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16 尸の夢(2)

 だというのに、右衛房にも暁番屋にも、蓮章が慈圓から引き継いだ中区の邸宅にも、姿はなかった。  直接会えない忙しすぎる日々は、珍しいことではなかった。  だが、今回は明らかに、避けられている感覚があった。  ようやく探し当てた暁演武の隅にいた蓮章は、明らかに身も心も擦り切れていた。  これが終わったら、絶対に捕まえてやる。  涼景は誓い、奏鳴宮と接する石畳に折れた。  二度と、犀星を連れてくることはないだろうと思っていた道。  青空から垂れ下がる木々の枝はよそよそしく、しかし、拒んではいなかった。  前庭に並ぶ磨かれた石は、風が吹き込むとそれぞれに違う高さに鳴った。  軒下の陶器の風鈴、回廊の曲がり角に下げられた金属の短冊が触れ合う音、いつも誰かが爪弾く箏の旋律。  奏鳴宮はまさに、楽器そのものだった。  静かに、やむことなく、時が奏でる楽が満ちていた。  その奥に進むに従い、水音が加わった。引き寄せられるように犀星は足は早まり、広縁へと抜けて、立ち止まることなく、あの忌まわしい庭へ、かつて、玲陽が倒れたあの百合のそばへと歩み行った。  涼景は遅れずにそれを追った。  ようやく立ち止まった犀星の肩は、かすかに上下していた。怒りではない。ただ、体と心が噛み合わない不安定さが揺れていた。  ここへ来るのは、二度目だった。  風に撫でられる犀星の背中をつめながら、涼景は黙って立ち尽くしていた。  足元の百合の花弁は乾いて色を濁らせ、自らの重みで地に落ちて、そのまま朽ち始めていた。|蕊《しべ》だけはやたら黒々として、涼景に、思い出したくはない夕泉の瞳を蘇らせた。  せめて、片方の瞳が灰であったなら、世界の天井が抜けて自由になれた気がした。  涼景は背後に、湖馬たちの足音を聞いて振り返った。  奥から、ちょうど、備拓が姿を見せ、こちらに頷いてくれた。涼景は心の荷が少し軽くなった。  夕泉と顔を合わせるのは、涼景にも辛かった。  犀星に目を戻せば、庭の景色に溶けきっていた。  風が髪と袖を揺らす中、微動だにしない後ろ姿はあまりに夕泉に似ていた。それは恐ろしいほどの類似だった。庭に取り込まれ、手の届かないところへ連れ去られてしまう気がして、涼景は拳を握った。  引き戻せるのは、自分しかいない。  そうわかっていても、手段がわからなかった。  前回の御前会議の帰り、突然の気まぐれのように、犀星がここを訪れたいと言い出した。  てっきり、夕泉と話す覚悟が決まったのか、と緊張し、むしろ非公式のほうが動きやすいという涼景の判断で連れてきたが、実際には全く違っていた。  犀星が必要としたのは夕泉ではなく、ただ、この庭だった。  ここに立ち、時を過ごす。  夕泉も心得ているようで、姿を見せることはなかった。  備拓を介した伝言では、庭はすでに犀星への贈り物であり、好きにして良いという、真意の知れない承諾だった。  たった一度、のつもりで、犀星をここに連れてきたのが、涼景の過ちだった。一度覚えてしまった蜜の味を何度でも欲しがる子供のように、庭に立つ時間も、以前より伸びた。  犀星はまた、これからもねだるだろう。  語らぬ胸の奥で何を思っているのか、涼景には想像もつかなかった。  玲陽を傷つけた夕泉への怒り、すべての元凶と断罪された己への後悔。  そのどちらも、今の犀星には見えなかった。  流れ落ちる滝を見つめ、その音をひたすら全身に受けて、沈黙を守り続けていた。  時折、犀星の唇が音もなく動いた。涼景は横目でそれを盗み読んだ。  すまない。  誰に向けた、何に対する詫びだったのか。  青く細い眼差しが、庭の隅々へと注がれた。  同じものを見つめようと、涼景の目が犀星と景色との間をせわしなく往復した。  だが、表情の動かな犀星を真似たところで、何も得られることはなかった。 「星?」  返事を期待もせずに、ただ、涼景は呼びかけた。  答える代わりに、犀星は数歩歩んで池に近づくと、片膝を落とし、片手を水へ差し入れた。指の間を抜けていく水が水面に跳ねて、白く散った。  涼景は、遠のいていく背中に手を伸ばすことすらできず、回り込んで抱き止める術も知らなかった。  犀星の孤独には、誰も踏み込む事はできないのだと、水音がうるさいほどに繰り返していた。一瞬、右頬の古傷が、ずきりと痛んだ。吐き出した息が熱く、涼景の腹の奥で、熱の塊が蠢いた。 「もう、戻るぞ」  雲が太陽を隠した時、涼景は呟いた。 「あまり遅くなっては、陽が心配する」  しばらく返答はなく、それでも、犀星はやがて、頷いた。  暗い廊下のいつもの広縁で、宇城は先客を見つけた。薄桃色の光沢のある単衣を、さらりと羽織って、装飾のない出で立ちの後ろ姿だった。 「玲姫」  宇城は優しく声をかけた。こちらに背を向けたまま、玲凛は、空を見つめていた。煙のように雲が漂い、星明かりも頼りなかった。  宇城はまた一歩、近づいた。そして声を少し小さくした。 「凛」  玲凛は素早く振り返った。手元に明かりがなくても、玲凛の目には景色がしっかりと見えていた。 「すみません。ぼんやりしてました」  宇城は静かに微笑むと、玲凛と並んで夜を見た。それからすぐに、玲凛のくっきりとした顔立ちを見つめた。 「大切な人のことを想っていたのでは?」  玲凛は、こくんと頷いた。 「あなたにもそういう人がいるのね」  一瞬黙ってから、玲凛は手を振った。 「恋とかじゃないですよ。私のは兄様です」 「兄上?」  玲凛はそっと胸の前で手を重ね、しっかりと握った。玲陽のぬくもりが懐かしかった。 「私の兄様は、とても困った人なんです」 「困った人?」  宇城は興味をそそられたようだった。背後で宇城の従者たちが距離を縮め、ひざまずくのがわかった。 「自分が人のために傷つくことを、いとわない人なんです」  玲凛の声は、夜半の風によく馴染んでいた。宇城はじっと耳を傾けた。玲凛は、ぼんやりと闇の中に眠る後宮を見下ろしたまま、 「昔からずっとそう。誰かのために自分が苦しんで、それでも構わないってどこまでも痛む人。そうやって、人の痛みを受け入れて、傷つき続ける人。まるで自分を罰するみたいで」 「それは、あなたも辛いわね」  宇城の声色は玲芳を思わせて、玲凛は一瞬、懐かしさを覚えた。  宇城はただ話を合わせているのではなかった。その胸の奥には、玲凛と同じ思いが、自らの記憶として抱かれているようだった。  それを感じ取って玲凛は、宇城を振り返った。静かに、そこに立たず、玲凛は確かに人を想う顔をしていた。 「宇城様には好きな方がいらしたんですか」  直感して玲凛は聞いた。同時に、後ろで従者たちが身動きしたのがわかった。宇城は言わずと知れた宝順帝の正妻である。別の者と情を通じることなどあり得ず、許されなかった。  相手がいるとしたら、宝順以外にいてはならなかった。  だが、玲凛にも従者たちにも、そうとは思えなかった。それほどまでに、宝順と宇城との仲は冷え切っていた。  宇城は、ゆっくりと首を横に振った。 「私が愛しいと思うのは、失った我が子のことですよ」  玲凛が気まずそうに目をそらし、従者たちは安堵して上げかけた腰を下ろした。宇城は、そっと、帯に挟んでいた小さな玉飾りに触れた。  質素な宇城が身に付ける唯一の装飾。それは幼い皇子が残した形見だった。 「あの子が生まれたのは私が二十一の時でした。当時、陛下は十九。喜んでくださるものと思っていた」  玲凛には、宝順が子の誕生を喜ぶようには思えなかった。 「あの子は私の宝物でした。昔の話ではない。今もずっとこの腕の中にいる気がするのです」  誰もいない、と言いかけて、玲凛は慌てて口を塞いだ。  玲凛の立場で魂の存在に触れる発言は、慎重を極めた。  駆け引きって難しい。  玲凛は、とにかく口を閉じていることだけに専念した。 「流行病でした。あなたが案じるような事はありません」 「そうですか、よかった」  思わず言ってしまって、全然良くはない、と慌てて玲凛は否定した。  幸い、宇城の温厚な人柄は、玲凛を助けた。 「まだ五つになったばかり。私にはどうすることもできなかった。あの子は屋敷の中しか知らずに、生涯終えたことが哀れでなりません」  玲凛はじっと宇城の表情を見守った。  玲家の屋敷で生涯を終えようとしていた自分と、わずかに影が重なった。 「それは、違うと思います」  考えるより先に、玲凛は口走っていた。 「ここしか知らないから哀れと思うのは、他に世界があると知っているからです。その子は、他に世界があることも知らなかった。だから、辛いと思うこともなかったはずです」 「……そう、ですね。知らない方が幸せなこともありますよね」  宇城は少し沈黙し、そして柔らかく息を吐いた。 「私も、知らなければよかった」  ぞっと玲凛の背が冷えた。一瞬、宇城が怒ったのかと警戒したが、そうではなかった。全てを諦めたように平坦だった宇城の心に、感情のうねりがゆっくりと渦を巻いていた。 「私と陛下とは遠縁にあたるのです。私は初めから、妻となるべく定められていました」  よくある、政略の許嫁。  玲凛は、血により運命を定められる習わしが何をもたらすか、我が身と比べて想像した。 「十二でここへ入り、それ以来、外に出たことは一度もありません」 「…………」 「これからも、二度と、ないでしょう」 「それで、いいの?」  玲凛は声を震わせた。従者たちに視線を走らせると、揃ってこちらを怪しむようにこちらを睨んでいた。この状況で何を問いかけたところで、宇城の答えは一つしかなかった。  玲凛は思わず手すりを握り締めた。誰かを責める気は起きなかった。純粋な悲しさだけが、玲凛の心の中に満ち溢れていた。  宇城は玲凛に近づき、優しい眼差しのままちらつく星を見上げた。 「いつ、どこに生まれ落ちても、さだめとは抗い難く身を閉ざすものなのですね」 「……変えればいいんです」  玲凛は、ささやいた。 「方法は、まだ、わからないけれど」  玲凛には、探し続けるしかなかった。  自分よりも、耐え難い穴の底で震える大切な人たちに、降ろす縄が欲しかった。 「必ず、助けると誓った」 「凛は強いですね」  儚く、宇城は呟いた。 「私は、ただ、悲しい。大切な人を取り戻せないことが。今もなお、苦しみ続けていることが」  玲凛は宇城の周囲を改めて伺った。気配に集中したが、宇城がなくしたと言う息子の魂の存在は感じられなかった。死してなお苦しみ続けているようには思われなかった。  それとも玲凛にはそう思われてならないのだろうか。 「宇城様」  玲凛は少し遠慮がちに言った。 「宇城様の大切な方は、もう苦しんでいらっしゃらないと思います」  意外そうに宇城は玲凛を見た。 「亡くなられたのはお気の毒ですが、心残りなく旅立たれたと思います」  それは慰めではなく、寿魔内侍・玲凛が告げる真実だった。  宇城は寂しそうに笑った。 「ありがとう。けれど、私が言ったのは、我が子のことではないのですよ」  風が宇城の清楚な横髪を揺らしていった。その風とともに香の匂いが漂ってきて、玲凛はそちらへ顔を向けた。後宮と中宮の境界あたりだった。 「……あの方がいらした」  宇城はぽつりと漏らして、玲凛に向いた。 「凛、もし、あなたが黙っていて下さるのなら、一緒に参りませんか」  目的のわからぬ宇城の誘いに、玲凛は警戒よりも好奇心が勝った。ここで知れるものなら何でも知りたかった。

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