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18 凍雨(2)
火が揺れ、風が流れ、時が過ぎた。何事も起きないというのに、平穏には程遠い沈黙が続いていた。
しびれを切らして、東雨は慎を見た。
「蓮章様、何を待っているんですか?」
階段へと向いていた慎の目が、脇にそれた。
「道の奥、見ろ。来たぞ」
東雨は慌てて西を見回した。暗い道の奥、天輝殿の前へ続く石畳、篝火の隙間の闇と闇を渡るように、一人の影が近づいてきた。物音も立てず、あまりに静かな動きだった。月の細い夜、星明かりが輪郭だけをどうにか浮き上がらせた。
東雨は、一瞬、違和感を感じた。それはあまりによく知る男だった。だというのに、別人の気配があって、ぞくりとした。
やがて、篝火の光輪の中へ、男は踏み入った。
東雨は息を呑み、目を見開いた。十年の間、見つめ、警戒し、いつしか憧れた涼景だった。
慎はわずかに顎を引いた。
「馬でこないのは、帰れないからだ」
意味深な慎の言葉に、東雨は聞き漏らすまいと耳をすませた。
「祥雲、あいつが、供を連れず、このような時刻、当番でもない天輝殿に一人で来る理由、おまえにわかるか? 太刀も帯びずに、だ」
慎の声は、東雨の心の弱みを突いた。
「禁軍を見てみろ。誰も、あいつを止めないし、むしろ、目を背ける」
黙って、東雨は涼景の姿に集中していた。近衛隊長という立場を考えれば、馬で参上するのが当然であった。それをあえて徒歩で、ここまで来た意味。夜の時刻に、一人の供もつけず、近衛の鎧ではなく薄い着流し姿であること。そして何より、腰に大太刀を帯びていない油断。
涼景ではない涼景を待ち受けている未来が、東雨にも悪夢のように降りてきた。
これがいかに異様であるか、東雨は理解するより先に、体が震えた。
一瞬、涼景の背中が過去の自分と重なった。東雨の目が困惑に揺れた。
満月の夜、理不尽な命令、そして、連れ込まれた逃れられない恐怖の底。
宝順による絶大な支配。心を縛る重たい鎖、自由を奪う小さな部屋。
自分は、犀星の秘密を吐露するために、呼ばれ続けた。
「まさか、涼景が……あいつも、間者だって言うんじゃないでしょうね」
「そんなものなら、どれだけ楽か」
慎が、乾いた声で言った。それから、目線だけを東雨に向けた。
「おまえだって、聞いたことくらいあるだろう」
東雨は、顔がこわばって、呼吸が荒くなった。
慎が言う通り、東雨の耳にも、おぞましく信じがたい噂が入っていた。
噂など、所詮、信用はならないもの。誰かを陥れるための虚構に過ぎない。
そう、東雨は必死に脳内から追い出し続けてきた。
その期待に、慎は止めを告げた。
「事実だ」
東雨の心を突き刺し、慎は言った。
「これが、現実だ」
東雨が見ていることにも気づかず、涼景は、ゆっくりと階段を上っていくと、一瞬、禁軍兵の横で足を止めた。だが、言葉を交わしたふうもなく、むしろ目配せすらしなかった。誰にも振り返られることなく、涼景は天輝殿の門の奥に姿を消した。
幻のような景色だった。
「俺に見せたかったのって、これですか」
慎は黙っていた。
「蓮章様、これは……あいつは……」
「涼景が何をしに来たか、わかるな?」
東雨は黙った。全身が冷たい汗で濡れていた。
「……間違いだ」
東雨は呟いたのは、切実な願いだった。
「こんなこと……なんのために……」
「おまえたちを守るためだ」
慎が一言、追い打ちをかけた。
東雨は、さらに戸惑い、そして混乱した。
冷静になればなるほど、現実が見えた。そこから逃れるように、あえて忘却と想像へと逃げ込んだ。
だが、慎は東雨の逃避を許さなかった。畳み掛けるように、
「権力でも、出世でもない。あいつは、おまえたちを守るために、こうしている。五亨庵がなぜ、これほど自由に振る舞えるのか、東雨が祥雲となり得たのか、単なる偶然、実力だとでも思っていたとしたら、ずいぶんと短絡的だな」
冴えた言葉が、東雨の意識を引き戻した。慎の言う意味を理解し、だが同時に、激しい否定が心をかき乱した。
暁将軍は、皇帝の欲望の受け皿。
宮中のあちらこちらで、蔑むような噂がささやかれていた。
だが、東雨はいつもそれを意識から遠ざけ、否定してきた。
そんな話は、涼景を羨む者の戯言。嫌な大人のひがみだ。
優秀であればあるほど、侮辱を受けるのは犀星とて同じだった。ましてや、涼景の家柄と功績、周囲からの信望は、愚鈍な貴人にとっては目障りに違いなかった。涼景を貶めるのは、すべて、彼らの醜さの表れであり、ただの虚構に過ぎないのだ。
まるで自分に言い聞かせるように、東雨はそうして、流布のなにもかもを封じてきた。
東雨が焦がれる涼景は、逞しく、堂々として、いつも自信に満ち溢れていた。余裕と自信をたたえた隙のない男であった。不器用な優しさ故に損をしても、笑ってすませる豪気を絶やさなかった。
相手が皇帝といえども、肉体を差し出すなど、ありえない。あってはならない。あって欲しくない。
だというのに。
今まで、押さえ込んできた噂が、一気に噴き出した。
涼景の鍛えられた体が理不尽な暴力によって力づくで開かれるさま、人としての尊厳を崩され、素肌を踏みつけられても悲鳴をあげることもせず、歯を食いしばって痛みに耐える姿。
東雨に見せる涼景の顔は、いつも皮肉たっぷりで余裕を浮かべ、誰よりも頼もしかったではないか。
東雨の脳裏には、かつて見た涼景のあらゆる顔が、思い浮かんでは消えていった。どれも、稀代の将軍にふさわしく、さらに強さ以上の気高さも宿した誇り高い姿だった。
と、一瞬、その記憶がつまづいた。
完璧な燕涼景という石垣に一つだけ混ざった黒い石。
東雨の胸に消えずに残った一度の出来事が、小さな胸を満たした。
あれは、いつのことだっただろう。
犀星の邸宅の玄関で、突然、涼景が自分を掴み上げ、間近に迫ったことがあった。あの時は、てっきり間者としての自分を咎め、脅しているものとばかり思っていた。
だが、今、あの時の涼景の胸の内を想像すると、全く別のものが見えてくるようで、東雨は魂が乱れた。背中の中心に冷たいものが走り、肩のあたりが激しくざわついた。
自分を捉えた涼景の必死な目は、何か別のものを訴えていたのだと、今の東雨には思われた。
『おまえは……』
あの時の涼景のつぶやきの続きが、ふっと耳の奥で聞こえた。
『俺のようには、なるな』
突然、聞くことのできなかった言葉の続きが、それが正解であるかのように心を通り過ぎた。
東雨は体を抱きしめ、そのまま小刻みに震えていた。
「……本当、だったんですか?」
慎は黙って、東雨を見下ろした。
「皆、知っていることだ」
「皆って……若様も?」
「無論」
その答えは強烈に東雨の頭を殴りつけた。
涼景と親しく会話し、冗談を言い合い、友として絶対的な信頼を寄せ、穏やかに酒を酌み交わす犀星。それらが、涼景の身に起きていることを承知した上での行動だったというのか。知った上での揺るぎない距離、曇りのない瞳。犀星と涼景の間をつないでいたものの真実の重さと強さとを、まざまざと見せつけられた思いがした。それに比べれば、自分の感情など、上っ面にしか過ぎない無知が見せた、あまりに脆い幻想に思えてきた。
東雨は一気に込み上げた悔しさに、外聞もなく崩れてわなないた。
冷ややかに見下ろしていた慎が、遠く西へと目を投じた。
「祥雲、俺と来るか?」
慎の静かな声は、東雨の心に垂らされた細い糸だった。
「もし、涼景を救いたいと思うのなら、ついてこい。拒んでもいい。おまえが何もしないなら、何も変わらないだけだ。壊れることも、救われることない。今日が永遠に続くだけだ。それを選ぶなら、ここまでだ。すべてを忘れて都へ帰れ」
砕けた世界の残骸の中で、それでも東雨は迷わなかった。
かつて、自分が絶望のどん底にいた時、手を差し伸べてくれたのは誰であったか。傷を共に痛んでくれたのは誰であったか。それは、決して魂に刻みつけられた記憶だった。
「本当に、助けることができるんですか?」
「方法はある。おまえ次第だ」
慎は言ったが、後悔にも似た陰りがあった。
「行きます」
東雨は、蓮章の目を見た。暗がりの中でも、東雨の黒い目には、確かな意思が輝いていた。
慎の左目が、熱く潤んだ。それは涙だったのかもしれない。同時に、怒りと情熱だったのかもしれない。
自分は、何をしているのか。
慎の胸に、細い針が刺さった。しかし、その痛みさえ、先へ進む覚悟に比べれば、取りに足らないものに過ぎなかった。
「右衛房に戻るぞ」
低く言うと、慎は先に立って歩き出した。夜はすっかりと周囲を包み、細く人目につかない道を抜けて、二人は右近衛隊へと戻った。
東雨の歩みは時に遅れ、時に急いだ。
右衛房の門に先刻までの残光は消え果て、いっそうに黒い墨の闇が、ひたひたとあたりを湿らせていた。
門番は、変わらぬ笑顔で東雨に声をかけた。
「祥雲どの、ご無事でしたか?」
真剣な口ぶりで言いながら、見張りは東雨の服装に何か乱れたところはないか、と目を走らせた。
やはり、リィは信用がない。
慎は首を横に振った。
皆に心配されても、東雨の方はうまく笑い返せなかった。東雨の表情が暗く沈んでいることに、衛士たちは口を閉じた。そして、責めるように慎を見た。
「好きに想像してくれ」
慎は、短く答えた。
それ以上近衛に囲まれる前に、慎は東雨を奥へと連れて行った。すれ違う兵たちが、皆、肩を落とした東雨を心配そうに横目で追った。東雨は黙って、ただ足元だけを見ていた。
右衛房の一番奥の休憩室に、東雨は案内された。
かつて、この部屋で、蓮章の妖艶な肢体を見せつけられた記憶が蘇ったが、今は、それも色あせていた。心はひたすら、涼景のことだけで塗り潰されていた。
自分がこうしている瞬間に、天輝殿で何が起きているのか。
それを思うと、苦しさに心臓が騒がしく脈動した。
慎は近衛たちを追い払うと、部屋の戸を開け、東雨を一歩、押し込んだ。
うつむいていた東雨は、先に部屋の奥にいた人物に気づいて顔を上げ、愕然として、息を飲んだ。
そこには、蓮章がいた。
ぞくりとして、隣を振り返った。
そこにも、同じ目をした蓮章がいた。
一瞬何が起きたかわからず、東雨は凍りついた表情のままだった。
今まで、共に歩いていたのは、蓮章だった。天輝殿で、涼景の真実を突きつけたのも、蓮章だった。ならば、今、部屋の奥の交椅に座り、どこか苦しそうに壁にもたれている蓮章は、誰だというのか。
声もないままの東雨の背を押して、慎は部屋の扉を閉めた。
「大声出すなよ」
脅すように慎が言った。
東雨は、悲鳴どころか、小さな声すら出なかった。ただ二人を見比べるだけだった。腹の中に重たい何かが落ちていくような感覚を覚えた。
何が起きているのか、疑問と混乱が渦巻いた。
部屋に座っていた、もう一人の蓮章が、済まなそうな薄い笑みを浮かべた。
ドキリと東雨の心臓が動き始めた。
自分が知っているのは、この蓮章だ。それは天からの啓示のようでもあった。
本能的に、東雨は慎から飛び退いた。
今まで蓮章だと思っていた人物が、突然に得体の知れない恐ろしい相手に思われた。
「あなたは?」
声を震わせた東雨を、気遣わしげに慎は見つめた。
「こちらにも事情があってな。騙すような真似をしてすまない」
「《《ような》》、ではない。意図して騙した」
きっぱりと、部屋の奥の蓮章が言った。
並べて聞き比べれば、確かに声にはわずかに違いがあった。蓮章の特異な外見にばかり目がいって、すっかり思い込みに支配されていたのだと理解できた。
「つまり」
東雨は|逸《はや》る胸を押さえて、ゆっくりと頭の中で考えをまとめた。
「部屋にいたのが本当の蓮章様で、俺と歩いてたのが……」
「そう、偽物だ。昨日、五亨庵に行ったのも俺だ」
今までの口ぶりとはまるで違う、素っ気ない、荒い口調がそう答えた。
「俺は、慎。リィの影」
蓮章だと思っていた男が呟いた。その声には不思議な誇らしさがあった。
東雨の思考は混乱を通り越して、もう、何も感じなくなっていた。
天輝殿の涼景。
右衛房の二人の蓮章。
残暑の夜の蒸し暑さ。
もう、すべてが悪い夢だった。
東雨の記憶の中の蓮章が、何人も、まるで別人のように動いて回った。
花街で自分を巻き込んで茶番を演じたのは、どちらだったのか。
夜の厨房で、自分の隣で切ない顔をしていたのは、どちらだったのか。
どの瞬間のどの蓮章が、自分の知る蓮章だったのか、信じていた蓮章だったのか。
一人の人間の記憶が、ばらばらに砕けていった。
東雨のどうしようもない胸中を、蓮章の灰色の目は見抜いていた。
「東雨、おまえに全てを話したい」
「……どうして……?」
東雨は、思わずつぶやいた。
「そんな勝手で、また、俺を巻き込む気ですか?」
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