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19 迅風に馳せ(1)

 遡ること、はるか。  蕭白帝の御代に、ある主従がいた。  これより先、時代を開かんとする情熱の、まだ目覚めるより前の季節のことだった。  秋の深まる頃、宮中を抜ける夜風が細い音で鳴き始めた。  天輝殿の後宮近く、然韋は定められた通りに見回りに当たっていた。  皇子・|迅《じん》の近衛として副長を任されるに至った然韋は、必ずその寝所を訪ねるのが決まりだった。  夜の半ばを過ぎ、寒さが一段と厳しくなる未明、迅の安らかな寝顔を見るために、どんな日も然韋は必ず足を運んだ。  本来、巡回の道は寝室の前までと決められている。  しかし、その扉を開き、二重の壁の奥、潜り戸へ足を踏み入れるのは、迅の許しを得た、唯一然韋だけの特権だった。  迅は然韋に懐き、素直に甘えた。  その夜、冷えた空気は細かな銀色の粉を浮かべていた。  然韋は音を立てずに、寝所へと身を滑り込ませた。  職務の上とはいえ、胸が高なった。  十四歳を迎えた然韋に、十一歳の迅はまだ頼りなく、しかし己の希望として確かに気高く美しい光であった。  柔らかい毛氈を踏み、静かに紫の帳が垂れる牀へと近づいていく。  絹の天蓋は、差し込む月明かりを弾いて、ぼんやりと輝いた。  その輝きの中で、小さな体を褥に埋め、迅は目を閉じていた。その寝顔は儚く、あまりに壊れやすく思われた。  然韋は|枕辺《まくらべ》に跪き、しばしそれを眺めた。  ゆっくりと迅の胸が上下し、音もなく呼吸が繰り返された。  然韋の口元に優しい笑みが浮かんだ。  沈黙の時間が、何よりも得難い宝だった。  蕭白帝は、迅が正妻の子として生まれた時から、世継ぎと定めていた。  身体の不調を抱えていた蕭白帝は、迅に己の血を継ぎ、国を預ける王とするべく、多大なる期待をかけていた。  蕭白帝の虚弱な体質を、迅は受け継がなかった。  生まれながらに活動的だった迅は、自らの元に優秀な者を招いて、儒学や帝王学を学んだ。その師の中には、高名な儒学者であった涼景の父、燕広範の姿もあった。さらに、いずれは政敵ともなる若き日の慈玄宗も名を連ねていた。  師範たちの言葉は本質を突き、家柄や格式を重んじる宮中にありながら、その枠を容易に超えて迅の世界を広げてくれた。聡明な迅は周りが驚くほどの速さで学を修め、時に熱っぽく師範に質問を繰り返した。  迅の関心は知識だけではなかった。掲げるだけで精一杯の重厚な刀を手に、然韋を相手にして武芸の訓練にも情熱を燃やした。一対一で刀を交える時、迅は将来を有望視される才能を垣間見せた。皇位を継ぐ者として数々の制限を受ける中で、懸命に自身を鍛えようとする迅は、然韋には自慢の主人だった。  皇子の剣術の訓練、という名目で、然韋はどれほど私的な幸福を過ごしただろう。  二人で打ちかわす稽古は、当然のごとく然韋の手加減があればこその拮抗だった。それがわかっていて、懸命に打ち込んでくる迅のいじらしさに、わざと負けても良いのではないか、と、然韋はいつも誘惑に駆られた。だが、迅が人一倍不正を嫌うことを知っている然韋は、最後には心を殺して、皇子に膝をつかせるのだった。  遠い過去として振り返った時、二人が過ごしたその時間は、単なる稽古を超えて、迅が唯一、自由に跳ね回った輝く少年の記憶だった。  不意に寝返りを打ち、迅の顔が然韋に向いた。覗き込んだ然韋に応えるように、澄んだ漆黒の目が開かれた。 「お寒くはございませんか」  優しく然韋は声をかけた。 「少しだけ」  迅は甘く呟いた。  自分のことを、兄のように慕ってくれる迅が、然韋には嬉しくてたまらなかった。 「掛け物を厚く致しましょうか」  然韋が傍に目を向けた時、迅は首を振ると、 「|阿兄《あけい》」  甘えて呼びかけ、褥の下から柔らかい片手を差し出した。 「手を、貸して欲しい」  然韋は一瞬息を呑み、それからそっと、自分の手を重ねた。  触れ合った瞬間、迅の熱い体温が、夜風で冷えた然韋の手を驚かせた。 「冷たいな」  迅は小さな手で、然韋の指を握った。 「冷える夜の警備は、辛いだろう」 「いいえ」  控えめな然韋の否定に、迅の顔に気遣う色が浮かんだ。  薄明かりの中、自分を見上げる迅の顔がたまらなく愛しかった。自分だけの皇子と、特別な時間を過ごせることに、若い然韋の胸は狂おしく鳴った。悟られてはならないと思いながら、それでも、急に火照っていく指の熱だけは隠しようがなかった。  迅はそっと声を低めた。 「阿兄、牢に捕らえられた将軍のことを知っているか」  突然の問いに、然韋は慌てて浮わついた気持ちを引き戻し、心当たりを思い出した。 「それは、犀侶香のことでしょうか」 「犀……確か、宰相がそう言っていたように思う。幕環将軍まで務めた、素晴らしい勇者だって」  迅は言った。 「一度だけ、お見かけしたことがある。聡明で優しそうな方であった。とても、罪を犯すとは思われない」  犀侶香は、御代一の強者として名高く、また、民心を得て周囲の信頼も厚い人格者であった。然韋も幼い頃から憧れ、その雄姿を見るたびに胸が躍った。  迅は、じっと然韋を見た。 「犀将軍は、どんな罪を犯したのだ?」  然韋は黙った。迅はねだるように体を傾けた。 「誰に聞いても、教えてはくれないのだ。それほど恐ろしいことをしたのか?」  犀遠の身に何が起きたのか、然韋は知っていた。  しかし、それは幼い迅にとって、あまりに酷な現実だった。  然韋は首を横に振った。 「知れば、殿下の心が傷つきます。皆、それを心配して黙っているのです」  迅は、じっと然韋の目を見つめた。そこには深い信頼があった。 「無知は自覚なき罪だと教わった。だから教えて欲しい」  求める深い眼差し。それは一見単純で、しかし抗いがたい脅迫に似ていた。  然韋は返答に迷い、ゆっくりと続けた。 「善悪は見る者によって、いかようにも変わります」 「阿兄には、どう見える?」  迅の素直な問いかけに、然韋はひとつ息をついた。  そして覚悟を決めて頷いた。 「私には罪とは思えません」  迅は頷き返した。 「そうか。だが、父上は彼を罪人とした。父上の目には悪と見えたということか」  然韋には、それ以上踏み込むことはできなかった。  それは然韋の立場を理解している迅にも、よくわかっていた。  迅は、ただ寂しげに目を揺らした。 「阿兄には悪と見えないことが、父上には悪と思えた。父上が思えば、それが正義となるのか?」  ぴくりとつなぎ合った然韋の手が震えた。迅はさらに、 「父上が誤ることはないのか?」  然韋が決して答えられないと知りつつ、迅は問わずにはいられなかった。 「皇帝とて、人であろう? 人は過ちを犯す存在だと、多くの書に書いてあった」  迅の声は次第と強く、速くなっていく。 「過ちを犯すことが悪なのではなく、それを認めないことがよくないのだと。もし、父上が間違えるのなら、誰かがそれを正さねば……」 「お心を、お沈めください」  人に聞かれることを案じて、然韋は遮った。  迅は荒く呼吸し、涙ぐんで然韋を見つめた。 「阿兄……」  然韋の手を両手で包み、胸の前に抱き寄せて、迅は祈るようにすがりついた。 「話して欲しい。私が傷ついても構わない。私は何があったのか知りたい。阿兄には迷惑をかけないから、どうか教えて欲しい」  限りなく純粋で切実なその思いに、然韋が逆らえるはずもなかった。身を縮めて震える迅は、曇りのない良心のように思われた。  しかし現実の悲惨さは、然韋の口を重くした。  その沈黙をどう捉えたのか、迅は体を起こした。温まった肌を部屋の冷たい空気がすっと包んだ。  然韋は滑り落ちた褥を引き寄せ、細い肩にかけようとした。迅は首を振ってそれを断ると、小さな足を床に降ろし、姿勢を正した。 「人にものを頼み、教えを請う時に、自分が横になっているのは礼を失する」  迅は、然韋にも隣に座るよう促した。  さすがに然韋はたじろいだ。枕辺に跪くだけで十分に臣下の分を超えているというのに、主君の牀に腰掛けるなど、ありえない非礼だった。  ましてや、今は見る者のない二人きりの夜。まるで秘めごとの罪のようで、多感な然韋はひたすらに狼狽えた。 「……お体が冷えてしまいます」  どうにかして迅を戻そうとしたが、迅は一層背を伸ばして、頑なに断った。 「殿下、お風邪を召されてはなりませぬゆえ……」 「ならば、そうなる前に早く話して。話してくれたら牀に戻る」  ささやかれる声のあどけなさに、然韋は思考が止まった。  計算ではないその仕草に、迅に心酔する然韋が逆らえようはずがなかった。  然韋は諦めと嬉しさとが混ざった気持ちで、おずおずと迅の隣に座った。  片手はつないだまま、静かに然韋は口を開いた。 「ご存知の通り、犀将軍は民からの信頼も厚く、宮中でも名高い将にございます。そして……彼には妻がおりました」 「奥方が……」 「はい。犀将軍と同じく歌仙の出身で、玲家の後裔にあたられます」 「玲……聞いたことがある。ずいぶんと古い家柄だとか」 「はい。仙女の血を受け継ぐ家とされております」 「優しそうな犀将軍には、ふさわしい奥方だな」  その物言いに、緊張していた然韋の面が、静かに緩んだ。 「左様ですね。人から見ても良き夫婦であったと聞いております」  然韋の言葉に、迅は違和感を感じた。 「もしや……」  迅は、言いかけて、顔を強張らせた。  然韋が苦しい中で続けた。 「陛下が、奥方を望まれたのです……」  迅は残った片手で膝を掴んだ。  それを見ながら、然韋は努めて感情を押し殺した。 「仲を割かれることを苦とし、お二人は心中を図られました」 「心中?」  幼い迅には、初めて聞く言葉だった。 「愛しあう者たちが、次の世での再会を約束し、共に自害することにございます」  迅は沈黙とともに凍りついた。

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