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19 迅風に馳せ(2)
然韋は重なった指をわずかに撫でた。
「覚悟を決め、お二人で屋敷に火を放ったものの、見張りの兵によって阻止されました。奥方は妾として後宮へ……そして犀将軍は陛下への謀反の罪により、とらわれてございます」
小さく、迅が息を飲むのが聞こえた。
「大切なものを奪われるのだ。どれほど辛いだろう。」
やがて、優しい少年の声が、重たい部屋の空気を震わせた。
「私も、阿兄を奪われたら辛い」
予想していなかった言葉に、然韋は肩を震わせた。
迅は、思わず口走った自分の言葉をわずかに恥じた。
「すまない。そなたは私の妻ではない。だが、大切なものを奪われる辛さは、誰も同じであろうと思ったのだ」
然韋の顔に、笑みとも苦しみともつかぬ表情が浮かんだ。
迅の優しい心根がにじむ言葉は、その真剣な眼差しからも真心であると思われた。
然韋には、迅の心情をどこから理解して良いのかわからなかった。
不遇の運命に落とされた犀遠への哀悼か、望まぬ妾の日々を強いられる玲心への同情か。
それらとは別に、自分に向けられた、あどけなく甘い戯れへの喜びか。
心を揺らす然韋の耳に、聡い迅の声がささやいた。
「奥方はご無事か」
「……おそらくは」
邪念を振り払い、然韋は答えた。
「後宮にてお過ごしかと。詳しくはわかりかねますが……」
迅は何かを思いついて、決意のこもった顔で然韋を見た。
「私なら、奥方にお会いできるのではないか?」
「確かに、殿下でしたら、未だ成人なさっておりませぬゆえ。しかし陛下がお許しになるかどうか」
「阿兄、頼む。取り継いでもらえないか」
然韋はじっと迅の顔を見た。迅はどこか必死だった。
「奥方にお会いして、一言でも詫びたいのだ」
潤んだ目に、心が奪われていくのを、然韋は止められなかった。懇願する迅の目が見開かれ、それから、寂しげに足元に落ちた。
「私の詫びなど、奥方は欲しくもないだろう。それでも、私にできるのは、その程度なのだ」
迅の思いを尊く感じながら、然韋は首を振った。
「殿下。殿下のお心は暖かく、そのお優しさを私は誇りに思います。しかし、追い詰められた奥方が、殿下に何をおっしゃるか、それにより、殿下がどれほどお心を痛められるか……それを思うと、私には……」
「阿兄、私は、許されるために行くのではない」
きっぱりと、迅は言い放った。
「許されようなど、驕りも甚だしい。奥方が、私に会う事により、一層苦しまれるのなら、身を引くべきとも思うのだ。けれど、このまま何もせぬままにいることも、私にはできない。自己満足に過ぎぬのかもしれない。それでも、我が無力を思い知るために、あえて傷つくべきだと思われてならない」
幼い子どもの言葉とは到底思われない、深い洞察と覚悟、そして王としての心構えが迅にはあった。
然韋は途方にくれたように、目を伏せた。
迅の崇高な志は、然韋にとって誇らしく、震えるほどの喜びをもたらした。だが同時に、自ら刃の上に身を投げるかのような迅を平常心で見守れるほど、然韋も大人ではなかった。
どうするべきか、深く沈んでしまった然韋の横顔を見上げて、迅もまた、表情を曇らせた。
「すまない、阿兄。迷惑はかけぬと言ったのに……」
迅のすすり泣く声が、然韋の心の底を深くさらった。
「阿兄が立場を悪くして、罰を受けたりするのは絶対に嫌だ……」
「殿下……」
「すまない、忘れて……」
「わかりました」
然韋は我知らず微笑んでいた。
「殿下のお望みとあらば、いかようにもいたしましょう」
驚いて潤んだ迅の両眸を、然韋は深く覗き込んだ。
然韋の胸は、やけに燃えていた。
大切な迅が傷つくとわかっていた。その志が傷を招く。幼い正義ゆえに心を痛めることに対して、不安は大きかった。だが、それ以上に、高貴な意思を守り通したい望みがあった。己の全てを賭して支える覚悟が、恐怖を上回った。
「私は殿下の近衛です。どうか、存分にお命じください」
然韋は暖かな迅の手を握り、約束を誓った。
数日後、多忙な公務の隙間を縫って、迅は蕭白との面会の機会を得た。
背景には、然韋の奔走があったことは言うまでもなかった。
然韋は、蕭白の側近であった実父の権力を頼り、近衛隊長の顔色を伺い、引き換えに過酷な任務も引き受けた。
後宮勤めの宦官によれば、玲心の心は消沈の極みに落ち込んでいたが、迅への恨みは見られないという。それでも、然韋に不安は残った。場所が場所、相手が相手であるため、然韋自身が迅とともに行くことは許されなかった。
大切な主人が、自分の目の届かぬところでどんな目にあうか、それを思うと心がぐらぐらと揺れた。
迅と然韋にとって、それは大きな賭けであり、同時に乗り越えるべき信頼の試練のようでもあった。
蕭白帝と迅の面会は、後宮と中宮の境に並ぶ楼閣の上でのわずかな時間だった。久しぶりに顔を合わせる親子の間に、寒風が渦を巻いていた。
迅は頬を赤くして、まっすぐに立っていた。背の高い父の姿が|階《きざはし》を上がってくると、然韋たち近衛は脇に下がって姿勢を低くした。
迅は父を見上げた。父とはいえ、皇帝である。顔を見ないようにと頭を下げたが、子ども心の愛着からか、時折ちらりと視線が上がった。
楼閣の柵の向こうに、舞い散る木の葉が風に踊っていた。その光景を眼下に見ながら、蕭白はうっすらと笑った。
「迅、そなた、玲心に会いたいと申すか?」
「はい、陛下」
臣下としての礼を欠かず、迅はうなだれた。蕭白はほくそ笑んだ。
「やはり我が子というべきか。幼くとも、女に目が向くとは」
蕭白の露骨ないい草に、蕭白の近衛たちが同調し、ひそひそとした声で笑うのが聞こえた。唇を噛んで、然韋は苛立ちを押さえつけた。
色狂いの蕭白と迅とを並べて評価されることに、然韋は怒りを覚えずにはいられなかった。
「よかろう」
あっさりと蕭白は承諾した。
「いずれ、そなたの妹の母となる者だ。会っておくと良い」
「……妹、でございますか?」
不思議そうに迅は首をかしげた。
「そうだ。あれは女を産む」
迅は恐る恐る、
「しかし父上、赤子は生まれてみなければ男か女かわからぬものと聞きます」
「女なのだ」
蕭白は強く言った。
その声に、迅はぴくりと体を縮めた。
「女でなければならぬ。玲家の血を引き、朕の血を継いだ娘でならねば役に立たぬ」
役に立たぬ……?
迅には、父の真意がわからなかった。
それでも、確かめたいことがあった。
「もし男であったなら、どうなさるのです?」
「ありえぬ」
迅は気圧され、一歩後じさった。
蕭白はそっと迅に向き直ると膝をかがめ、その顔を見上げた。大きな手が迅の怯えた顔を無遠慮に撫でた。父の慈愛よりも、権力を持つ者の優越と支配が伺えた。
「男であれば、いずれそなたの身を脅かす。決して、ならぬ」
鋭く掌白は言い放った。蕭白の目の中に、迅は曲げることのできない未来を感じた。
皇帝の、父の、その言葉が正義だった。今までも、これからも、あまりに迅は無力であった。
ひとつ笑うと、蕭白は踵を返した。
「あれに会うのは一度きりだ。そなたも来月には冠礼、そして正妻を取ることになる」
言い残して、蕭白帝は楼閣を後にした。
その後ろ姿を呆然と眺めながら、迅はそっと手を握り締めた。然韋の少し前で一部始終を見守っていた背の高い少年が、そっと迅のそばに寄った。
「兄上」
迅は、はっとして振り返った。今になって、足が震えていたことに気づいた。
「お寒いのでは?」
皇子・姜は、自分が肩にかけていた乳白色の外袍を、迅に羽織らせた。香の匂いと温もりが、緊張に凝り固まっていた迅を優しく解きほぐした。
迅は、何かを訴える目で、一つ違いの弟を見つめた。
父に感じた恐怖も、姜に寄り添うと緩やかに解けていくようだった。
「|姜《きょう》、また背が伸びたのではないか」
迅は、面纱で半分隠した姜の顔を見た。映相のために目元がぼんやりと歪み、かろうじて瞬いたことだけがわかった。
「私より背を高くするな。なんだか寂しいから」
「兄上……」
きっと、困った顔をしているのだろう。
決して見ることのできな弟の表情を、迅は想像して胸を震わせた。
それは、姜の歪められた宿命だった。己の顔を持たず、他者の心を映す鏡となるだけの虚像として生きること。姜本人すら、鏡を覗いて見るのは、兄である迅の面影だった。
迅は両腕を伸ばして、姜を抱きしめた。その温もりと体の感触は、紛れもなく命と時間を分け合ってきた弟のものだった。
姜の肩越しに、迅は強い眼差しを空へ向けた。
初冬の空は、氷でできていた。踏めば割れる、薄く鋭い一面の空に、どこにあるかもわからない太陽の光が映って、白く淡く広がっていた。
眼下には天輝殿の複雑な屋根が並び、その隙間には枝ばかりが目立つ木々が寒風に耐えていた。風が、つんとする冬の香りを運んできた。
迅は、決意を込めた眼差しで、姜を見た。
「姜。これから生まれてくる私たちの兄弟は、辛い運命を背負っている。それが妹であれ、弟であれ、生まれる前から定められている」
迅は、ふっと笑いかけた。
「私たちで守ろう」
兄として。
姜には、兄弟の約束はきらめく小さな希望に思われた。
「私たちに、できますでしょうか?」
「できる」
強く言ってから、迅は少しはにかんだ。
「やらねばならない。それが、先に生まれた私たちの役割であり、身をもって示す人の道だと、私は信じている」
然韋を始め、迅と姜の近衛たちは、身が引き締まった。
横暴の限りをつくす蕭白の元に産まれながら、この兄弟はあまりに異質だった。異質に見えた。そうであって欲しかった。これからも、永遠に。
祈りる思いが、冬間近い楼閣の上に、雲霞のように漂っていた。
「姜、共に歩んでくれるか?」
「兄上に、ついてまいります」
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