほぼ無いに等しかった。禁軍が守り、右近衛が周囲を固めていた。犀星自らも、太刀を腰に佩いている。官吏の警護には、それぞれの私兵が当たり、多くの人目があった。
その油断もあったのか、会議の間、犀星のそばに寄り添う涼景の心が遠くに飛ぶ瞬間があった。荘迷宮での会談は、犀星と夕泉の間に致命的な溝を生んだだけではなかった。犀星を守るに徹していた涼景も、見えない深手を負っていた。
夕泉の映相の中に見てしまった本心は、逃れようのない絶望だった。誰にも打ち明ける事なく、命尽きるまで、自分一人の胸のうちに秘め隠しにするべき思いだった。
何が生み出されるわけでもなく、互いの生存と顔色だけを確認し、会議は解散された。
犀星は宝順に続き、二番目に議場を出た。
同席しても、兄弟として二人が会話をする事はまずなかった。犀星と宝順の仲が際立って悪かったことはない。ただ犀星には表面だけの機嫌伺いなどする気がなかったに過ぎない。それは宝順も同じだった。
二人の距離感は遠いようで、近く、近いようで遠い。そして決して遠ざかることも近づくこともないのだ。それはもう長い年月変わらなかった。
涼景と共に天輝殿を出て、犀星は大階段を降りた。遠巻きに、右近衛たちが様子を見て、進路を確保し、周囲から人を遠ざけていた。
御前会議で五亨庵を離れねばならない時間は、犀星にとって玲陽と離れる寂しさと同義だった。当然のように帰り道を行く足は早まった。
だが、今日は違っていた。せわしなさが薄れ、時を稼ぐように帰路につくことをためらっているようでさえあった。
犀星の歩調は遅れ、やがて、完全に止まった。斜め後ろについていた涼景が素早く周囲の安全を確かめ、一歩、寄った。
「どうした?」
聞く者のない気安さで、涼景は覗き込んだ。普段よりさらに強張った犀星の横顔に、感情は見えなかった。
自然と、涼景の眉が寄った。長く共にいればこそ、その異変は涼景の胸を騒がせた。
「疲れたか?」
涼景はそっと肩を寄せた。問いかけたものの、そんな単純な者ではないことくらい、涼景にはわかっていた。
虚無。
感情を殺しているのではない、無の表情。
涼景は、かつて、似たような顔を見たことを思い出した。あれは、玲陽を求めて歌仙へ旅立つ直前だった。当時の犀星は感情そのものを失って心に空白を抱え、一日中、虚空を見つめていることさえあった。
「星」
涼景は半歩、前に出た。右近衛が、涼景の視線の指示に答えて、輪を縮めた。
「行こう。ここは目立つ」
そっと腰を促すと、犀星はゆっくりと歩き出した。だが、それはいつ止まるともわからない、頼りないものだった。涼景は犀星の歩みに従った。立ち止まりそうになるたびに、涼景の腕がそれを支え、前へと誘った。その心遣いに黙って犀星は流された。
夏の盛りの太陽が、高い場所から二人を照らし、足元はいつも以上に乾いた音を立てていた。
焼け付く石畳の照り返しは、やけに肌を刺した。
犀星はわずかに目を細め、何かを探すように視線をさよわせた。そして、ついに、足を止めた。じっと自分の影を見つめ、瞬きもしない。緊張がすっかり解けて、油断が見えた。
「水の音が聞きたい」
唐突に、甘えた声が涼景にせがんだ。
涼景は辺りと注意を向けた。そばで四方を伺う右近衛が頼もしかった。涼景は不在にすることが多いというのに、衛士はよく訓練され、実践の集中力は高められていた。
近衛の外側に、禁軍兵が警戒する姿があった。兵の配置は日常のもので、特にこちらを意識した様子はなかった。
本来であれば、親王は帳車の中で守られ、道中は衛士が取り囲むのが常だが、犀星だけは異質だった。親王自ら馬での移動は、その隙を狙って、誰が動かないとも限らない。犀星の自由は、涼景の緊張と引き換えだった。
それでも、一度とて、涼景がその任務を断った事は無かった。ただそばについて少しの時間でも、犀星の心が休まることを願うだけである。
「八穣園に寄って行くか?」
涼景は、弱った犀星の声に合わせて、低く答えた。近衛である以前に友として、涼景は犀星を優先していた。それは、昔も今も変わることはなかった。
「今なら夏祭りの準備で人出も多いが、端の方なら静かだろう」
「いや」
犀星は唇をわずかに動かしただけだった。
涼景は、安全に移動できる先を探した。
「それなら、五亨庵とは反対方向になるが、東の水路はどうだ? 景観は殺風景だが、静かな場所だ」
警備の難易度は上がるが、負担を追うことに不満はなかった。
宮中で、犀星が落ち着いて水を眺められる場所など、そうそうありはしなかった。どこに行っても、誰かの目に触れ、政略の罠に否応なく巻き込まれる。それが力を持った五亨庵の宿命とも言えた。
「涼景」
まるで、察してくれと言わんばかりに、犀星は親しい将軍を見つめた。
玲陽との関係とはまた違う、また特別なつながりがそこには見えた。死線を分け、共に生き抜いてきた時代の英傑の間には、明らかな絆が生まれていた。
「俺はどうしたらいい?」
犀星は水底のような瞳で、涼景をまっすぐに見つめた。涼景は目を見張った。完全に油断しきっている犀星を前に、自分までが呆けるわけにはいかなかった。
「どうにかなるさ」
涼景はわざと茶化した。そうしなければ、夏の暑さを塗りつぶして凍りつくような冷たさが、犀星から世界へと広がっていく気がしてならなかった。
「あの、庭」
聞き逃しそうな犀星のささやきに、涼景は汗ばんだ肌さえ忘れて、一瞬身をふるわせた。
忘れられない、一つの庭。
涼景は真顔で犀星を見た。ゆっくりと西の空へ、犀星の細い視線が投げかけられた。
「おまえ、何を……」
涼景はつぶやいた。
「俺が何を考えているかわからないようで、俺の近衛が務まるか?」
言葉の刃の切り返しに、涼景は何も言えなくなった。悪い酒に酔ったように、頭の中が朦朧とした。
二人の異変に気がついて、数名の右近衛が近づいてきた。その中には、湖馬の姿もあった。
「隊長?」
眉間のしわを深くして、湖馬は涼景たちを見比べた。
いつも以上に感情のない犀星と、珍しい困惑を浮かべた涼景は、明らかに何かあった。
「湖馬、悪いが、奏鳴宮に走ってくれ」
涼景が犀星の顔を伺いながら命じた。
「備拓様に直接取り次いで、庭を見たいと伝えろ」
湖馬は同僚と顔を見合わせ、それからゆっくりと、
「……ええと、奏鳴宮……夕親王殿下のところ、で間違いは……」
「ない」
短く、涼景は言った。そのやり取りを聞いているのかいないのか、犀星は寡黙なまま、風に吹かれていた。
湖馬ともう一人の近衛が、急ぎ、天輝殿の前の大通りを西へ向かった。他の右近衛が自然と集まり、緩く隊列を組んで、奏鳴宮への道の警備に切り替えた。
涼景は天輝殿の門前で馬を引き取り、犀星を鞍へ上げると、自らその手綱を引いて先に立った。
犀星と夕泉の関係に、修復の望みはない。
そう、誰もが思っていた。
そしてそれは、二人を永遠に遠ざけ、犀星が奏鳴宮を目指すことなど、二度とありえはしなかった。しなかった、はずだった。
涼景は馬に揺られながら、犀星を振り返った。
犀星の目は開かれていたが、世界を映すことを拒んでいるかのように、焦点が定まっていなかった。その心ははるか遠くの空をさまよい、体だけが重たく宮中の景色に閉じ込められていた。
涼景は静かに息を吐ききった。
水の音が聞きたい。
犀星のその一言は、最初から、あの庭を欲していたのだ。
涼景はたまらず、犀星の馬を引き寄せた。
「星、自暴自棄になっていないだろうな」
犀星は黙ったまま、涼景を見上げた。その仕草が、涼景の心を少しだけ落ち着かせた。
「その腰の太刀、預からせてもらうぞ」
「必要、ない」
犀星は、首を振った。
「兄上に会うつもりはない」
「だが……」
「庭に、行きたい」
まるで、幼子のように、犀星は繰り返した。
「あの庭は、俺たちのために作ったと言われた。だから、俺があそこへ行くのは、俺の勝手だ」
「……そういう問題か?」
正面から受け止めれば、明らかに聞き流せない言葉ばかりだった。
「このまま、距離を取った方がいい」
奏鳴宮が見えてくる前に、涼景は言った。
「あそこへ行っても、おまえは辛い思いをするだけだ。たとえ夕泉に合わなかったとしても、あの庭はおまえの苦しい記憶と繋がっている。そんな場所にどうして行く必要がある?」
「だから、だ」
犀星は、意味の深いことを口走った。だが、それきり、もう、何も答えなくなってしまった。
涼景は仕方がなく、奏鳴宮までの緑滴る道を進んだ。前後に動きながら周囲を警戒し、人を遠ざける右近衛の動きは洗練されており、近くに囲まれることを嫌う犀星には、理想的な守りの陣形と言えた。これも、長年かけて研究し、互いの妥協点を探りだした軍師、蓮章の功績だった。
涼景は緑の葉が白く光る梢を眺めながら、数日前に会った親友を思い出した。
惹きつけられてやまない、冴えた思考と薄幸の瞳。賢く、行動力があり、肝が座っていて、情に厚い。その上、誰もを惹きつける美貌と、それに奢らない素朴な性格は、宮中ひろしといえども、得意な存在であることに間違いはなかった。
涼景は、幼い頃から蓮章と共にあり、気づけば互いに弱みをさらけ出し、他人とは呼べないほどに弱さを露見し合っていた。
世が世であれば、これはもう、友情ではない。
そう、涼景もわかっていた。蓮章はとっくにそのつもりで、隠すことのない恋心は、言葉よりもむしろ、行動が雄弁いか立っていた。
そして、それを感じるたびに、涼景は逃げた。
蓮章は涼景の唯一無二の相手ではあったが、どう維持に、失っていはならない魂そのものだった。形を歪め、破壊へと進むことが、何よりも恐怖だった。
辰巳から戻って以来、蓮章の様子はおかしかった。
期待して引き継ぎに行っても、そこにいるのは、蓮章の木簡を抱えた慎だった。
居所を問い詰めても、まるで仇を見るような目で拒まれた。
慎の、蓮章に対する忠義を超えた感情は、早いうちから気になっていたものの、今までは、蓮章自信がそれを抑え、領分をわきまえさせていた。それが、この数日は崩れて、逆転してしまっていた。
どんなに長く都を留守にしても、蓮章はいつも自分を飄々と迎えた。時の空白を感じさせることなく、皮肉を言い、真顔で甘えた嫌がらせをし、不器用にからかった。涼景自身も、それを楽しみにしていたのだと、心のどこかで知っていた。
何があった?
手元に届く木簡は、間違いなく蓮章の文字だった。
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