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20 砕けた鏡が照らす夜(3)

 玲凛は自分が何を口走っているのか、恐ろしくもあった。その瞬間、その瞬間に、新しい推論が次々と閃いて止まらなかった。自分が口にする言葉は、自分の言葉ではなく、この部屋の記憶である気がした。  語らされている。  玲凛は焦った。だが、その戸惑いを、すぐに強い心が払いのけた。  たとえ操られようとも、真実に近づいてみせる。その記憶を私に寄こせ!  玲凛の心に応えるように、石の表がわなないた。  宇城は怯えを浮かべて、終始見守っていた。宇城の恐怖は、いつしか大きな疑念へと膨れ上がっていた。  玲凛と、そこにいる誰かとのやりとりは明らかに異様だった。 「あなたは、誰なのです?」  宇城は必死に喉を絞った。 「あなたは迅様ではない……」  目の前にいる男が宇城の言う宝順だとするのなら、それは犀遠を救い、犀星を逃した、いわばこちら側の人間であるはずだった。  だが、玲凛に噛み付く言葉は、まるで蕭白と話をしているかのように、一世代をさかのぼっていた。 「あなたの言葉はまるで先帝様のようです」  玲凛もまた、そのことに気づいていた。 「ようやく、見えてきた」  玲凛は自分自身の直感が、真実を貫いた感覚を得ていた。 「あんたは、人じゃない」  異様な緊張感と精神的圧力が、そう口走らせた。  低くくぐもった笑い声が、闇の底にこぼれ落ちた。それは床に広がり、壁を這い上がり、天井から垂れ下がった。  反響は、玲凛の感覚を奪った。  聴覚ばかりか、肌に触れる空気の流れも、振動も、何もかもを攪拌した。それでも、玲凛は崩れなかった。  寿魔刀を正眼に構えたまま、微動だにしなかった。  男がわずかに体を揺らした。玲凛は、全身の神経を極限まで研ぎ澄ませ、男との距離を測った。部屋の広さ、足場の確かさを経験から感じ取り、踏み込む隙を探った。  男に武器の気配はなかった。玲凛もまた、刃を持たず、あるのは役に立つのか立たぬのかわからない寿魔刀一振りだった。 「この身が何者かなど、知る必要もない」  玲凛の発する圧に怯えることなく、男は半歩を寄せてきた。それに伴い、玲凛が立ち位置を変え、距離を保ち続けた。 「そなたは言ったではないか。誰であろうとも、そなたの敵であることに変わりはないと」 「簡単に開き直るわけ?」  玲凛は声を低めた。 「私の目的は、あんたを斬ることではない。真実を知ること」  石の間が地の底から呻きをあげた。明らかに男の気迫に誘発された瘴気がその濃さを増し、玲凛の胸を締め付けた。  玲凛はカッと目を見開いた。開いたところで目から得られる情報など限られていたが、それでも気持ちが高ぶった。 「殴るくらいにしか使えない剣で、やれることはたかが知れている。それでも、じっとなんてしてられない」  一瞬、部屋の時間が止まった。それから男の気配がわずかに緩んだ。 「そなたは何も知らぬのか」  挑発的に、男の声が歪んだ。 「寿魔刀、か」  男はその名を口にした。 「その刀の真相も知らず、受け継いだというのか」 「……あんた、どうしてそこまで……」  玲凛は気味の悪さをこらえて、 「思わせぶりは大嫌い。はっきり言わないならそれでもいい。力で吐かせるだけ」  玲凛は目に力を込めた。 「斬れなくたって、あんたに負けるつもりはない」 「己を追い詰める愚行」  男の声には嘲りがにじんでいた。 「今、ここで騒ぎが起きればどうなるか、わからぬか?」 「声の響きから、あんたの正確な立ち位置と距離、姿勢が全部わかる。つまり、殴りやすくなる」 「お待ちください!」  宇城が玲凛の横顔に懇願した。 「ここでこの方を傷つければ、あなたも私も反逆の罪で命はない。あなたにはまだすべきことがあるのでしょう。お願いです、どうか、引いて下さい」 「一度くらい殴らないと気が済まない!」  玲凛のうわずった声と、宇城の懸命な制止は何度か繰り返された。  その間に、男の呼吸が少しずつ荒くなっていった。  進まないやりとりに苛立っているのかと思ったが、そうではなかった。  苦しげに高まった声が、最後には、床の上に崩れ落ちる音で止まった。  玲凛の制止を振り切って、宇城は震える足で駆け寄ると、男の膝元にすがりつき、精一杯に体を寄せた。 「そなた……」  宇城の感触に答えた男の声色は、先ほどとはまるで変わっていた。 「そなたは、まだ、ここにいてくれたのか」  泣き崩れる宇城の声を聞きながら、玲凛はやり場のない興奮を持て余し、苛立って寿魔刀を振り下ろした。空を切る音がぞくりと鳴った。 「何よ、これ……ふざけないで」  玲凛は、聞き覚えのある男の言葉に眉をひそめた。それはもう玲凛が敵として認識した相手ではなくなっていた。  同じ道を共に歩もうと誓ったあの時から、前に広がる景色しか見なかった。  並ぶ人の体温は、いつの間にか自分のものと溶け合い、感じているようで感じられなくなっていた。  歩む靴の音は鼓動となり、息遣いは自らの時を刻んだ。  共に見ていたあの空は、いつまでも一つだったはずなのに、ふと風が吹き、一人だと気づいてしまった。  振り返っても、おまえはいない……  何もかもが冷め切った部屋で、蓮章は目を覚ました。  涙が滲むのに、まぶたの裏は乾いていた。喉に焼いた鉄を押し付けられたような痛みを覚え、胸には確かに何かが燃えていた。薄い肌の内側に巣食う、自分自身を灰に変えゆく高熱、制御しがたい暴力が、いつまでたっても収まらなかった。  もう……  蓮章は力を振り絞って、牀の上に上体を起こし、痩せた指で髪をかき上げた。  汗が浮いた体は、さらに冷え始めていた。  こんなところに秋の気配を感じるとは。  何も見えない闇の中で、蓮章は、何かを見ようと目を開き続けた。瞬くことすら、苦しかった。無意味な光なき世界だけが、蓮章を包み込んでいた。  孤独。  鳴き交わしていた虫は、どこへ行ったのだろう。眠ることを知らない鳥はどこへ行ってしまったのだろう。  夜を彩っていた光が、いつからこれほどに遠くなり、自分だけが道に迷ったのだろう。  酷く全身が痛んだ。  蓮章は精一杯に息を吐いて、声が出ることを確かめた。それだけのことにすら大変な力を要した。日常だと思っていた過去の自分は、もうどこにもいなかった。  これから終わっていくのだ。  誰の身にも起きることが、自分の身にも起きるだけなのだ。  俯瞰した自我が、容赦なくその瞬間を伝えていた。  感情で溺れそうだった頃、ひたすら走り抜けた時代を思って、蓮章の目から、涙がこぼれた。  涙の訳を尋ねる者もいない。衰えゆく体を隠し、一人閉じこもる暁演武の見捨てられた隅の部屋は、既に墓穴と同じである気がした。  自分はいつまでここにいるのか。それともここではない、どこかへ、一瞬を超えて落ちてゆくのだろうか。そこはどんな世界で、自分は自分をいかように認識するのか。  慈|僕射《ぼくや》の一番弟子、あるいは羨望の副長、花街の風靡、宮中の麗人、暁将軍の参謀。  どの自分も自分であったはずなのに、もうどこにもその姿はなかった。  蓮章は涙を手の甲に受けながら、その熱さにさらに込み上げた。  時の終わりは、もっと優しいものだと思っていた。何が起きているかもわからないままに、一瞬で過ぎ去るものだと期待していた。  これほどに傷み、残酷だとは思わなかった。無数の先人たちが通り過ぎていった時間の中で、蓮章もまた耐えねばならなかった。残り少ない時を引き延ばされる苦痛は、弾力を失った布をじりじりと引き千切られていく感覚に近かった。布を織り成す糸が、弱いものから順にぶつぶつと切れ、残された糸はさらにきしんで細く強く引き攣った。  蓮章だけではない。この断絶の経験は、大切に思う人もいずれ迎えるさだめだった。  誰かに奪われるなら、奪いたかった。誰にも奪われないなら、奪って欲しかった。  どちらの願いも叶いそうになかった。  とぎれとぎれに、声がこぼれた。息とも嗚咽ともつかぬ掠れた悲鳴が、唯一、彼がまだ人であることを示していた。  屋根の向こうで星が巡り、触れ合えない風が小さな壁を撫で、わずかな雨が屋根を湿らせた。朝日はまだ遠く闇の中だった。  蓮章は牀を降りた。  痛む足で立ち上がり、外掛けの袍を肩に羽織った。腕を通すとするりと滑って、冷えた肌に絡みついた。着物の着方も、髪の梳き方も、化粧の仕方も、何もかもがいつも通り、その体が覚えていた。  蓮章は体に任せ、ほんのわずかな間、心から全てを解き放った。支度を整えて、そっと扉の前に立つと、足元にひやりと夜風が忍び込んだ。しばらくそうして立ち尽くしてから、ゆっくりと息を吐いて、戸を押し開けた。  一面に広がった夜は、あまりに眩しかった。燐光が霜のように世界を染めていた。暁演武の広い訓練場が、記憶の底にある戦場を思い出させた。  自分には、もう、あの端まで駆けるだけの力はない。  思いながら、蓮章は目をそむけなかった。  昼間の喧騒が幻のように、静まり返る闇の広場。ここに、蓮章の青春があった。友と語らい、不得手な刀を学び、弓で凌駕した。本気で転げまわり、笑い合い、恋を抱いた。飛び去った日々の全てが、ここにあった。  二度と見る事のない夢を、蓮章は胸に刻みつけた。  確かに、歩んできた道だった。通り過ぎても、自身の一部だった。  生きた証だ。  誰かの心に同じ景色が残り続ける限り、俺は消えはしない。  一歩、踏み出して、蓮章は自分の体の重さにぐらついた。歩くとは、これほど困難なことであったか。自由に羽ばたいていた翼を失ったようで、途端に世界が狭く、同時に広く感じた。  人の気配はなく、全てが寝静まっていた。  暁演武も、外側の都も、城壁の外に広がる国土も、深い眠りの中にあった。蓮章だけが、夜に生きていた。  決して振り返ることはしない。  それは自分をさらに孤独にするだけだと、わかりすぎるほど、わかっていた。自ら寂しさを重ねて傷つく必要などなかった。  黒々とした門が、蓮章の霞んだ目に映った。明るい笑顔の少女と初めて門の下に立ったのは、いつのことだっただろう。遠い昔のようでも、すぐ昨日のようでもあった。蓮章は定まらない時を抱えたまま、静かに門を出た。  見回せば見慣れた街並みが続いていた。道に行き交う人々の幻想も、その合間を風を切って歩いていた自分たちの姿も、全てを思い出すことができた。  確かにここにあった。  蓮章はまっすぐに道の向こうを見た。  誰一人、彼の視界を横切る者はなく、思い出を止める者もなかった。  どこまでも彼は自由だった。  空を見れば、見たことのない星が瞬いていた。その輝きのもと、見たことのない花が咲いていた。  俺と同じだ。  小さな花に、蓮章は残っていた柔らかい心を置き去りにした。  世界の中で動くのは、闇を焦がす幾つかの篝火だけだった。それもほとんど燃え尽きていて、間もなく消えるだろう。平和は、寝息も立てずに土の下に眠っていた。  静かすぎる。  目を向ければ、暁演武の母屋が見通せた。夜のわずかな匂いが混じる星の光の中で、よく知る景色が輪郭をさらしていた。  気付かぬうちに、蓮章は微笑を浮かべていた。  晴れやかな青空と、騒々しい隊士たちの溌剌とした声が、記憶と現実の境界を溶かして目の前に蘇った。粗雑で愛おしい連中の向こうから、えんじ色の着物をはためかせ、親友がこちらを見つけて目を細めるさまが、ありありと見えた。  先に行く。  強烈な感情に、灰色の瞳が震えた。  俺はずっと、待ち続けてきた。今度は、おまえが待つ番だ。  蓮章は、大通りの闇へと、目を転じた。  いずれまた、会える。俺たちは、二人で二人なのだから。  夏と秋との境目の風が、蓮章の一歩先を吹きすぎていった。  暁演武の黒い影に背を向けて、蓮章は西へと歩き始めた。

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