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16 尸の夢(3)

 物静かで控えめな正妻が大切な人と呼んで、夜中に訪ねていく相手が誰なのか。純粋な興味が玲凛を動かした。 「行きます。連れて行ってください」  宇城はそっと微笑んで、先に立った。従者がずらりと脇を固め、二人が明かりを持って低く照らした。玲凛は邪魔をせぬよう、後ろをしずしずと歩いた。  その歩みは遅く、玲凛には物足りなかったが、追い越すわけにもいかなかった。  玲凛は袖の隠しから鹿角のかけらを指先に落として握った。動きが不自然にならないよう、自然と歩調を変えながら、柱の角や壁の隅に傷を残した。  初めて通る道だった。先ほどの様子では、香の流れてきた方へ向かっていると考えられた。  短い階段を上り下りし、いくつもの回廊を横に折れた。  ちょうど三十四の傷をつけたところで、ようやく宇城は歩みを止めた。玲凛は手首を返してかけらを袖にしまった。  油灯の頼りない明かりが、壁や天井にうっすらと大きな影を映していた。その影は小刻みに揺れ、風の流れがあることを知らせていた。玲凛は鼻を利かせたが、従者たちの化粧の臭いに全てかき消されていた。  どうやら、暗い木の板で三方が囲われていて、行き止まりのようだった。正面の壁の一角に、小さく切り取られた板があり、そこが扉になっているらしかった。細い隙間から、温度の違う風が肌に感じられた。  扉は、一人が身をかがめて、ようやく入ることのできる小さなものだった。  従者たちが、壁に添って脇に避けた。宇城はまっすぐに玲凛を振り返った。 「ついていらっしゃい。ここからは、一言も話をしてはいけませんよ」 「はい」  玲凛は小声で答え、素直に頷いた。  従者の一人が、手のひらに乗る小さな油灯に油を注ぎ、火を灯した。それを受け取ると、宇城は腰をかがめて、扉をくぐった。玲凛はそれに続いて、手探りに中へ入った。  奥へと、細い四角い道が続いていた。狭く、空気は澱んでいた。  このような通路が、蜘蛛の巣のようにいたるところに作られているのが、天輝殿の厄介な特徴の一つだった。通路は水平だけではなく、途中で梯子が壁に固定されていて、手探りにそれを降りねばならなかった。その先は、さらに左右に折れる道が伸びていた。  曲がるたびに、玲凛は左右を数えた。壁を触って角度を探ると、直角ではなかった。直線的だが、一つ一つの曲がり角の深さはばらばらで、さすがの玲凛も、途中で諦めかけた。方向感覚が狂い、進んでいるのか、ただいたずらに引き伸ばされているのか、わからなかった。道は幾度も四方に分かれていた。  体を低くし、時には四つん這いになって溝を抜けた。宇城は淀みなく進んだ。玲凛のように体を動かすことに慣れている者ならばともかく、普段の宇城からは想像できない行動力だった。  どれくらい、そうしていただろうか。  やがて、宇城の着物の裾が広がり、立ち上がったのがわかった。  宇城の持つ油灯は弱く、灯りとして役には立たず、目印程度だった。玲凛は風の流れから、少し広い場所に出たことを感じた。途端に、玲凛の嗅覚が混乱し、拒絶し、麻痺した。上品な香と、戦場の臭いが混じり合っていた。息をするのも嫌で、次第に呼吸は浅くなった。  強烈な臭いが、壁と床の隙間、細かなひび割れにまで深く入り込んで根を張っていた。血だけではない。肉、臓物、腐敗した酸味のある鋭い隙間風も差し込まれた。この場で大きな動物を解体し、臓器の中まで丹念に開いたのではないかと思われるようだった。  さらに、臭いを上回る瘴気が溜まっていた。情と呼ぶにはあまりに濃く、空気にべっとりと張り付いてた。  息が詰まるとはこのことだった。  膝を伸ばして周りを見回したが、何も見えなかった。  風が吹き降りてくることから、高い場所に欄間があることがわかった。だが、今夜は月もなく、曇った空では星も期待できなかった。  玲凛は視覚を捨て、他の感覚へと集中力を向けた。  そばには、宇城の気配だけがあった。それを頼りに玲凛は一歩踏み出した。  室内の構造を覚えているのか、宇城は手探りしながら歩みを進めた。  玲凛は自らを励まし、感覚を研ぎ澄ませた。  少し先から、宇城のものとは違う息遣いが聞こえた。  誰かいる?  玲凛の全身に緊張が走った。発見が遅れたのは、臭いと瘴気のせいだけではなかった。その、誰か、は生命を感じさせない静寂に包まれていた。  玲凛はそちらに目を向けた。光ではなく、闇を見るための眼差しだった。視界を、何かがゆっくり円を描いて横切った。  闇に蠢く、別の闇。  傀儡とは違う。生きているものの、魂の輪郭があった。  玲凛が出会ったことのない、正体のわからない何かであった。  着物が擦れる音がして、宇城が跪いたらしかった。 「迅《じん》様」  震える宇城の声がそう呼んだ。 「来てくれたのか」  突然に、か細く消え入りそうな、知らない男の声が聞こえた。  玲凛は息を飲んだ。  後宮に入ることができる男は、宝順のみである。  目の前に、存在してはならない男がいた。  あまりに唐突で、玲凛は考えがまとまらなかった。  闇夜に、正妻である宇城が、たった一人で難解な通路を通って、限られた時間の中、一途に男を訪ねて行く。  これが、本当の夜這いってやつだ。  玲凛は思考を緊急性のない方向へ展開させた。  そして、慌てて思い直し、闇の中で起きていることを知ることに専念した。  少し先で、布と布が触れ合う音がした。 「そなたは、まだ、いてくれたのか」  迅と呼ばれた男の声は、闇の発する温もりよりも優しく言った。 「もちろんでございます」  宇城の声に涙が混じっていた。 「私は、おそばに」 「もう、自由にして良いと言っているのに」 「ですから、こうしているのです」  聞きながら、玲凛の頭の中で整理が追いつかなかった。今までの認識が、ゆっくりと回転していく。  宇城は宝順の正妻である。だがそれは形だけに過ぎず、皇子を亡くしてからは顧みられることもなく、後宮に飼い殺され、閉じ込められているだけの囚人ではなかったのか。  都にいた時も、後宮へ入ってからも、玲凛は周囲にそう、聞かされてきた。  自分の目で見て、聞いて、感じたことだけが真実。  時を超えた犀遠の言葉が、玲凛に、現実を受け止める覚悟を与えてくれた。 「こうして月に一度だけでも、お目にかかれるのが私の命なのでございます」  宇城は明らかに、この場所で生きていた。  音が、急にせわしなくなった。絹の擦れる高い音、分厚い布が重たい音を立てて、足元に落ちた。  玲凛は、暗いことを幸いと思った。  男女の間に、何が起きているかは、玲凛にも察しがついた。  見えるわけではないのに、玲凛は目を逸した。  ぬくもりを確かめ合う宇城と、迅と呼ばれた男。  二人の成すことはそれはそれとして、玲凛は別のものに意識を向けた。  部屋の全貌はわからないが、呼吸の反響から、およその広さを知れた。  玲凛の頭の中に、五亨庵より一回り小さな、長方形の部屋が描かれた。天井はさほど高くなく、すべての面は硬い材質で作られていた。玲凛はそっと手を伸ばして壁を探った。触れた壁はあまりに冷たく硬くざらついていた。石と肌の間で、体温が部屋の空気に吸われていくようだった。  かがんで床を探ると、同じように石の感触が続いていた。  壁にも床にも、濃厚な瘴気が染みついていた。  ここは、処刑場なのだ。  冷静に、玲凛は判断した。  多くの命が、凄惨な形で奪われてきた場所であることが察せられた。  その痕跡の全てが、闇の底の更なる闇となって、玲凛を見つめていた。  全身に汗が浮いて息が乱れかけたが、宇城との約束を思い出して、声にするのはじっとこらえた。  ここは、容易に近づいてはならず、近づきたくもない場所に違いなかった。生死の境界のような石の牢獄。  最悪。  玲凛は悪態をついた。武力で立ち向える相手ならば怯みはしない。だが、この類のものに対して、知識はあっても力はない。今は寿魔刀も役にたつ状況ではなかった。  一体、これは、何なの?  玲凛は再び思考を引き寄せた。  深夜、このような場所で宇城を待っていた迅とは、誰なのか。  宇城の気配は動いたが、相手の男は動かなかった。  縛り付けられているのか、その一点から微動だにしなかった。  息詰まる時を経て、通路の出口に置かれていた目印の油灯の赤い芯が燃え尽きた。  戻る時間の合図だった。  宇城は甘い声を漏らした。男の方も悲しそうに息を吐くのがわかった。 「まもなくでございます」  宇城がささやいた。 「間もなく、自由になれる時が来ます。あとほんのわずか」  どうか。  祈る声が切なかった。  だが、玲凛の胸には、感傷よりもこの場所の壮絶さの方が激しく渦巻いていた。  匂いには慣れても、瘴気はそれ以上に辛かった。これが形を持てば、どれほどに手強い傀儡となるか、想像するのも嫌だった。  ゆっくりと宇城がこちらへ戻ってきた。そして玲凛を促すように通路へと招いた。  来た時よりも鈍重に、宇城は道を引き返した。  やがて、先に光が見えて、従者たちの待つ回廊へと帰り着いた。小さな油灯が、やけに眩しかった。全身にまとわりついていた匂いや気配や情念が、今でも肌から離れなく思われて、玲凛は激しく着物を払った。  その様子を宇城はじっと見つめた。気づいて、玲凛は宇城を見上げた。 「どうして、私をあそこへ? ただ、好奇心に応えてくれたわけじゃないんでしょう」  宇城は静かな表情のまま、どこか遠い声で言った。 「あなたは玲家の血。どうかあの方を助けて欲しいのです」 「また、それ……」  玲凛は、聞きたくもないことを聞かされた。  この血は、どこまでも自分について回るのだ。  紀宗も、宇城も、玲家の血を継ぐ自分を特別視した。だが、彼女にはどうすることもできないのだ。  幼き日から、力を持たぬがゆえに蔑まれてきたというのに、一歩歌仙を出れば扱いは真逆だった。  一方的な期待はこりごりだ。  玲凛の顔に露骨に嫌悪が浮かんだが、宇城はひるまなかった。 「私の身勝手は承知しております。けれど、紀宗が教えてくれました。あなたをあの場所に連れて行けば、道が開けると」 「そんなの、何の根拠もないわ。随分とかいかぶったものね」  思わず玲凛はきつい声を出した。  宇城は、そんな玲凛の困惑に気づいて、すまなそうに、しかし、引き下がるつもりもない態度で、頭を下げた。 「どうかあの方をお助けください。そのためならば、何でもいたします」  その言葉に玲凛は軽い苛立ちを覚えた。  権力者の何でもするという言葉は、金や名声と相場が決まっていた。だが、残念ながら玲凛には、そんなものは事足りていた。 「必要ならば、私の命と引き換えでも構いません」 「そんなもの、欲しくもないわ」  玲凛は目を伏せた。 「そもそも、どうしろっていうのよ。あの人を逃がしたいなら、陛下にお願いしたら? 正妻なんだし、少しは頼みを聞いてくれるんじゃないの?」  宇城の顔から血の気が引いた。 「あの方が私の陛下なのです」  その瞬間、玲凛の思考は停止した。

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