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17 朔、待ちわびて(1)
軽快な蹄の音に、東雨は自然と顔を上げた。小径の向こうから見慣れた人影が手を振った。
東雨は、にっこりとして馬の世話の片付けを急いだ。
近衛が交代し、湖馬が長榻に座った。東雨は肘まで濡れた腕を拭きながら、その隣に足を投げ出して座った。夏の日差しが鋭く暑く、すがすがしかった。
湖馬が五亨庵に来ると、東雨は決まって、一緒に過ごすようになっていた。近衛の儀礼について習った時期もあったが、今はそれよりも、これまでどんな仕事をしてきたのか、具体的な経験を聞けることが嬉しかった。
特に興味があったのは、宮中深くでの出来事だった。
「祥雲は、本当に何も知らされていなかったんだな」
湖馬が、幾分親しくなった口調で言った。東雨は木綿の涼しい着物の裾をぱたぱたと揺らした。覗く中衣の白さが、着物の深い緑と重なって、肌の柔らかさを際立たせていた。年のわりに小柄で、どこか少女のようにすら見える東雨は、湖馬にとって特別な存在だった。
「若様は、俺をいつまでも子ども扱いしてたんです」
と、東雨は少し口をとがらせた。
知らない方がいいこともある。
そう言って、犀星は東雨を政治から遠ざけていた。それが単なる口実であったと、今の東雨はちゃんとわかっていた。
宝順とつながっていた東雨に、必要以上の情報を与えないため。
それは警戒と同時に、東雨の心を守る配慮でもあった。
「今は、幸運だったと思ってます」
言いながら、東雨は前髪をかき上げた。その仕草一つも湖馬には眩しかった。
「若様が宮中の会議とか式典で、何かと周りを騒がせていたっていう噂は聞いてました。人づてに聞くより、本当は直接見たかったんですけど」
「そうだろうな」
湖馬は、半分諦めたような声で言った。
「祥雲は、本当に歌仙様のことが大好きだから」
「大好きというより……」
東雨は、少し困りながら、
「俺は若様しか知らないですから」
その言葉には、開き直りよりも、どこか嬉しそうな響きがあった。
「でも、若様が一番だってことは、自信を持って言えます」
「歌仙様が一番、か」
湖馬はため息まじりに言った。
「そう言えるのは、祥雲が強いからだ」
「俺が強い?」
東雨はぽかんとして湖馬の顔を見た。目をそらして、湖馬は一言、
「武術という意味ではなく……」
「それはわかってます」
東雨は笑った。もう自分の腕前をどう言われても、怒る気にもならなかった。
「俺の何が強いんですか?」
まるで褒めて欲しくて仕方がないという笑顔で、東雨は身を乗り出した。湖馬は思わず緩む頬に力を込めて、静かに言った。
「気持ち、かな」
「気持ち?」
「ああ。ほら、歌仙様は何かと、その……」
「問題が多い?」
遠慮なく、東雨は言いにくいことを言い当てた。湖馬は笑った。
「それが、悪いわけではなくて……でも、決して平穏ではないだろう? 敵を作ることも恐れないし、型破りなことを平然となさる。実力があるから余計に周りからは疎まれる」
一言一言を東雨は噛み締めた。逐一その通りだと思った。
「歌仙様は本当に聡明な方だと思う。そしてそれを、ひけらかさない。ただ、静かにやってのける。すごい人だから、祥雲が惹かれるのも、わかる」
可愛いところもありますし。
東雨は、そばで見てきた弱い犀星を思い出して、小さな優越感を覚えた。湖馬は真面目な調子で、
「そんな歌仙様の元にいるということは、輝かしいと同時に、危ない道を共に歩まねばならないということだ。宮中では、皆が安定を求める。なのに、好き好んでそばにいたいという祥雲は、やっぱり強い」
「ただの物好きです」
東雨は、自信満々に言った。
「でも、そう言ってもらえて嬉しいです」
しっとりとした東雨の言葉は、湖馬の中に深く刺さった。濃い夏の青空を見上げる東雨の目は、きらきらと黒曜石のようにきらめいていた。湖馬は、胸の中の密かな思いに気持ちを傾けた。
東雨に抱く淡い恋心。本人を前にすると、結局のところ、何も言うことはできなかった。それでもいいと、湖馬は思い始めていた。東雨の心が歌仙親王にだけ向き、そしてそこに生きる希望を見出し、こんなにも輝いた顔をするのだから、それを困らせる必要はないのだ。見守るのも、また一つの思いの形のような気がした。
湖馬にとっては初めての思いだった。
「祥雲は、これからもずっと歌仙様の側にいるんだろう?」
「もちろんです」
力強く、東雨は頷いた。
それから、ふと、
「湖馬様は、どうするんですか」
と、質問を返した。
「どうする、とは?」
「これからも、ずっと近衛をするんですか?」
思わず、湖馬は考え込んだ。
「……私の家は、もともとそれくらいの身分なんだ。不自由なく育ったが、これ以上求めれば、逆に混乱に飲み込まれる」
「平穏にいたい、ですか?」
「ああ、平穏に」
繰り返されたその言葉が、わずかに寂しそうに思われて、東雨は目元を曇らせた。湖馬は明るく笑って見せた。
「私が、隊長みたいな破天荒になればいいと思うか?」
「それは無理です」
少し眉を寄せて、東雨は言った。
「誰も、涼景には、なれない」
言葉の最後が少しだけ下がったような気がして、湖馬は東雨の横顔を深く覗き込んだ。先ほどまでの晴れやかな笑顔に混ざって、何かもの悲しげな気配があった。
「湖馬様は……」
東雨は、低く続けた。
「恋をしたこと、ありますか」
どきりと、湖馬の心臓が飛び跳ねた。
今まさにその最中にいるのだが、と思いつつ、いや、これはどういう意味なのかと、さらに慌ただしく思考を巡らせた。
なぜ突然、そんなことを言い出すのか。
奇妙な期待と憶測、そして騒がしい胸の音が混ざり合っていた。
「恋と呼ぶには、まだ未熟かもしれないが」
湖馬はびくびくしながら、そう呟いた。
「まぁ、なくも、ない」
東雨は至って真剣で、足を揃え、手を膝の上に置いていた。滲み出る東雨の行儀の良さは、幼少から犀星にしつけられた成果だった。
「俺も未熟なんです」
東雨も小声になった。
「これが恋なのかどうかすら、よくわからないです」
あまりにも自分と符合した東雨の気持ちに、湖馬は奇妙な落ち着きを感じた。
「そう、か」
短く、それ以上何を言っていいかわからず、湖馬は返した。
夏の風が青葉の香りを運んできた。遠くで、笛や琴の音が聞こえていた。
「八穣園のお祭り、始まってるんですね」
東雨が少し顔を上げた。湖馬もそちらを見た。
「夏祭りだな」
二人とも、自然と恋から離れた。
「そういえば、東雨は紅花祭に行ったことがないと言ってたな」
「はい、ありません。花街はあまり……でも、祭りは好きです。美味しい匂いがいっぱいしますから」
「匂い? 味ではなくて?」
「はい、匂いです」
湖馬は、倹約家の犀星のことを思い出した。餅一つ、蜜飴一つ、簡単に手に入れることができなかった東雨の思い出が切なかった。
「行こうか?」
湖馬は、目をそらして言った。
「八穣園の祭り、一緒に行ってみるか?」
東雨は驚いて、黙り込んだ。誰かに遊びに誘われるなど、東雨の人生で初めての事件だった。五亨庵の面々と仕事で出かけることはあっても、物見遊山など、犀星の下ではありえなかった。
困ったように東雨はうつむいた。こういう時は、何と返事をすれば良いのか、全く見当がつかなかった。嫌な気はしないが、正直、素直に行きたいという思いにもならなかった。
「祭りは、見てみたいです」
東雨は、控えめに言った。東雨が乗り気ではないことに、湖馬はすぐに気づいた。
「いや、無理にというわけではない」
湖馬は慌てて首を振った。次の言葉に迷った時、小径の向こうに薄紫の衣が揺れた。五亨庵の近くで、あのような華やかな着物をまとう人間は、一人しかいない。
東雨は立ち上がると姿勢を正した。遅れて、湖馬もそれに習った。
「見回り、ありがとうございます」
東雨はぺこりと頭を下げた。
「相変わらず、礼儀正しいな」
蓮章は苦笑いを浮かべた。
「玲親王の近侍が、近衛に対して、そんな態度を取る必要はないんだぞ」
どこか冷やかすようでもある口調だった。
「でも、ずっとこうだったので、これがいいんです」
東雨は、さっぱりと言った。
「若様なら、中にいらっしゃいます、お知らせしてきますね」
案内しようとした東雨を、蓮章は呼び止めた。
「祥雲、今日は、おまえに用がある」
「俺に、ですか」
露骨に、東雨は嫌な顔をした。
突然、蓮章から話を振られては、悪い予感以外しなかった。蓮章は、にっと笑った。
「誘いに来た。仕事ではないから、無理にとは言わないが」
ぴくりと湖馬が反応した。たった今、八穣園を断られたばかりである。東雨が蓮章をどうするのか、湖馬は気が気ではなかった。
「用件を聞いてから決めます」
蓮章はそっと目をそらして、
「明日の夜の近衛の夜勤、試してみないか」
「宮中の?」
「ああ。俺が担当だから案内する。暁隊ほど物騒じゃないし、暗闇でどういう動きをするのか、実践を学ぶのもいいと思った。天輝殿には近づかないから安心しろ」
蓮章と東雨のやりとりを聞きながら、湖馬は必死に予定を思い出していた。確かに、蓮章の言葉に嘘はなかった。だが同時に、夜の宮中で東雨と蓮章を二人にするのは、不安以外の何物でもなかった。
「若様に聞いてみます。俺の一存では決められないので」
「付き合う気になったら、日没までに右衛房へ来い。来なければ、振られたものと判断する」
湖馬は唇を引き結んだ。東雨はわずかに首をかしげて、
「行けなくても怒らないでくださいよ。若様が蓮章様を信頼してないだけ、ってことですから」
「ひどい話だな」
笑いながら、蓮章は前髪を揺らした。
「まぁ、よろしく伝えてくれ。楽しみにしているぞ」
言いたいことだけ言って、蓮章は来た時と同じ軽さで、ふらりとまた小径の奥へ消えた。
心配そうに湖馬は東雨の顔を見た。視線の意味に気づいて、東雨は肩をすくめた。 湖馬は思わず、横を向いた。
「祥雲、わかっていると思うが、副長は、その……」
「いくらなんでも、そういうの、じゃないと思います。自由な人たちですけど、相手は選んでいる、というか……それより」
東雨は小さく息を吐いて、
「実践って言われても、俺、戦えないんですけどね。何をどうしたらいいのか」
「そうだな。警備の配置や死角を作らない規則性、どこに注意を向けるべきか、現場を見るだけでも意味があると思う」
真面目に湖馬が言った。東雨は微笑した。
「今まで湖馬様から、たくさん教えていただきました。思い出しながら、やってみたいと思います。若様が許してくれたら、ですけど」
嬉しそうに五亨庵へ入っていく東雨の背中を、湖馬は複雑な気持ちで見送った。
じっと閉ざされた扉を見つめる玲凛の目は、その奥底に、ただならぬ気配を封じ込めていた。
それは明らかな怒りだった。
何に対するものかと言われれば、単純には紀宗に対するものであり、その奥には自らの血縁と気が遠くなるほどの長い年月にわたって、周囲から一方的に押し付けられてきた役割への理不尽さに対する激しい憤慨であった。
人に語ったことがあるように、玲凛には憎しみと言う感情が欠落していた。憎むくらいなら怒りを選んだ。思いだけでは何も変わりはしない。行動こそが、彼女の理念である。
矛盾することであったが、彼女が憎しみを遠ざけるのは自らの血がそれによって何を招くのかわからないことに対する、警戒の裏返しでもあった。
時に、やり切れなさを抱えながら、玲凛は己の運命と向き合い、そしてそれを打ち破るために、今、目の前の扉をひたすら睨みつけているのだった。
紀宗が平安の祈祷のために宇城を訪れるのは七日に一度である。その時を逃すまいと、まさに獲物の隙を伺う狩人の目で、玲凛は寿魔刀を握り締めていた。紀宗が姿を見せれば、一撃のもとに封じる気迫でそこに立っていた。
暮夏の午後、まったりとした空気が宮中に満ち、後宮を満たしていた。部屋の前を守る宦官の兵が震え上がりながら、玲凛から顔を背けていた。香を掲げて宮の中を回る侍女たちも、回廊の壁に体を擦り付けるように避けて通った。
無視されることに玲凛は慣れていた。だが、それはかつて歌仙で感じた阻害感とはまた別のものであった。
蔑視ではなく、恐れ。
だが、玲凛のするべきことは一つだけだった。出てきた紀宗を殴る。それだけである。
部屋の奥から長く鳴りものの音が響いた。これが乱打され、一通り音が沈まると、祈祷が終わる。こんな形式にどんな意味があるのだろうと思いながら、玲凛は辺りの空気が沈まるのをじっと待っていた。
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