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17 朔、待ちわびて(2)
徐々に空気が熱を覚まし、静寂が一瞬ピンと糸を張った。玲凛は小さく息を飲んだ。部屋の中で二言三言の声がして、扉がゆっくりと開かれた。見習いの陰陽官が扉を開き、その中央を紀宗が小股に歩み出てきた。
玲凛は一歩前に出た。完全に紀宗の道を塞ぎ、小柄な男をまっすぐに見下ろした。迫力は相当なもので、見習いたちは思わず扉の端を握り締めたまま動けなくなった。
だが、紀宗だけは細い目を少し上目遣いにして、そこにいるのを知っていたという落ち着いた調子で黙って見返した。狼さえ一睨みで殺せると、暁隊に恐れられた玲凛の眼力を、紀宗は、空洞の心でやり過ごした。
寿魔刀で殴るか、話をするか。
ぎりぎりまで悩んだ結果、玲凛は寿魔刀にかけた左手は離さないままに、口を開いた。
「話があるんだけど」
真っ向から玲凛は切り出した。
「あんた、私に何をさせるつもり?」
紀宗の細い目は、玲凛を見ているかも定かではなかった。
「あんたが宇城様に何を吹き込んだのか知らないけれど、見当違いのことを言われても、私には何もできないわよ。何を企んでるかは知らないけれど、言いなりになるつもりはない」
玲凛がそこまで不満を抱く理由が、その言葉で紀宗には十分に理解できた。
ついて来い、と袖を振って、紀宗は邪魔な柱を避けるかのように玲凛の横を素通りした。
眉を歪め、口を曲げて、玲凛は後に続いた。
気に入らない相手とはいえ、この癖のある宦官が玲凛の知りたい情報を握っていることは間違いなかった。
紀宗の三歩は玲凛の一歩だった。遅々として進まないその一行は、這いずるように回廊を東へ向かった。玲凛の後ろには、紀宗の部下の陰陽官たちが、怯えた表情も隠せぬまま、粛々と付き従っていた。
天輝殿の北側に広がる後宮は、宮中でも最も広大な敷地を誇っていた。総面積では花街を上回り、皇帝の庭として栄えた。三百年の歴史の中、回廊という根を縦横に張り巡らせ、楼閣という幹と枝葉を天へ伸ばし続けた森のごとく、その町は国と共に成長を続けていた。
そうしながら、徐々に形を歪め、計画も図面も及ばぬ迷いの巣窟として、歴史をその懐に隠し続けてきた。
紀宗は、そんな後宮の一画へと、玲凛を案内した。
軒に下がるつる草の先に、白い花が咲いていた。
庭をめぐる回廊の婉曲は、方向感覚を狂わせる仕掛けに違いなく、どこも似たような色彩に統一された外装は、欺くための装飾だった。
玲凛は袖の中の鹿の角を指の間に隠し持ち、ゆっくりした歩みに乗じて、丁寧に道標を刻んでいた。
庭園の向こうに、天井に案山子を立てた産屋がちらりと見えた。
すぐに高い木々がそれを隠し、日陰の下の回廊は、一段、気温が下がった。
薄暗く湿った風、香の匂いにかび臭さが混じり始めた。
一行は、黙々と奥へと進んだ。
玲凛はふと、景色に見覚えを感じた。
かつて花町で見た療養所によく似ていた。薬草が干された簡易的な小屋があり、その先に小部屋が並ぶ平屋が続いていた。
さらにその向こうには、意味ありげに積み重ねられた石が、人目を避けていくつも並んでいた。中には、朽ちかけた布が巻き付けられ、近寄りがたい雰囲気を醸成しているものも少なくなかった。
ここまで来ると、もう何が出てきても、驚きはしない。
玲凛は、後宮で命を終わる者たちの生涯を思った。
広いようで狭く、底が見えぬ深い世界だった。
夏の終わりの宵の風が、最後の瑞々しい青草の匂いを低く運んできた。淀んだ空気に一瞬だけ混ざる、生命の香りだった。
夕立を呼ぶ低い雲と空に、虫の音は一度途絶えて、遥か遠くで弦楽器がわずかに鳴ってていた。
木立に囲まれた、離れた空き地に、紀宗は目を向け、立ち止まった。彼らを待っていたのは、一棟だけ離れて建てられた、古い白木張りの庵があった。
表面に浮き出した木目に、玲凛は意志に似たものを感じた。庵はまるでひとつの眼となってこちらを見つめている気がしてならなかった。
何より玲凛を困惑させたのは、その形だった。
白い木の柱が、五角形を作っていた。
それが何を意味するのか、想像することさえ苦痛だった。
五角形の白い小さな庵。
それはそこにあるだけで、巨大な後宮の心臓であるかのように、深く土を掴み、動かしがたい存在感を示していた。
「ここの正体が、そなたにはわかるであろう」
紀宗が、ようやく声を発した。
玲凛は紀宗の体越しに庵を眺めたまま、黙っていた。考えることも答えることも鬱陶しかった。紀宗に説明するのも、まどろっこしいほどに、大量の情報と記憶にも似た何かが、玲凛の中に流れ込んでいた。
一目その建物を見ただけで、全てがわかる。
それが玲凛が最も恐れて忌み嫌う、血のせいなのは明らかだった。黙りこんだ玲凛に代わり、紀宗が唇を動かした。
「玲親王が五亨庵を建てた時、わしは驚愕した。最期を看取ったそなたの母さえ、ここを訪れたことはなかった。まして、親王が知るはずもないことよ」
犀遠から引き離された玲心が、蕭白帝を受け入れる為だけに囚われた檻、それがこの、朽ち果てた庵だった。
「わしは、見てみたいと思ったのだ。ここで血を受けたあの親王が何を作り、何をなし、何を壊すのか」
紀宗の部下たちが、恐ろしそうに顔を見合わせていた。彼らには紀宗が何を話しているのか、理解できてはいなかった。ただ、玲凛だけは紀宗の言わんとすることが痛いほどに身に染みた。
「わしは当時より、よく知っておる。そなたの伯母が、ここでいかに過ごしたか」
玲凛は、今もなお、庵が脈打つ音を聞いていた。
挽夏の日差しは柔らかく、空を覆い尽くした雲から降り注ぐ淡い光が、庵の白い木肌を磨いて流れ落ちた。輪郭がぼやけ、朝の霧を集めて寄り合わせたように、柔らかく鼓動するようであった。
一辺に据えられた両開きの扉は、片方が既に失われていた。そこから覗かれる天井には、薄い水色の布が幾重にも垂れ下がっていた。長い年月の間に色褪せ、いくつもしみが広がっていたが、それでも上等の品である事はわかるほどだった。
さして広くはない庵の床にも、柔らかな絹の布が山のように詰め込まれていた。その布に埋もれて、玲心は窒息するように弱っていったのだろう。
「そなたを後宮へ連れてきたのは、これを見せるためである」
紀宗は、腹をくくったように言った。
「見せて、どうするつもり?」
玲凛は声を張った。
気持ちで負けては、何もかもがこの陰陽官の思う通りになってしまう。そんな事は玲凛の気性が許さなかった。自分の意思で決める。それが絶対に譲れない彼女の信念である。
「あんたが知ってること、全部話しなさいよ。それで納得したら私も考える。一つでも隠し事をしたらこの場で叩き斬る……のはできないから、殴る」
突然飛び出した暴力的な言葉に、紀宗の弟子たちがざわついた。陰陽官とは術と言葉で牽制し合うのが鉄則である。そこに暴力を持ち込む余地は無い。だが、彼らの常識が玲凛に通用するはずはなかった。
紀宗は特に怯えた風でもなく、ただ何かを諦めたようであった。
「すべては、蕭白帝が玲家の血を求めたことに始まる」
紀宗は、庵の屋根の向こう側を見上げた。そこには一面に白い雲が広がっていた。
「皇家と玲家は、決して血を交えてはならないと言う古くからの誓盟があった。それはどちらが言い出したものとも知れない。蕭白帝はそこに興味を持ったのだ」
「血を混ぜたら、どうなるかってことに?」
「そうだ」
玲凛は顔を歪めた。
「人の命を何だと思ってんのよ」
「わしもそう思う」
意外な一言が、紀宗の口からこぼれた。玲凛は紀宗の横顔を見た。この老獪な陰陽官は、てっきり腹の底までねじれて、よからぬことばかりを企んでいると思い込んでいた。
宮中の連中は、裏表が激しすぎる。
玲凛は慎重に目を細めた。
「それで、最悪な興味のために、伯母上をここに捕らえたってこと?」
「そうだ」
紀宗は細い目を、わずかに開いた。
「あれはある種の試みだった。何が生まれてくるかわからず、だが、女であれば玲家の習いに乗っ取り強い力を持つはずだった。しかも皇家の血も併せ持つとなれば、その者は皇帝に降り注ぐ災いを祓い、より大きな繁栄をもたらすと先帝は考えたのだ」
「随分と自分に都合の良い考えだわ」
玲凛の言葉には容赦がなかった。紀宗はうなずいた。
「わしも、そう思う」
玲凛は腰に手を当てた。
「あんた、そこまで思ってたのに、なんで止めなかったのよ?」
「その頃のわしが何だったかわからぬか?」
紀宗はちらりとまぶたの隙間から玲凛を見た。
「あの頃は、そこにいる弟子どもと変わらぬ身分。何を言う資格もなく、ただ命じられるままに動くだけの駒よ。思うところは多くとも、語れる事は何もない。口を封じられた石の駒。そなたには、わからぬやもしれぬな」
玲凛は、その一言が初めてこぼれた紀宗の本音であるような気がした。
「……それで、結局、星兄様が生まれた」
玲凛もまた、空を見た。
「多くのものと引き換えにな」
紀宗は言った。
「この庵の中で、そなたの伯母は、気を狂わせながら親王を身ごもった」
「あんたたちは、それをただ観察してたってわけね」
紀宗の表情が変わるのを、玲凛は見逃さなかった。何やら暗い影が目元に漂い、唇の両端が釣り上がった。
「何もしなかったわけではない」
「余計なことをした?」
「そなたに余計なことと言われるのは、筋が違う気がするが」
紀宗は庵に近づいた。そして順に柱を回った。一周するのに二十歩もかからない。回り終えて、紀宗は意味ありげに玲凛を見上げた。ぞっとして、玲凛は庵の柱に駆け寄った。根元の一部が深くえぐられ、そこには石のかけらが埋め込まれていた。水晶の通った水の石だった。
「これ……」
玲凛の鋭い眼差しを、紀宗は薄い笑みで受け流した。
「わしは、言われるままに、動いたにすぎぬ。玲家の血とは、恐ろしいもの。何を引き換えにしても望みを得ようとする。そなたにならば、かの女の目論見が見えるのではないか?」
答えは既に玲凛の中にある。
そう察して、紀宗は沈黙した。
玲心は玲家で育った女であった。跡継ぎとして玲家が持つ様々な知識を全て与えられた存在である。玲凛の中にもまた、玲心と同じ血が確かに存在した。そしてそれが、この白い祠の真価へと導いた。
しばらく黙りこんでから、玲凛は小さく言った。
「叔母上は、悲しみで気が|狂《ふ》れたんじゃない。自らの精神を代償として呪術をかけた。何を願ったかは知らない。けれどそれは、きっと、叶ったと思う」
一度言葉を切り、玲凛は短く続けた。
「私には、わかる」
紀宗は腕を組んだまま、じっと玲凛を伺っていた。
白い庵と五亨庵は、決して偶然の一致ではなかった。
誰も踏み込むことのできない力が、確かに血に刻まれていた証だった。
母から子へ。
確かに受け継がれた、何かがあった。
蒼い犀星の瞳が、玲凛の目の前に蘇った。
紀宗が口を閉ざす傍らで、玲凛は自らの思考の中にどっぷりと沈み込んでいた。あらゆる可能性を考え尽くし、思考の迷い道を一つ一つ潰して、玲心のたどった心の道程を探った。
蕭白帝の残酷な嗜好が招いた、玲心の壮絶な末路。
自分の心と引き換えに、叶えた願い。
あの産屋にも、この場所にも、玲心の思いは一欠片も残されてはいなかった。むしろ、どこまでも無色透明な水の中にいるような、結界のごとき静寂が満ちていた。
心残りが見えない事実は、願いの成就を雄弁に語っていた。
今、この、現実が、伯母上が願ったものだとしたら……
玲凛の心の底から、鋭い光がほとばしった。閃きは脳天まで突き通して、全身がぶるっと総毛立った。
「母上を……玲芳をここへ呼んだのは、伯母上の意思だったんじゃない?」
年相応の顔で、玲凛は紀宗を見た。声は、わずかに震えていた。
紀宗は顔中のシワを深くして、遠い時代に思いを馳せた。
「そう、聞いている」
紀宗は声を沈ませた。
「狂いながら訴えた、最後の訴えであったそうな」
「母上がここに来たことで、全てが揃ったのか……」
感じたことのない恐怖と戦慄に、玲凛は膝がぐらついた。
「そういうことだったんだ。だから……」
紀宗の目が、はっきりと開かれた。
「やはりそなたをここに連れてきたのは間違いではなかった。次はそなたが話す番だ」
紀宗は玲凛に一歩、寄った。
「わしは何が起きていたのか、これから何が起きるのか、そのすべてを見極めるためにそなたをここへ呼んだ。次はそなたが話す番だ」
震えながら、玲凛は浅く息をして紀宗を見た。
「あんたは、なんでそんなことが知りたいのよ? 何に利用するつもり?」
「利用などはせぬ」
紀宗は首を振った。
「ただの好奇心よ」
すっと、玲凛の顔から、血の気が失せた。
好奇心。
人を動かすのは、いつも目的よりも先に、その思いなのだ。
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