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21 一巡り(1)

 扉と床の隙間から、夜霧がじんわりと忍び込んできた。  夜半を過ぎた夏の紅蘭は、じとりと空気が湿ってやけに静かだった。  眠れない時は厨房の隅に座るのが、東雨の決まりだった。土間に降ろした素足に、霧がまとわりついていた。  明日の朝食の下ごしらえに、干し椎茸が水に浸してあった。その香りに腹の底が縮んだ。  月明かりが格子の間から差し込んで、鋭く空間を切り取っていた。月光の向こうに浮かび上がる壁には、古い木の板がかけられていた。板には、東雨の文字で、涼景の無賃飲食の回数が丁寧に書きつけられていた。腹立ち紛れに始めた記録は、いつしか東雨の楽しみにすらなっていた。  静かすぎて、耳がおかしくなりそう。  東雨はわざと音を立てて息を吐いた。その瞬間だけ時間が動いたが、また、すぐに流れがよどんだ。  板に黒く目立つ、涼景の名。その文字を見るだけで、心が震えた。  考えなければならないことは別にあるというのに、気持ちはいつの間にか、あの自信に満ちた笑顔に繋がれていた。  俺は、あいつのこと……  答えは、すでに明白だった。東雨は唇を硬く結んだ。  身体に流れる血、この先に待ち受けているであろう戦いの恐怖、犀星のそばにいられなくなるかもしれないというやるせなさ。全てを足しても、涼景の二文字の重さにはおよばない気がした。  あらゆる感情が、いくつも浮かんでは弾けて、足元の霧に混じった。  また、こんな日が来るなんて。  東雨は、少し前の自分を思い出した。  一人、月の輝きに追い詰められていたあの頃。乗り越えたはずの何かが、形を変えて、東雨を追いかけてきた。次は、どこへ逃げたらいいのか、わからなかった。あの頃より、弱くなってしまった気さえした。  気持ちは膨らみ続けるばかりで、今にも内側から破裂してしまいそうなほど、持て余していた。なのに、言葉も表情も、選べなかった。  東雨は不意に、犀星を思い出した。  蒼氷の親王と呼ばれ、周囲に何も悟らせず、寡黙に過ごしていた犀星の胸の中は、今の自分のようだったのかもしれない。感情はひたすら蠢き続けるのに、それを表すこともできないほど、疲弊していた。  ひときわ長く息を吐き出した時、視界の隅で影が揺れた。 「東雨どの?」  控えめな玲陽の声がささやき、月光の中に金色の髪が揺れた。  無表情のまま、東雨は顔を上げた。少し眠たげに、玲陽は首を傾げた。 「水をいただきに来たのですけれど……」  薄い夜着の裾を整えて、玲陽は東雨の隣に腰を下ろした。 「東雨どのは何かあると、いつもここにいますね」 「まぁ」  東雨は生返事をして、視線を逸らした。 「何も聞かないでください。俺にも、よくわからないので」 「はい」  玲陽は素直に頷いた。だが、頷いただけで、立ち去る素振りはなかった。格子窓から空を眺めたまま膝に頬杖をついて何も言わず、並んでぼんやりとしていた。  東雨はまた、壁の板に目を向けた。  やけにくっきりと文字が見えた。  長い沈黙は、気まずくはなかった。玲陽は動かず、厨房の景色に溶けていた。 「あの、陽様」  東雨はぽつりと、 「寝所に戻らなくていいんですか? 目を覚まして陽様がいなかったら、若様、大騒ぎします」 「大丈夫です。疲れてぐっすり寝ていますから、しばらく起きないかと」  玲陽は片手でそっと、肩を揉んだ。 「……そう、ですか」  ほのかに鼻を掠める匂いは、東雨の気のせいではないようだった。胸を締め付ける切なさは、いつかの記憶と似ていたが、それは玲陽のせいではなかった。東雨はもう、自分があの頃とは変わってしまったことに気づいていた。思い起こせば、次々と景色が脳裏に浮かび上がった。  やたらとまぶしい月の光。手首に感じた忘れ難い力。見た目よりずしりとくる懐刀の冴え。嫉妬と悲しみの混ざった嘆き。高鳴った鼓動に突き動かされた素直な自分。  全てが一本の糸で連なって、東雨の中から色鮮やかに周囲に広がった。色の失せた夜の厨房に、突然、まぶしさが溢れかえった。  その光の全てが、見つめ続けた涼景の面差しにつながっていた。 「陽様」  東雨は、秘密のように声を殺した。 「陽様はいつ、気がついたんですか? 若様のことを、好きだって」  玲陽はわずかに口角を上げた。 「わかりません」 「でも、子どもの頃から、ですよね?」  東雨は、ことあるごとに洩れ聞いてきた玲陽と犀星の昔話を思い出した。犀家の離れで兄弟のように二人で育ち、何をするのも一緒に過ごした少年時代の思い出は、東雨にとって眩しい羨望だった。  玲陽は何度か瞬いて、 「気づいた時には、夢中でした。だから、いつ、と聞かれても、わからないんです。けれど……」  少し間をおいて、玲陽はゆっくりと、 「兄様に伝えたことは一度もありませんでした。言葉にしたら、大切なものを全て壊してしまいそうで……」  東雨はうなだれた。玲陽はさらに続けた。 「溢れた気持ちで狂いそうになったのは、兄様が、歌仙を出て、離れ離れになった時です。あの孤独、心が空っぽになってしまった虚無は、今でも恐ろしくて」  玲陽はそっと自分の体を抱いた。  弱り果てた日々の記憶は、次第に曖昧になっていた。それは、心を守るための無意識の忘却と言えた。 「本当は、私、兄様について、都へ行くつもりだったんです」  玲陽は、声を細めた。東雨はじっと、青白い玲陽の顔を見つめていた。 「ですから、兄様を守れるように必死でした。剣術も、学問も、精一杯にやったつもりでした。けれど、足りなかった」 「足りなかった?」  玲陽は頷いた。 「歌仙を出立する、二月ほど前のことでした。あの日、兄様と私は一緒に山で山菜を集めていました。いつも通りのこと。そのいつも通り、がよくなかった」  記憶の底に沈めていた出来事を、玲陽はゆっくりと浮かび上がらせた。 「都から送り込まれた刺客でした。はじめに、私が捕らえられた。私を人質にされて、兄様も抵抗できなかった。私たちは必死に抵抗したけれど、そんなの、通用しなかった。目の前で、傷つけられる星に……私は何もできなかった」  東雨は息を飲んだ。  犀星を手中に収めようとしていた都の権力者は、すでに、歌仙にいた頃から、その手を伸ばしていたのだ。 「兄様も私も、あのままではどうなっていたか。私たちを助けてくださったのは、暁隊でした」 「え?」  突然の名に、東雨は声を発した。 「これは、後から涼景様に聞いた話です。宮中で怪しい動きがあることに気づいた涼景様は、暁隊に後をつけさせたそうです」 「暁? 右近衛ではなくて?」 「当時は、まだ正式に近衛を動かすことはできなかったと聞きました。暁隊は叔父上と協力して、犀家の私兵とともに、事態を収めてくれました」  東雨は悔しそうな表情を浮かべた。 「そんな話、初耳です……」 「涼景様は、ご自身の功績を語る方ではありませんから。涼景様の恩は限りなく安いのだと、ご自身でおっしゃっていました」  東雨は唇を噛んだ。玲陽は目を閉じた。 「私は、あの一件で思い知りました。自分が兄様の負担にしかならないことを。ですから、歌仙に残ったのは、納得の上でのことだったのです」 「……納得なんて、してなかったんじゃないですか?」  東雨は、声を震わせた。 「本当に納得していたなら、心が裂けるほど、苦しまなかったはずです」  玲陽は、ちらりと東雨を見た。 「陽様は、諦めきれなかった。悔しくて、たまらなかった。力のない自分に、腹が立ってならなかった。何をしてでも、守れるようになりたかった。だから、砦に捕らわれていた時も、許される限りの修練を怠らなかったのでしょう?」  玲陽は、うつむいた。東雨は早くなりかけた口調を緩めた。 「……涼景が言ってました。助け出した時、陽様はひどく傷ついていたけれど、体の芯は崩れてなかったって。だからこそ、短期間に、今の強さを取り戻したんだって」  言いながら、東雨は動揺を隠すように手を握りしめた。 「大切な人のために、何かしたい。力になりたい。黙って見ているだけなんて……ましてや、その人の犠牲の陰で守られているだけなんて、俺には耐えられない」  玲陽の目が、東雨の心に気づいたように視点を定めた。 「涼景様のこと、ですか?」  核心を、玲陽は踏んだ。東雨は悔しさに顔を歪めた。 「陽様も、お気づきだったんですね?」 「……確かめたことはありません。けれど、涼景様の周りには何もない。あれだけ目立つ方です。宮中の習いなら、ご家族も、暁隊も、右近衛も、そして、兄様も、もっと色々な騒ぎに巻き込まれてもおかしくない。それなのに、まるで、大きな天蓋に守られているように、火の粉が降ることはなかった。この平穏は、あまりに静かすぎます」 「……俺、だめですね」  東雨は、深いため息をついた。 「宮中で育ってきて、その怖さも陰湿さも知っているつもりだったのに、肝心なことに気づけないままでいました。知らないことが、どれだけ怖いことか、罪深いことか、思い知りました」  玲陽は黙った。  東雨を事実から遠ざけていたのは、犀星であり、涼景であり、蓮章であった。あまりに優しい少年を守りたい一心で、周囲はひた隠しにしてきた。  いずれは知ることになる真実。  それに耐えられるだけの強さを蓄えるまで、誰もが東雨の目を、耳を、塞いできた。 「守られていたこと。大切にしてくれていたんだってこと、その気持ちも優しさは、俺にだってわかります」  悲しそうに、東雨は笑った。 「でも、今は、それが、嬉しくないんです」  東雨の影は深く暗く、細かな土の色に溶けていた。玲陽は、ふと、視線を壁に向けた。東雨が記した涼景の記録が、じっとこちらを見つめていた。 「東雨どのは……守りたいんですね」 「……きっと」  弱く、東雨は答えた。 「そのことばかり、考えてしまいますから、きっと……」  東雨の切なさが、玲陽にも伝わっていた。それは、近侍として犀星に抱く忠誠とはまた別の、もっと狭く深く情に根ざしたものなのだろう。 「話してみるのが、一番確かだと思います」  玲陽はきっぱりと言った。 「本音で向き合ってくれる方ですから」 「……でも、大切なものを壊してしまいそうで、怖いです、俺も」  再び、沈黙が降りた。  いつの間にか、光の角度が変わっていた。  時間は、確実に先へと進んでいた。月は巡り、形を変えて、やがて約束の時が来るのだ。それを、東雨は誰よりも知っていた。  変わりゆく外の世界とは裏腹に、東雨の中の時間も思いも、同じ場所に留まり続けていた。  それでも、朝は訪れる。心は、宵闇に置き去りにしたまま。  玲陽は小さな炉に炭を入れて、いつもより一層丁寧に湯を沸かした。  赤い火が一度だけぱちりと爆ぜた他には、音のない不思議な光景だった。東雨は見るとはなしに、玲陽の横顔を仰いだ。  他人と自分を比べることは、もう、やめたつもりだった。それは東雨を惨めな弱者にしてしまうだけであった。  陽様は、強いな。  注がれる視線に気づいて、玲陽は東雨を振り返り、はにかんだ。つられて、東雨も笑った。  玲陽が差し出した茶碗を、東雨は腕を伸ばして受け取った。沸かした湯が適温に冷まされ、東雨への気遣いが手のひらに委ねられた。口に含めば、そのまま体の一部になってしまいそうなほど、あっさりと染み込んでいった。喉を潤し、息をつく。玲陽が淹れた茶は、ことさらに甘い香りがした。  安心したように微笑んで、玲陽は出会った頃より大人びた東雨を見つめた。  東雨どのは、強いですね。  期せずして、玲陽もそんなことを思った。  それぞれに背負った時間も記憶も違えど、どちらも決して平坦ではなかった。人の生きようを、比べることに意味は感じなかった。|各々《おのおの》に意味があり、形があるだけだった。  玲陽は盆の上に犀星と自分の分の茶器を乗せて、厨房を出た。  冷え始めた床を素足で歩けば、足裏に感じる板はしっとりと夜を吸って、秋の名残を伝えてきた。火照った体にはちょうどいい。玲陽は、その感触にわずかな癒しを覚えながら、寝室に向かった。

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