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18 凍雨(3)

 息が早かった。頭の中がしびれ、何もかもが恐ろしくてたまらなくなった。  認めたくない涼景の姿も、目の前にいる二人の見知らぬ人も。  それは、ようやく手に入れた自分の平穏を叩き壊してしまう狂気だ。東雨の頬に、ずっと堪えていた涙が伝った。  東雨の涙の意味が、蓮章にはわかっていた。  自分が選んだ道が、どれほど残酷であるのか、蓮章自身が誰よりも理解していた。  それでもなお、先へ進まねばならぬと決めたのは、蓮章の覚悟だった。  たった一人、守りたい人がいた。 「おまえを、卑怯な形で巻き込んだ事は認める。謝罪する」  静かに、蓮章は息をついた。あえて弱めたのではなく、もうそれ以上、声が出ないのだった。 「俺たちは、ずっと時を待っていた。新しい時代を作る時を」  東雨は涙を拭いもせず、何度も瞬きながら唇を結んで、蓮章を見つめた。睨みつけることさえしない東雨の優しさは、生来のものなのか、まわりが大切に慈しんで育ててきた結晶なのか。  蓮章の心はさらに痛みを増した。 「いつか、おまえは言ったな? この世界を変えたい、と」  東雨は一つ、しゃくり上げた。 「俺が言ったのは……」  東雨は、消沈した五亨庵で、自分が口にした言葉を思い出していた。 「俺が言ったのは、ただみんなが笑っていられる世界がいいってだけだ」  熱い涙がまた、ぽろぽろと床にこぼれた。 「でも、きっと、蓮章様たちはもっと恐ろしいことをするつもりでしょう? 誰かが笑う世界じゃなくて、その前に誰かが傷つくんだ」  震える思いを飲み込んで、東雨はそれでも精一杯に訴えた。  吸い込まれるように天輝殿に消えた背中が思い出された。 「……あいつのあんな姿を見せて、自分たちの正体を明かして、俺に何をさせる気なんですか?」 「玲親王には、手を出さない」  慎が、ポツリと言った。  その名に、東雨の涙が止まった。見開かれた目に、戸惑いよりも濃い、狼狽がありありと浮かんでいた。  人質。心縛る鎖。  断ることを許さぬ条件だった。 「若様を、盾にしようと言うんですか」  東雨は恐怖ではない何かに、声を震わせた。 「玲親王には何もしない」  蓮章が繰り返した。 「おまえが、必要なんだ」  蓮章の目は、逃げることを許さなかった。  国を動かし、人命を左右してきた軍師・遜蓮章を前にして、一介の若者に過ぎない東雨に、逃れる術などあるはずもなかった。それは、刀一本で涼景に挑みかかるのと同義だった。 「俺に何をさせようというんです?」  東雨は身の毛がよだった。  かつて、宝順に命じられた、|酷《むご》い言葉が次々と蘇った。  東雨が知る蓮章ならば、決して自分を傷つけないだろうという期待があった。突飛な行動に驚かされはしても、味方であると信じたかった。それが甘えだと気づきながら、あえて目を背けたかった。  世界は、東雨が思う以上に、冷たいのだと、二つの灰色の瞳が無言で告げていた。 「たとえ、蓮章様が何を言っても、俺は……誰も、裏切らない」  自分自身を励ます声で、東雨は首を振った。  精一杯の抵抗だった。 「もう、誰も、裏切らないって決めたんだ」 「そんなことはさせない」  蓮章は、静かに言った。 「おまえの血が、必要なんだ」  じりっと、油灯の芯が焦げる音がした。 「……どういう、意味?」  自らの体を抱いて、東雨は後じさった。  ゆっくりと首を振り、蓮章は立ち上がった。慎の目が蓮章を追った。  怯える東雨の足元に、蓮章は、膝をついた。東雨は目を見開いた。刀を抜かれるよりも大きな驚きだった。  蓮章のそれは、忠誠でも親しみでもなかった。罪を告白し、許しを乞うような、ひたむきな懺悔がにじんだ姿だった。 「東雨、よく聞け」  蓮章は、自分の喉の奥に詰まる言葉を精一杯に掻き出した。 「おまえは、宝順の子だ」  音だけが、逃れようもなく、東雨の耳の底を貫いた。  遅れて、これは夢なのだ、と言う強烈な逃避が心を支配した。  さらに遅れて、自分を見上げる蓮章の瞬き一つしない瞳が、全てを現実に引き戻した。  東雨の心に、波は立たなかった。  蓮章の一言は、何よりも重いはずであるのに、魂の底の底で、遠い日に覚悟していた事実であったような気さえした。 「そう……」  東雨は息を吐いた。不思議と涙は乾き、心が静まった。  一雫すら、否定する気は起きなかった。  それはおそらく、東雨の魂が知っていることだからだ。  石の間に続く小部屋の恐怖。  宝順の前で、何もかも洗いざらい話してしまったときのあの達成感は、ただ支配されることへの諦めではなかった。  それは皇帝に対してではなく、もっと特別な人への無自覚で献身的なまでの愛着だった。自分が満月の度に感じていたあの闇の奥に潜んでいたのは、全て、この血と肉が求めていた渇望だったのだ。  それが今、現実としてかっちりと噛み合い、東雨と祥雲が、一つの線でつながった。  あの人なら、何と言うだろうか。  東雨は沈黙の中で、自分が生涯を捧げた者の思考を引き寄せてきた。  東雨が信じる蒼い瞳は、なんと答え、どんな顔をするだろう。  俺は、あの人に恥じない人になりたい。  東雨の目に、いくつかの色が浮かんだ。そして最後に、それは漆黒と定まって、蓮章を見つめた。 「俺はどうしたら?」 「何もしなくていい。ただ流されて欲しい」  蓮章の声は真剣だった。 「嫌だと言っても、断ることなんてできないんでしょう? だって相手はあなたなんだから。俺が逃げる道なんて、とっくに全部塞いでいるんでしょう?」  蓮章を責める気はなかった。非難するつもりも、罵倒するつもりも、酷い奴だと笑う気すら起きなかった。  東雨はじっと、蓮章を見下ろした。  最初から、蓮章は蓮章だったのだ。ただ、幼い東雨が気づかなかっただけで、過酷な宮中で冷たく生きる冷徹な男の一人に過ぎなかった。  突然、記憶が遠のいて、途端に心が離れていくのを、東雨は止められなかった。  快晴の空に、小さな雲を見つけてしまったような残念な気持ちだけが、胸の中に広がっていった。  蓮章にもまた、辛さが滲んで見えた。  東雨よりも、むしろ蓮章の方が一層重たい何かに、ひたすら耐えているようだった。 「やるか、やらないか、ではない」  蓮章の言葉は、東雨の想像の通り、行く道を決めていた。 「いつ動くか、それだけを、おまえに任せる」  蓮章に譲れる余地は、せめて時だけなのだと、東雨は悟った。 「それでも、引き伸ばして三月。それ以上は強行する」  東雨の喉がかすかに動いた。  また、時が襲ってくるのだ。  月の形を数える日々が、再び始まる。東雨の心が音を立てて縮んだ。 「冬が来る前に、終わらせたい」  蓮章の声は、細かった。  期限を定められているのは、東雨よりもむしろ、蓮章だった。 「必ず、終わらせること……」  我知らず、東雨は呟いていた。  終わらせる勇気があるものだけが、始めることを許される。  いつだったか、どこかで、誰かが言った言葉だった。それが今、東雨の感情を伴って、自分の言葉として口から滑りでた。 「蓮章様には、終わらせる覚悟があるんですか?」 「ある」  蓮章は即答した。だが、その答えに行き着くまでに、どれほどの時間と葛藤があったか、一言に溢れていた。 「東雨。おまえはただ、無事でいてくれたらそれでいい。あとは、俺が全て引き受ける」  蓮章の覚悟は、東雨にもはっきりと伝わっていた。それを疑うことはなかった。だが、胸に留めておくことのできない別の疑念が、東雨を大胆にさせた。 「若様に、何もしないって約束、絶対に守ってください」  東雨は、生まれて初めて、戦いに出た。  相手が国家最強の軍師であろうと、譲れない一線を引いた。 「もし、若様に何かあったら、俺、全部壊します」  東雨の手が震えていた。約束を違えれば、自分の命を絶つ。握り締めた白い指先が告げていた。 「わかった」  蓮章は頷いた。そこに嘘はないと、東雨は信じた。  虚実に曇った過去とはいえ、生身の蓮章がいたと思いたかった。  あの笑顔と交わした言葉が全て偽りだったとは、認めたくなかった。 「一つ、どうしても知りたいことがあります」  東雨は、ずっと隠していた胸を裏返して、さらけ出した。 「涼景は……あいつは、このことを知ってるんですか? 俺を巻き込むこと、あいつは認めたんですか?」  東雨の出生を告げた時よりも、蓮章の表情が沈み込んだ。それだけで答えは明瞭だった。 「知らないんですね」  東雨は声を低めた。 「言えば、反対されるのがわかっているからでしょう?」  それは、まるで、最後の希望にすがりつくような怖さがあった。その糸が千切れたら、本当に谷底に落ちていくような、最後の一すじだった。 「安心しろ」  蓮章の声からは、東雨が思っている以上の苦悶が聞いて取れた。 「涼は、おまえの知っている涼のままだ」  一瞬、東雨は命がつながるのを感じた。 「わかりました」  東雨は、膝を折った。蓮章よりも視線を低め、蓮章に顔を近づけた。  こんなにそばで、蓮章を見たことはなかった。  灰色の瞳は本当に美しかった。  これほどに美しく賢い人が、涼景の一番近くにいたのだと思うと、体中が熱くうねり、耐えがたいほどの嫉妬や怒りが、全身の毛穴の一つ一つから吹き出してくるような思いがした。 「心が決まるまで、待ってください。蓮章様の思いも、世界を変えたいという願いも、吞み込むには時が欲しいから。あと……」  そう、静かに言ってから、東雨の表情にかつてなかった厳しさが迸った。 「どうしても、黙っていられないことがある」  その声は、東雨のものとは思えないほど、大人びて情にまみれていた。 「蓮章様は、涼景のこと、全部ご存知だったんですよね?」  東雨の、危うげな声に、黙って見守っていた慎の顔が青ざめた。 「蓮章様は、ずっと、涼景がどんな目に合ってるか全部知ってて、黙っていたんですか?」  動こうとして、慎は足がすくんだ。東雨と蓮章の間に、同じ光を追う者がぶつかり合う火花が弾けた。  東雨の目は、まっすぐに蓮章を突き刺した。 「どうして、助けてくれなかったんですか?」  叫びはしないのに、東雨の喉には確かに、血が滲んでいた。 「蓮章様なら、何かできたんじゃないんですか?」  荒げることのない声が、平たい刃のように空気を両断した。 「なんで……どうして……助けてくれなかったんですか?」  蓮章は答えなかった。それほどに、東雨の気迫が上回っていた。 「蓮章様は、一番あいつの近くにいて、一番あいつに信じてもらえて、一番あいつに大事にされて……助ける力も、機会もあったはずなのに……どうして、ずっと、あいつを見殺しにしてきたんですか!」  止まらない言葉の最後に、ついに東雨の声が裂けた。  その痛みは、蓮章の痛みでもあった。  慎の耳に、近づいてくる近衛の足音が聞こえた。 「静かに!」  慎の言葉は、東雨には届いていなかった。  今までの東雨とは、まるで違う、全てが抜け落ちたような虚無の表情が、ありありと浮かんでいた。 「俺が従えば、涼景は助かるんですよね?」 「…………」 「今度こそ、助けてくれるんですよね?」 「…………」 「答えてください! そのために動くんですよね!」  蓮章は、しっかりと目を上げた。  まるでとどめを刺すように、二人は見つめ合った。  知らぬ間に、すれ違い続けた二人が、真正面から、一つの心を挟んで対峙していた。  蓮章は、唇を開いた。 「必ず。そのために、待った」  蓮章の声はかつてないほど乾いてかすれ果てていた。どれだけの思いでこの時を迎えたのか、何よりも雄弁に物語っていた。  東雨は、顔を背け、静かに立ち上がった。  もう、二人とも、心は傷だらけだった。  振り切るように、東雨は部屋を出て行った。  扉が閉まる音が、振り下ろされた斧のように蓮章の首を絶った。  はじめに、息。  胸を締める、嗚咽。  慎が蓮章を抱きしめたのと、蓮章が床に崩れ落ちたのは同時だった。  折れて行き場を失った枯れ枝のようにその体は細く、今にも散ってしまいそうだった。 「リィ……」  慎の慈しみだけが、かろうじて人としての蓮章を保たせていた。 「もういい」  優しく強く、慎はその体を自分の胸の中に収めた。卵の中で鳥が身を縮めるように、慎という殻に守られて、蓮章の心は泣き崩れた。  東雨に言われるまでもなかった。  誰より、涼景を救いたいと願い、もがき続けてきたのは、他ならぬ蓮章だった。  どれだけ自らを責め苛んで夜を明かしたことか。  素知らぬ皮肉の仮面で素顔を隠し、泥を被っても笑って見せたか。  ずたずたに引き裂かれた心が発する悲鳴じみた咆哮の絶望。そこには暁将軍としての片腕であった参謀の姿はなく、いばらの棘に引き裂かれた柔らかな傷だらけの命があるだけだった。  慎は精一杯に受け止め、共に堪え続けた。  慎の光のない瞳に、空虚に油灯の火が揺れていた。

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