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18 凍雨(1)
翌日、夕日が道に長く朱に差し込んでいた。引き伸ばされた影の境界が曖昧になり、温い光がぼんやりと世界を曇らせていた。
夕刻の右衛房の前庭にはすでに篝火が灯され、見張りの兵たちが位置についていた。その視線は普段より忙しなく、何かを探すように彷徨っていた。
犀星の許可が出たことは、あらかじめ、湖馬から聞いていた。
犀祥雲が来る。
近衛たちの間に、情報と期待がすっかり広がっていた。
右近衛では、最近、密かに東雨の人気が高まっていた。公に口にできないとはいえ、右近衛ならば誰もが、犀星に振り回されながら健気に仕える可愛らしい少年の姿を覚えていた。そして、侍童から近侍へと変遷した壮絶な出来事に胸を痛めた。
幼い子供の面影が残るものの、最近は凛々しい表情を垣間見せることも増えてきた東雨に、皆、多かれ少なかれ、興味を抱いていた。湖馬も、その一人だったのである。
東雨を魅力的に見せた要因の一つに、犀星の古着があった。東雨は自分で新しいもの仕立てることを好まず、進んで犀星の着物を大切にしていた。
古着と言えど、親王に与えられた着物が上等でないわけはなく、東雨の体を魅力的に引き立てた。色白で漆黒の髪を高く結い、やっと自分で結べるようになった髪紐は、いつも、暖かな深い緑色をしていた。
それらは、東雨がかつての犀星を彷彿とさせる美しい青年となったことを、自然と周囲の心に浸透させた。とはいえ、顔立ちはどこか幼くあどけなく、可愛らしさが前面に出ていた。その差が、返って右近衛の衛士たちの興味を誘った。男社会の中で、蓮章や東雨のような中性的な存在はどうしても目を引くものであった。だが、蓮章は外見に似合わぬ激しい気性で、部隊内では色恋に厳格だった。
それにひきかえ、祥雲こと東雨は理想的だった。
近侍となろうとも、決して偉ぶることはなく、さらに笑顔を向けて気遣いを忘れない優しい性格が、日頃の激務に疲弊している右近衞を癒してくれた。
東雨といえば、その傍らにはいつも、犀星がいた。
こちらはもう、非の打ち所のない、宮中一の美しい親王だった。
外面のみならず、民に向ける信頼と、彼らから集める忠誠、権力者への厳しい対応と迎合しない強固な意志。そして卓越した知性と発想力。最近では、そこに玲陽という稀有な伴侶も加わり、五亨庵は宮中の艶やかな花そのものだった。
それに加え、暁将軍・燕涼景、そして美貌の軍師・遜蓮章。どう考えても、華やかさでは左近衛隊の比ではなかった。これはもう、胸をはらずにはいられない高揚感だった。
一時期は、玲親王の使い走り、と揶揄されて、真冬の深夜に総出で薪割りをしていた過去があった。あらゆる面倒を押し付けられているという哀れみと蔑みの目を向けられていたのも紛れもない事実だった。が、今や、右近衛はその評価を反転させ、門前警備にすら誇りを感じる集団へと見事に変貌していた。
「左近衛に勝った」
若い衛士の中には、そう言って笑う者もいた。
「これからは右近衛の時代だ」
そんな明るい雰囲気が、警備中にも垣間見えた。
浮き足立って何か失態を起こさなければ良いが。
いつもより目を輝かせる衛兵たちを見ながら心配をしつつも、蓮章は自身の言動を改める気はなかった。
今もまた、真面目な衛士をからかいながら、蓮章は約束の時刻に東雨を待っていた。
夕焼けの血のような赤が藍色に染まりはじめる頃、愛馬の月毛に鞍を置いて、颯爽と東雨が現れた。その姿は凛として、少し前までとは別人のように頼もしかった。門番が嬉しそうに鞍上を眺めた。まるで役得だと言わんばかりに下馬を手伝い、必要以上に体に触れて降ろしてやると、暖かい手綱を受け取った。
東雨は甘える馬のたてがみを撫で、穏やかな微笑で近衛たちに挨拶をして、それから蓮章に向いた。蓮章は、東雨のいで立ちに目が止まった。|黛《たい》色の袍に、丁寧で控えめな赤の縫い取りがあった。見覚えがある柄だと思えば、それは以前、東雨と同じ年の頃、犀星が身につけていたものだった。しっかりと結んだ腰帯は、細い身体を隠すように三重に巻かれていた。決して解かせてなるものかという犀星の配慮を、蓮章はすぐに察した。
信用されているんだかいないんだか、わからないな、リィのやつ。
蓮章として、慎は苦笑した。
「案内する」
心配そうに見送る近衛たちをにやりと流し見て、慎は先に立って右衛房を出た。
薄暮時の、形が緩んだ景色が広がっていた。
東雨は、この時刻が好きだった。早朝とも似た、薄ぼんやりとした世界は、普段よりも柔らかい。
「右近衛って、どこを守るんですか」
不意に、東雨は、今更のようなことを尋ねた。
右近衛の警備が五亨庵を中心に行われることは当然知っていた。だが、夜中には五亨庵に人はおらず、盗人などを防ぐ程度の定位置の警備が立つだけである。朱市も最低限の禁軍兵と、翌日の準備を進める夜勤の官吏たちが灯す明かりが、幾つかの小屋から漏れているだけだった。
「その時に応じて、手薄なところを回る。今夜の天輝殿付近は左近衛だから、俺たちはその他を見る」
慎は、東雨の少し前に立って歩きながら、簡単に道順を説明した。
本来であれば親王の御所は宮中にあり、近衞は常駐しているのが基本である。だが、犀星の住まいは都にあり、暁隊が夜間警備を担うのが、最初からの習慣だった。事実上、右近衛は本来の任務よりもむしろ、隙間を埋めるためにあらゆることに駆り出されていた。だからこそ、通常では知らない場所への出入りも、特殊な警備体制もこなすことができるようになったと言えた。
左近衛が天輝殿と奏鳴宮に人手を分けている間、禁軍は宮中の北と中央を押さえていた。南側は手薄で、特に門のあたりが不足した。夜間、朱雀門は閉ざされるが、それでも緊急の用件がある者が、特別にくぐり戸を抜けて出入りした。かつては東雨も、そうやって満月の夜に宝順のもとに忍んでいた。
南側が最小限の人数の配置で止められているのは、五亨庵界隈は右近衛が回れ、との暗黙の命令であった。
そんな内情を話しながら、慎と東雨は、ゆっくりと宮中から五亨庵への道を進んだ。その間、建物の並び、暗がりの気配、屋根の上、扉の|閂《かんぬき》、篝火の薪と火の粉にまで注意を払った。
慎は、八穣園の方へ、顔を向けた。
「普段はもっと静かだが、この時期は祭りが近いから、夜通し準備だな……」
賑わいはすぐに目についた。職人たちを中心に、華やかな天幕が建てられ、彼らを相手に食物を売る店の屋台も出ていた。煮込まれた味噌の香りが風に乗って流れてきた。東雨がちらちらと、そちらを気にした。夕餉の粥がすでに腹から消えていた。
「覗いてみるか」
物欲しそうな東雨の顔に、慎が言った。
「でも、仕事中ですよね」
「自主的な警備だ。堅苦しいものじゃない。まぁ、任務だったところで、特に問題はない」
慎は簡単に言ったが、東雨は迷った。昼間、湖馬からの誘いを断ったことが心に引っかかった。ここで自分が祭りを見に行っては、湖馬に申し訳がない気がした。
「いえ、いいです」
あえて真面目な顔で、東雨は言った。
慎は、ふっと笑った。そこには、どこか不思議な毒があった。
八穣園の華やかな喧騒を後ろにして、二人は都の中央を横切る大通りへ出た。ここを南へ折れてまっすぐに進めば、見慣れた五亨庵のあたりに至る。そこからさらに外側を回って、宮中の中区の東へと向かう道順だった。
東雨は、蓮章が選んだ方向に疑問を浮かべた。
「悪いな、暗い道になる」
それは人通りの少ない、細い道だった。人が潜み、何かを企むにはうってつけの場所だ。誰かが飛び出してくるのではないか、もしかすると、人ではないものが潜んでいるのではないかと、東雨のたくましい想像力が、恐ろしいことばかりを考えさせた。
「……別に、俺は、平気、ですから」
強がる東雨の声を、慎は複雑な思いで聞いた。
慎とて、蓮章の影として、長年、東雨を見てきた。蓮章よりも涼景よりも、客観的に、である。
その慎の目には、東雨の心の中の激しい揺れが、大きな出来事が起きるたびに、傾き、荒れ、翻弄される波となる様が見て取れていた。
東雨は、涼景が好きだ。
どう思うか、と蓮章に問われた時、迷うことなく、慎は答えたのだ。
その好き、という意味が、友人として、尊敬する武人として、大人として、仲間として、と、様々な意味合いを併せ持つことは確かだった。だが、一言でまとめれば、見過ごすことにできない相手、に集約された。
答えた時、慎は蓮章の顔を見られなかった。傷ついたのか、それとも意に介さなかったのか、それすらわからなかった。
だが、決して喜べる事態ではないことだけは確かだった。それは皮肉にも、蓮章の計略の中では欠くべからざる条件だったにもかかわらず。
東雨が抱く涼景への思い。
人として、それを踏みつける非道を、蓮章は選んだ。蓮章がそうしたのだから、慎も逃げるつもりはなかった。
慎は、出会って間もない頃の出来事に思いを馳せた。
蓮章は慎が飲み干すはずだった毒杯を煽った。あの瞬間、慎もまた、蓮章の生涯の毒を共に喰らう覚悟を決めた。
複雑に心を巡らす慎の後ろを、東雨はこの世ならざるものの恐怖に怯えながら、震える足でついていった。
暗殺者が飛び出してくるより、得体の知れないこの世ならざるものが見えてしまう方が恐ろしかった。亀池での傀儡の群れ、体の底に溜まった気味の悪い感触が、ちらちらと視界を遮った。
暗殺者にせよ、それ以外にせよ、東雨に打つ手がないことに変わりはなかった。
頼りの蓮章は、玲凛の話では、役に立たない、とのことだった。それでも、東雨よりははるかに使えるはずだ、と、心もとない期待を抱いていた。
「見回りは、南区だけなんですよね」
「いつもは」
こともなげに慎は言った。
「今日は少し回り道をする。怒るなよ。これも、おまえが少しは警備になれるための配慮ってやつだ」
「そう、ですか」
どこまでが配慮で、どこからが違うのか、東雨にはわからなかった。
先を見れば、赤々と、いくつもの篝火が焚かれているのが、早くも見え始めていた。
いつしか、二人は中央区へ入っていた。
南側の並木が黒々と空を突き、それに沿って石畳の広々とした道がまっすぐに東西へ伸びていた。篝火は道の端に沿って燃え上がり、火のそばと、薄暗い中間には禁軍らしき兵が槍を構えて立っていた。
少し先に、大階段が見えた。
そこまで目にして、東雨の足はすくんでいた。
「この先って……」
東雨は息を飲んだ。
冬の惨劇以来、近づくことを避けていた場所だった。
天輝殿、正門。
犀星が御前会議に参加する際にも、東雨だけは連れて行こうとしなかった場所である。
犀星は情を重んじる。特に、東雨に対しては繊細に気持ちを働かせた。会議の席では多くを学ぶことができる。しかし、東雨の心境を考えれば、同席させる気にはならなかった。
天輝殿の中ほどのにある、石の間。
東雨はあの時の痛みを思い出して、くらりと視界が回った。とっさに近くの木に手をついて、呼吸を整えた。古傷が、灼けつく痛みを伝えてきた。首には、冷や汗すらが浮かんでいた。
慎は、そんな東雨に気づきながらも、容赦なく、歩み出した。
「ま、待って……ください」
情けない、と思いながら、東雨は悲鳴をあげた。
「すみません、少し、待ってください」
「辛いか? まぁ、当然だろうな」
「天輝殿には、近づかないって言ったじゃないですか」
「これ以上は近づかない。前を素通りするだけだ」
慎は、横目で大階段の西側を気にしながら、
「残酷だと思うが、今夜でなければならないんだ。おまえに、是非とも見せたいものがある」
慎の声が、熱を失って、夏の夜気が途端に冷えた。東雨は力の抜けた足を張って、倒れまいと木にしがみついた。
「あの、蓮章様?」
情けない姿を見られたくないと思いつつも、最後の希望にすがるように、東雨は慎に呼びかけた。
「今夜の天輝殿は、左近衛の警備なんですよね?」
近づいてくる篝火の群れ。広々とした正面の階段が、炎の色と闇とで、まだらに染められていた。
「そうだ」
慎はさらりと答えた。
「禁軍と左の管轄だ。ここに右近衛が近づく必要はない」
「じゃあ、俺に見せたいものって何ですか?」
「ここへ」
慎は、そっと木の間を目で示した。仕方なく東雨は茂みの中に潜り込み、枝葉の陰から、天輝殿の階段を覗いた。
小刻みに震えて痛みに耐えながら、東雨は慎の体にぴたりと身を寄せて、少しでも顔を隠しながら葉の隙間から覗いていた。
慎が、声を低めて囁いた。
「西を見ていろ。もう直ぐだ。目を離すなよ」
東雨は慎の眼差しの先を追った。階段の下に、禁軍兵と左近衛兵が交互に並び、守りを固めていた。正面から近づくことはできず、中央あたりには、ひときわたくましい男が立っていた。おそらく、禁軍大将の然韋だろうと、東雨は思った。
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