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19 迅風に馳せ(3)

 幼くまっすぐな二人の少年の思いは、強い誓いの言葉となって、無機質な空に吸い込まれてゆく。  歪んだ世界の中で、二人の姿はあまりに眩しく、然韋は目を細めた。  翌月、蕭白が整えていた通り、迅は冠礼の義にのぞみ、父が決めた許嫁である宇城との婚礼を執り行った。その際、恩赦として、迅は犀遠を歌仙へと逃がした。蕭白は一度は退けたものの、犀遠が二度と紅蘭の地に戻らないことを条件に、それを許した。  犀遠の命を助けたことで、一つ、迅は強くなった。  いずれ、自らが皇帝の座に就いた時、犀遠には相応の償いをすると心に決めた。  時はただ、残酷に過ぎていった。冬が過ぎ、春が巡り、夏が燃えた。  やがて、秋風の香る頃、玲心は子を生んだ。  男児だった。  産湯につける暇もなく、玲芳は赤子を連れて後宮を逃げ出した。手引きはすべて、迅によるものだった。弟の命を救うため、迅は手を尽くして玲芳に託した。然韋もまた、近衛を警護に当たらせ、追っ手を撹乱した。  玲親王を都から逃がしたこと。  これが、蕭白と迅との間に決定的な溝を作った。  それまで水面下でくすぶっていた、蕭白に対する不満は、徐々に表に噴き出してきた。燕広範は都を去り、歌仙の本家に隠遁する道を選んだ。慈玄宗は蕭白から距離を置き、宝順を陰で支えながら、秘府の長官へと下がって中枢から降りた。右相を勤めていた遜家の当主を始め、多くの者が蕭白帝の身辺を離れた。  孤立する蕭白に代わり、宝順の周囲には、次第とその治世を望む者たちが集まり始めた。  世は、確実に譲位へと風向きを変えた。  だが、そんな周囲の期待が押し寄せる中、当の迅は最後の一手を打てずにいた。  十五を過ぎ、十六を迎え、十七を数えるようになっても、自ら皇帝の座に就くことを拒み続けた。  蕭白はその頃、体を病むことが増えていた。一説には、非業の死を遂げた玲心の呪いではないか、と噂する者もいた。  蕭白は衰えゆく中で、迅への執着を強めていった。  すぐにでも位を譲り、新たな皇帝として立つことを望んだ。しかし、迅の拒絶は頑なだった。まるでそれこそが、父の御代、ひいては国の腐敗に対する唯一の抵抗であるかのように、承諾することはなかった。  天輝殿の中宮の隅に、次期皇帝を約束された者とは思われない小さな部屋が二つだけ、迅に与えられていた。望めば国が手に入る。だというのに、迅は寡黙に蕭白帝に応じることはなかった。  二つ年上の宇城と二人、静かに時を過ごし、幽閉の牢とも言える部屋の窓から、季節の遷移を苦しげに見つめた。  然韋は部屋の戸を守り、昼夜を問わず、外の様子を迅に伝え続けた。日を重ねるごとに、迅の即位を願う声は高まった。今を逃せば、臆して能なき者として、二度と顧みられることもないかという限界だった。  惜しまれつつ、それでも断固として皇位を否定していた迅の元を、姜が訪ねたのは、冬も厳しい最中の出来事であった。  窓の外には無音の雪景色、雪片が舞い、凍える部屋にはたった一つの炉に薪がくべられていた。迅は宇城とともに炎の近くの長榻に身を預けながら、ぼんやりと橙色の揺れる火を目に映していた。 「殿下」  扉を開けて、然韋が滑り込んだ。 「詩仙様がおいでにございます」  宇城の膝から、迅は飛び起きた。  然韋の体に隠されるようにして、すらりとした長身の若者が中を覗き込んだ。 「そなた、どうして……」  迅は宇城の腕をひと撫でしてから、姜に駆け寄った。面纱の向こうには、優しい瞳が迅を見下ろしていた。 「また、背が伸びた」  微笑んで、迅が言った。姜の目にもまた光るものがあった。 「西苑へ避寒したと聞いたのに」  迅は優しく姜の背中を抱き寄せた。半年以上引き離されていた兄弟の間に、時を超えた温情が溢れていた。  然韋は人目を避けるように扉を閉めた。  姜は、鼻先に触れる迅の髪に顔を埋めた。 「兄上がお一人で苦しんでいらっしゃる時に、私が離れていることなどできません」  その声は丸く甘かった。 「しかし、そなたの体には、都の冬はこたえるであろう」 「兄上の心を凍えさせる、辛き思いに比べれば……」  優しく交わされる声。  この世に、互いに互いの手を取ることができる、ただ一人の兄弟。二人の間の絆は深く強く、尊かった。  然韋の目が、姜の背に回された迅の指先の震えを捉えていた。宇城の目は、迅の肩をしっかりと包み込む姜の白い手首を見つめていた。皇家の血に生まれた二人の兄弟は、他者には入り込むことのできない愛情でかたく結ばれていた。 「兄上」  姜はそっと耳元で言った。 「決して、なりません」  それが何を意味するのか、然韋にも宇城にもわかっていた。だが、二人はただ黙っていた。これは兄弟だけの、覚悟の問題である。 「兄上。父上の挑発に乗ってはなりません。待ち続けることは、さぞお辛いでしょう。けれど、それが今の私たちにできる唯一の抵抗なのです」 「姜」  決して優しいだけではない、迅の強い声が呼んだ。 「そなたの想いはわかる。私も、このまま皇家を捨てるつもりでいた」 「兄上?」 「だが、私は受けようと思う」  その場の三人が、それぞれにかすかな動揺を示した。それを感じ取り、迅は続けた。 「阿兄」  姜の肩越しに、迅は呼びかけた。 「一万であったな。父上が、千義に差し向けたのは」 「左様にございます」  然韋は答え、そして喉の奥で悔しそうに音を鳴らした。  姜は目を閉じた。 「なりません。兄上の優しさに漬け込む策だと、ご存知のはず」 「私が拒めないと、そなたも承知のはずです」  わかりすぎるほどに、姜の胸に現実が突き刺さった。迅は頷いた。 「一万の兵には一万の情があり、命がある」  迅は一言一言を噛み締めるように言った。 「一人ひとりに家族があり、友があり、幸福があるのだ」 「ですが……」 「私が動かなければ、その全てを無意味に壊してしまうだろう」  放すまいと、姜は迅を抱きしめた。 「これ以上、時を稼ぐことは許されない」  蕭白帝が下したのは、迅を揺さぶる挙兵であった。千義と戦う理由など、一つもなかった。ただいたずらに戦闘に持ち込み、意味なく命が散る様をもって迅の心を引き裂くためだけの、非道なる脅迫であった。  迅は姜の髪を撫でた。 「私がこの国を継げば、出陣を止めることができる。そうだな、阿兄?」  然韋は、堪えきれない息を吐いた。誰よりも迅のそばにあり、その生き様を見てきたからこそ、途方にくれた。  聞こえなければ良いという思いで、然韋はささやいた。 「殿下が譲位をお受けになれば、殿下がこの国の皇帝にございます」  覚悟など、決めて欲しくはなかった。  国を背負うということ、それは単に責務の重さだけではなかった。自由を奪われ、命を狙われ、言葉一つで多くの運命を左右する。それは血筋とはいえ容易に受け入れられるものではなかった。  迅は決して、臆病ではなかった。自らの役割を理解し、賢帝となるべく努力を惜しまなかった。その彼が、最後に立ちすくんだのは、巨大な時間の壁だった。三百年続くこの国の皇帝が、即位を境に次第と暴君へと変容していったという、揺がしがたい歴史だった。  慈愛に満ち、公平であり、人に望まれる迅といえど、幾年、正気を保つことができるか、わかりはしなかった。皇帝の位とはすなわち、自己崩壊への呪いと同義であった。  なぜ、そのようなことが繰り返されるのか。幼い頃から迅は考え続けた。  権力は人を歪める。強大な力が己を過信させる。己の私欲がやがて善悪の基準に変わる。  堕ちることのない強さを手に入れるために、迅はひたすらに学んだ。多くの者たちの言葉に耳を傾け、自らと違う意思にも心を砕いた。共感はならずとも理解すること、知ることに、迅は若い月日を費やしてきた。  心を狂わさず、皇位にあり続けるための、迅の精一杯の抵抗であった。それが果たして、重たい歴史の因習にどれだけ通用する刃となるのか。  即位はすなわち、一度踏み出したならば、戻ることを許されない不可逆の選択。その岐路に立たされ、迅は孤独な胸の中で、何百何千もの未来を思い描き、打ち震えた。  覆いかぶさるような不安に揉まれ、それでも逃げずにとどまり続けた迅に、蕭白は他者の命を持って決断を突きつけた。  姜は、そっと迅の頬に触れた。迅は顔を上げた。重なる視線。黒く、黒曜石のごとき迅の瞳は、強い意思とともに隠しきれない恐れに震えていた。姜は薄い面纱の下で笑った。緩んだ目元が、優しい眼差しで迅を包んだ。 「兄上は一人ではありません。いかなる未来となろうとも、私は必ずおそばにおります」  迅は涙に潤んだ目を、背けることはなかった。決して素顔を見ることのできない姜の、心の底は鮮やかに差し出されていた。 「兄上が、背負われるというのなら、私も私にしか成せぬ役割を果たしましょう。そして、心咎めようと、玲親王となる私たちの弟にも負わせることになりましょう……」  迅は瞬き、大粒の涙が足元に落ちた。 「星に、か」  静かに生きて欲しいと願い続けた歌仙の弟の目に、自分たちはどのように映るのだろうか。 「あの子に、何の罪があろうか……」 「罪など、誰にもありません。これは、さだめ」  姜は迅の涙の跡を指先で拭った。 「血の、さだめにございます。兄上も、私も、星も、そのために命を受けたのだと、私は覚悟しております」  姜の肩に頬を預け、迅は深く、頷いた。  宇城は顔を袖で抑え、然韋は見開いた目に二人の皇子を焼き付けた。  過去も未来も閉ざすように、一晩中、雪は降り続けた。  翌日、新雪に靴跡を残して、迅は、宝順帝へと続く道を歩き始めた。

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