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20 砕けた鏡が照らす夜(1)
玲凛の覚悟は決まっていた。それは、強靭な精神を有する彼女が、本気で現実を打ち破ろうと構えた瞬間だった。
後宮の迷宮の果てにある孤立した場所に、慎ましく宇城は屋敷を構えていた。華やかな側室たちが集う梅香館から遠く離れ、幾重もの湾曲した回廊と段差を越えた最深部へと、玲凛は大股に歩んだ。
すでに、後宮の地図は彼女の中にあった。
宇城に与えられた区画には、競い合うように焚きしめられた強い香や色鮮やかな装飾は一切なく、屋敷の入り口から居室まで、世捨て人の隠れ家のような静けさで満たされていた。水の匂いさえしない乾いた静寂が回廊を埋めていた。
居室の前に控えていた女官たちが、渋々と道を開けた。
玲凛の訪問は前もって知らされていたが、宇城に対する遠慮をしないその性格は、厳格な女官の目には無作法極まりなかった。
玲凛は一歩、中へ踏み入ると、素早く見回した。
部屋の中央には使い込まれた漆塗りの几案があり、その表面には桔梗が描かれていた。高い欄間から差し込む弱い曇天の光が、黒檀の床板を濡らすように溜まっていた。窓には細い葦を揃えたすだれが掛かり、明かりを最小限に抑えた室内は昼間でも薄暗く沈んでいた。最低限の行灯があるだけで、殺風景という形容が相応しかった。
冷たい清潔感に満ち、埃一つもないほど清められていたが、それは気品ではなく、生気を失った空間特有の冷徹な清涼感を醸していた。
宇城の居室に堂々と歩み行った玲凛は、そばに控える侍女の不満をものともせず、御簾の向こうの宇城と近い距離で向き合った。
絹の御簾越しにも、玲凛の力強い表情ははっきりと宇城の目に見えた。玲凛は背を伸ばし、寿魔刀を抜くと自分の前に横たえた。
「宇城様」
珍しく敬意さえ感じる声で玲凛が呼んだ。宇城は小さく手を挙げて合図した。侍女の一人が簾を巻き上げた。
宇城はわずかに膝下を斜めに傾け、低い交椅にかけていた。その装いも、部屋の様子と同様に控えめだった。色彩を抑えた深い藍色の袍に、光沢をない墨色の裳、黒糸で施された蔦模様の刺繍だけが、かろうじて彼女の身分の高さを証明していた。
腰の帯に、亡き皇子の形見である質素な玉飾りが一つだけ垂れているのが物悲しかった。高く結い上げた髷を飾るのは二筋の簪のみだった。
「皆は下がっていなさい」
宇城が人払いをすると、部屋の中は一層静かになった。
玲凛は、膝の上に手を重ね、しっかりと顔を上げたまま、微動だにしなかった。宇城もまた、玲凛に臆した様子もなく受けて立った。
おもむろに玲凛は口を開いた。
「先のお話や、見せていただいた数々のこと、すべて私の中で考えてきました」
しっかりとした口調で玲凛は続けた。
「その上で、正直にお伝えします。今の私には何が起きているのか、さっぱりわかりません」
清々しいほどに潔く、玲凛は認めた。
その言葉に、宇城はわずかに落胆したようだったが、それでも希望は捨てていなかった。
「私が、あなたに何を話せば、あなたの考えは先へ進みますか?」
玲凛は一瞬考えてから、はっきりとした声で言った。
「宇城様が知っているすべてのことです。それでも、必ず進むとお約束は出来ません」
「……どこまでも、正直な方ですのね」
「取り繕うのが面倒なんです」
宇城はわずかに目を揺らしたが、それは純粋な困惑だった。
「あなたに答えたくても、私が知っている事はあまりにも少ないのです」
宇城もまた、正直に己の無力を認めた。
「それでは私の問いに、順に答えていただけますか?」
玲凛はいつもの勢いを抑えて、落ち着いた態度で通した。宇城は頷いた。
「私が知ることはわずかです。答えられないこと、不確かなこともあることをお許し願いたく思います」
「それでも良いのです」
玲凛は言った。
「わからないことはわからないと言ってください。推測の域を出ないのなら、それで構わない。真偽の不確かなことを事実のように語られるのが、私には一番困りますから」
宇城はしっかりと頷いた。
「私が知るすべてを、あなたに伝えることを約束しましょう」
玲凛は心を落ち着けた。余裕があるように見えて、実のところ、どこから切り出そうかとぎりぎりまで迷っていた。
「それでは初めに」
玲凛は一つ息を吐いた。
「宇城様があの石造りの部屋でお会いしていたのは、宝順帝に間違いありませんか?」
宇城は頷いた。
「少し複雑な話になりますが」
宇城は、誤解のないよう精一杯に努めているようだった。
「陛下には秘密がございます。国を治める帝、しかしその陛下の中には、もう一人の別の人格がございます」
にわかには信じがたい告白だった。
玲凛は一語一語を咀嚼し、自分の記憶に焼き付けていった。秘密の暴露の証拠となるため、文字に残さず、すべては音となって宙に消えた。
「別の人格とはどういうこと?」
玲凛の問いに、宇城は細心の注意を払って答えた。
「私がお会いしているのは、本来の宝順帝です。あの方は幼い頃からお優しく、慈悲深い方でした。あなたもご存知のように、犀将軍を救ったのも、玲親王殿下をお助けしたのも、あの方の真心によるものです」
「存じています。宝順帝が先の蕭白帝に逆らってまで、叔父上と星兄様を守ってくださったと」
正直に玲凛は言った。宇城は寂しそうに、
「お優しいあの方は、皇位を継いでから豹変なさいました。それは権力を手に入れ、想像を絶する心的負担を強いられたからではありません」
宇城の言葉は玲凛の記憶にしっかりと刻まれていった。
玲凛は口を挟んだ。
「多くの権力者は、力を握ると人格が歪む。そうなるのが常と聞きますけど……」
宇城は今までで最も強く、首を振った。
「あの方が変わってしまったのは、そのような俗説のせいではない」
「では、どうして?」
大きく一歩、玲凛は宇城の領域へ踏み込んだ。
脇の灯火がじりりと空気を焼いた。焦げ臭い匂いが玲凛の鼻孔をついた。
「私も詳しい事は存じ上げない」
宇城は、目を伏せた。
「私が聞いたのは、即位する前の陛下の言葉です」
宇城は遠ざかった時代へと思いを向けた。
「父帝に代わって皇帝となること。陛下はそれを、酷く恐れていらっしゃっいました。私も初めは、権力の頂点に立つこと、そこにご自身が毒されていくことを恐れていたのかと思いました。けれど、そうではなかったと、今ははっきりとわかります」
玲凛は深い思慮をたたえて、
「恐れていたのは、権力ではなかった、と?」
「はい。それは呪いだった……」
いきなり精神的な話を持ち出されて、玲凛は眉をひそめた。
「呪いが宝順帝を変えたと?」
宇城はしばらく黙り込んでから、慎重に言葉を選んだ。
「正しくは、呪いのような、何か……」
宇城の沈黙を、玲凛はただ黙って見守っていた。
やがて宇城はまた静かに話し始めた。
「皇家の歴史上、将来を有望視され、皇帝となる素養を持ち合わせた方が多くいらっしゃった。しかし、その方々も皇位につくと、性格が豹変していった。それはまるで、何かが乗り移ったかのようでした。歪んだ魂のような……」
「魂……」
玲凛は苦渋に口を歪めた。
この類の話は、幼い頃から日常的に聞かされてきた。そして最後にはいつも、役立たず、と烙印を押されて自分の無力を突きつけられた。
「呪いだの魂だの、気軽に、そんな言葉を使わないで欲しい」
思わず、玲凛は低く唸った。
宇城はわずかに驚いた目をして、玲凛を見た。
宇城に罪がないことは、玲凛も重々承知していた。単なるもののたとえである。それでも、玲凛の心の底から、嫌悪と憤りが噴き出してきた。
「軽はずみな言い回しをお許しください」
宇城は、あっさりと首を垂れた。わずかに、玲凛の溜飲が下がった。
「けれど、私には、その他に、形容のしようがないのです」
「つまり……」
玲凛は気持ちを殺しながら、
「宇城様は、宝順帝の性格が変わったのは、本来の性格とは別に、外部から特別な何かの力が働いたから、と言いたいのね」
宇城はうつむくように頷いた。
「おそらく、それは逆らいがたい何かなのです。陛下が即位し、一年も経たぬ間に、そのご気性は歪んでしまいました。まるで、あの方が忌み嫌い、決して習うまいとした父帝と変わらぬご様子に。嗜虐を引き寄せ、権威を武器とし、周囲を圧し、恐怖で統治し、憎しみを煽り、それを楽しむほどに変わり果ててしまわれた。まるで別人です。私には止めることができませんでした」
悲痛な宇城の回想を、玲凛はじっと聞いていた。
「あの方は、最初からそうなることをわかっていたのだと思います。それゆえに、頑なに即位を拒んでいらしたのだと……」
宇城の言葉に推論が混じった。
「宝順帝は、最初から、自分がその……皇家の呪いに取り込まれることを想定していた、と?」
「すべては最悪な方向に」
宇城は静かに答えた。
玲凛は唇を噛んだ。宇城はか細い声で、
「代々受け継がれる皇家の呪いは、今もなお、あの方の身に宿り続けています」
ふと玲凛は、石の部屋で感じた男の気配を思い出した。皇帝と呼ぶにはあまりに弱々しい生命力だった。
「私には、あの部屋にいたのが、噂に高い暴君とは思えなかった」
宇城は深いため息をついた。
「新月の夜、呪いの力は弱まります。あの方はまだ正気も残していらっしゃる。それを知っている呪いは、新月が近づくと、ご自身を石の間に縛り付け、一夜を明かすのです」
「正気に戻った体を自由にさせないために?」
「ええ。呪いは、今も、完全にあの方を取り込んではいません」
玲凛は少しずつ状況を飲み込みながら、事の重さをひしひしと感じた。
「新月の夜にだけ、正気に戻る……」
「けれど、それを過ぎれば、またあの方は支配されてしまうのです」
玲凛は、膝の上で手を握り締めた。
「宇城様が私に言った、あの方を助けて欲しいというのは、その呪いを解き、宝順帝を本来の人に戻したいということ?」
「それが叶うことだけが、幸いにございます」
宇城は眼差しを強くした。
「今も、陛下は……本当の陛下は、ご自身を蝕むものと戦い続けていらっしゃる」
玲凛はいつしか、口元に手を当てながら、考えに耽っていた。
「宇城様がおっしゃることが真実だと仮定して……」
玲凛は嚙んで含めるように順を追いながら、
「宝順帝に取り憑いている、何か、を浄化することができれば、助けられるってことになるわね」
「可能でしょうか?」
祈るような宇城の表情に、玲凛は渋い顔で返した。
「その正体が何かはわからないから、確固としたことは言えないです。でも、もしそれが傀儡ならば、理論上は、陽兄様の傀儡喰らいが一番可能性が高いと思います。けれど、それはあまりに危険過ぎます。陽兄様が直接宝順帝と接触する必要がある。それに、相手の力の大きさがわからないということは、たとえ接触できても、浄化できるかどうかはわからない。それどころか、長年にわたる大きな力を持った傀儡ならば、逆に陽兄様の命を脅かします。そんなことは、何を引き換えにされたって、できません」
きっぱりと、玲凛は拒絶した。宇城にも、玲凛の兄を思う一途が突き刺さっていた。誰もが、譲れないものを抱えて生きている。それは一つとして、軽んじられて良いものではなかった。
宇城の唇が薄く開き、絶望の息を漏らした。玲凛はそれを聞き逃さなかった。
「もうひとつ、方法がないわけではないです」
玲凛の声は、珍しく憂鬱な色を滲ませていた。
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