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20 砕けた鏡が照らす夜(2)

「もし、一瞬であっても、宝順帝に取り付くものを具現化することができれば、私が寿魔刀をもって切り捨て、消し去ることも……」  その代償に、自らの命が尽きるかもしれないけれど。  玲凛はみなまで言わずに、希望を残した。 「とにかく、正気の本人に会う必要がある。本当のことを知らなければ、憶測で動くのは危険すぎる」 「では、次の新月の夜に」  長い年月、己の弱さを味わい続けてきた宇城の顔に、あまりに久しい安らぎのひとひらが垣間見えた。玲凛は、毅然として言い放った。 「道は覚えています。私一人で行きます」  だが、宇城は首を振った。 「それは、無理なのです」 「私一人では許可できませんか?」 「そうではありません」  宇城はそっと、自分の足を撫でた。 「私の足でなければ、辿り着けない。月ごとに、あの部屋への道は変わるのです」 「……はぁ?」  玲凛は間抜けた声をあげた。 「そんなこと、あるわけない。地下に掘られた石と土の通路だったもの」 「けれど、本当なのです」  頑なに、宇城は言った。  玲凛は眉を寄せて、 「でも、宇城様は迷わず部屋に行ったじゃないですか。道を覚えているのでしょう?」 「いいえ、私は道を知りません。ただ、この足が導いてくれるのです」  そう言いながら、宇城はそっと裳の裾をめくり上げた。その仕草には嬉しささえ漂っていた。 「陛下が正気を保たれていた頃に施してくださった術が、今も私を陛下のもとへ導いてくださるのです」  そう言って、宇城は微笑した。 「足が自然に動き、引き寄せられるように、正しい道を歩ませてくださる。これはお守りなのだと陛下はおっしゃいました」  玲凛は顔を歪めた。  そもそも、道が変わるはずはない。それに、足が勝手に動くのなら、それは加護ではなく、呪術だ。  玲凛は言葉にするよりも先に、自分の中で考えを整理した。  宇城は愛しそうに、足を撫でた。  傀儡使い。  玲凛は心の中で思ったが、口には出さなかった。  人の体に宿り、人を操る術がある。かつて、夏史が何者かに操られていたように。紀宗が自分の周辺に奴隷として心を失った人間を置くように。  玲凛は宇城の足元を見ながら、 「それ、見せてもらえますか」  宇城は一瞬手を止めた。それからそっと足首を覆っていた黒布を巻き取った。  柔らかい灯の明かりの下で、宇城の白い足首に赤く薄く線が見えた。  くるぶしの裏側に、骨に沿って目立たぬよう、浅くつけられた傷跡であった。一見すると、気づきもしない淡い色。  だが、一目で玲凛は、全身から血の気が引いた。  これはただの偶然なのか。それともすべてがつながっているのか。 「宇城様」  玲凛の声は、何かに震えていた。 「この傷をつけたのは、宝順帝なんですね?」  宇城は目を細めて頷いた。  思わず玲凛は寿魔刀を胸に抱えた。その動きが荒々しく、宇城は一瞬、ひるんだように身を引いた。  突然、玲凛の目の前に落ちてきた真実は、あまりに衝撃的だった。  暁将軍を縛り付けていた鎖。それは、病弱な妹でも、蒼色の親王でもなかった。  新月の夜の暗さは、昇らぬ月のためではない。満天の星が輝いていようとも、その光は、かの親王の面影のごとく冷たく、冴えて、暴力的なまでに世界を青く濡らすだけであった。  甘く匂い立つ乳色の光、煌々たる月が失われた夜。その夜空の下に立つくらいなら、真の闇の方がまだ、救いがあった。  備拓は、夕泉の望む通りに、夜の天輝殿へと左近衛を率いて参上した。大階段の脇から側道へ回り、輿が一つようやく通り抜けられるだけの門をくぐって、禁軍兵の警戒の視線に遠慮しながら、先へ進んだ。  結局、繰り返されるだけなのか。  備拓は夕泉の前に立って前庭の隅を歩きつつ、静かな隊列の足音を聞いていた。篝火が近づき、爆ぜる音が高まったかと思えば、背後へと遠ざかっていく。そうやって長く石壁に沿って歩み、正規の道ではない黒い柱の間を抜けて、天輝殿の中程へ向かった。  石の間へと続く、すでに何度も通った道だった。  先の夏、備拓は、長く保ってきた主人との距離を詰めた。己の過去を語り、打ち明けることはないと思っていた心の内を言葉にした。それらは全て、夕泉の本心を引き寄せるための最後の策であった。  だが、結果として夕泉がもたらしたのは、日頃と変わることない、繰り返されるただ一つの望みだけだった。 『新月の夜、天輝殿へ』  結局、何も変えることはできなかった。  虚しさが備拓の満身を浸した。蓮章をけしかけ、夕泉に揺さぶりをかけもした。それでも、望む真意に手は届かなかった。  危険を冒してまで挑んだ勝負も、肩透かしを食っただけで終わった。  夕泉が、皇子の殺害に婉曲的に関わっていたことは間違いなかった。一切の欲を見せず、人を避けて静かに息をひそめる夕泉が、何ゆえそのような暴挙に及んだのか、備拓には皆目見当がつかなかった。何もかも、手応えのないまま無為に時が過ぎた。  左近衛を控えの間に待たせ、備拓は夕泉を先導して人の寄り付かない石の間への廊下を歩んだ。  新月の夜だけは、石の間に嘆きが響くことはなかった。その日に意味を持って夕泉が訪れているのかは、備拓にもわからなかった。  ただ一つ言えることがあるとするならば、それは、外からは開くことのできない呪われた扉の向こうにあるものを、夕泉は知っているという一点だけだった。  足音さえなく、夕泉は黙って備拓の後ろを着いてくる。  こうして、主人を先導するのは近衛の誉れだった。夏史の一件を除いて、備拓には夕泉の近衛としての落ち度はなかった。その一事とて、最善を尽くして忠義に徹した。  まだ、足りないか。  万策尽きた備拓の背中に、夕泉の無機質な視線が注がれていた。  不器用な老兵の真摯な忠誠を見落とすほど、夕泉は無能ではなかった。だが、正面から答えられるほどに、状況は単純でもなかった。  気付かなければ、そこまでの縁。  夕泉は誰でもない顔を、わずかに伏せた。  備拓が夕泉に向けた問いかけ。  夕泉が心に描く唯一の存在。  その答えは既に隠されることもなく、いつでも明示されていた。  だが、美しい花の色は知っていても、その名を知らぬことがあるように、目の前にあってもそれが答えだと気付かぬことは往々にして起こりうるのだ。  夕泉は、人を動かすことを諦めていた。  諦めることに馴らされていた。  夕泉に背負わされた映相は呪いである。  誰一人として、本当の夕泉を見る者はない。自分で鏡をのぞく時でさえ、心に残る人の面影がそこにはあった。己の顔さえ知らない生涯は、自分のものとも思われなかった。  宝順が皇帝の座についた時、夕泉もまた、覚悟を決めた。  心の目を閉じても、自分の道を見失うことはなかった。  水面に映る、大切な人の面影は、決して色あせることはなく、どんな時も変わらずに夕泉を導いた。何が二人を引き裂こうとも、結ばれた誓いは揺らぎはしない。言葉も体も隔てられ、交わすことのない闇夜であろうと、心の深淵はは確かに互いを宿していた。  伯華。  夕泉は日に何度も、犀星を思った。  それは贖罪にも似た、祈りの言葉のようだった。  今宵もまた、石の間の重たい扉は、閉ざされていた。  新月の夜、静寂の中、明らかに意図を持って内側から下ろされる|閂《かんぬき》は、夕泉の前に重たく落ちていた。  扉の前で、夕泉は立ち尽くし、備拓はそれを物憂げに見守った。  繰り返される、沈黙の夜。隔てる闇の一線が、主従の間に引かれていた。  孤独な親王が寄り添う開かれることのない扉の裏側で、玲凛は息を潜め、小さな灯火を掲げた。宇城は暗闇を手探りした。さまよう指先が、柔らかい肌に触れた。 「迅様」  宇城の呼び声に、低い吐息が応じた。玲凛は目を凝らした。背もたれのある広い交椅が、壁にわずかに影を映した。 「あなたは、誰なの?」  玲凛は、影へと語りかけた。 「宇城様の通った道、確かに前回とは違っていた。でも、それは違う道順を辿っただけ。本当に道が造り変えられているわけじゃない。歩数と曲がり角と傾斜でわかる。地図を描けば証明できる。単なる暗示とまやかしだわ」 「……ほう」  気味の悪い唸り声がして、玲凛は身構えた。 「……ようやく、解いたか」  その声に、短く、宇城が悲鳴を発した。玲凛は寿魔刀を引き抜いた。足元に転がった灯火が音を立てて燃え上がった。一瞬、きらりと光る目があった。玲凛は狙いを定めた。 「迅様……?」 「あんた、宇城様が言った人じゃないわね!」  玲凛の鋭い一言に、宇城は後じさった。縄が擦れる音がして、交椅の上で身じろぎをする気配がした。  玲凛は闇の中の獲物をまっすぐに見据えた。 「都合よく宇城様を遠ざけて、ずいぶんと好き放題していたようだな」  暗闇の中でざわめく石の気配は、玲凛の神経を逆撫でして昂らせた。握るものが大太刀ではなく寿魔刀であることが、唯一、幸いだった。 「すぐにでも叩き斬ってやりたい!」 「愚か。玲親王も無事ではすまぬぞ」 「そうやって、大勢を脅して身を守ってきたのね」  玲凛は歯軋りした。 「あんたがしてきたこと、ここの石たちが覚えている。この呪詛の渦、ぜったいにあんたに背負わせてやるから!」 「やはり、玲の血は禁忌」  太い声が、小さく闇に響いた。 「何ゆえ、それほどに責めるか。生を求めるは悪しきことか?」 「何を言ってるか、わからないけど!」  玲凛は正面を睨みつけ、柄を握りしめた。 「とにかく、あんたが私を気に入らないってことは伝わった」 「……まこと、目障りが過ぎる」  その声は、容赦なく吐き捨てた。思いもよらない響きに、宇城は声も出せず、震えていた。  喉が詰まるほどの情念が、空気と溶け合って部屋を満たしていた。玲凛が呼吸をするたびに、それは全身に沁みて頭の中で反響し、思考が重く鈍く澱んでいた。玲凛は目を開きながら、何も見ようとはしなかった。視覚が価値を失う真の闇。ここから先は、本能で世界に触れる必要があった。 「宇城様、下がっていてください」  玲凛は宇城をかばって前に出た。  おそらくは、自分にとっての最大の敵が目の前にいた。名も知れなかった。ただそれが玲凛の大切なものを脅かし続けている、害悪の元凶なのだということだけは確信していた。 「あんたが誰かなんて、どうでもいいの」  玲凛は言い放った。 「私にとって大切なのは、陽兄様が幸せになれるかどうかってこと。兄様の幸せのために、あんたの存在は邪魔だってことは確かだわ」 「やはり、激しいものよ」  玲凛の暴論に、声はさらに深く低くなった。 「玲家の女は御せぬ。かつての|心《しん》もさようであった」 「伯母上?」  玲凛の唇に、わずかな嘲りの笑みが浮かんだ。 「伯父上とのこと、めちゃくちゃにしておいて、よくも今更口にできたもんだわ」 「まさか、あれほどとは。いや、隙を与えたのは、こちらの油断か」 「おあいにく様。私は伯母上に会ったことはないけれど、激しい人だったってことくらい、想像がつく」 「犀侶香に惚れ抜いただけの女ではあった。だが、それゆえに、今のそなたと同様、余計なことばかり企ておる」  忌々しい感情が宿ってもおかしくない言葉は、しかし、どこか達観した事実の羅列にとどまっていた。 「あの五角形の庵」  玲凛は呪術の痕跡のあった、質素な牢獄を思い出した。 「あんたはあそこに叔母上を閉じ込めた。でも叔母上は決してあんたには負けなかった。命をかけて最後の最後まであんたと戦い続けていた」

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