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21 一巡り(2)

 いつしか、雲が月を隠したらしく、あたりはやたらと湿って暗かった。目を凝らしても足元が見えない。胸の前で大切に盆を抱えて、玲陽は静かに歩いた。  足が床板に擦れる音がして、少し遅れて何かまた別の音がした。風もないのに、首筋がぞくりと冷えた。いつの間にか玲陽の頬はこわばり、肩が震え始めていた。  波立った湯のみから雫が盆に溢れ、さらに指を伝わって、足元に落ちた。玲陽は深く呼吸した。飲み込んだ涼風で、身の内が少しだけ楽になった気がした。それでも嫌な気配は首の後ろあたりについて回っていた。  しばらく遠のいていた背中の火傷が、烈火の痛みを増しつつあった。  危ない。  とっさにそう思って、玲陽は動けなくなった。茶の湯面が揺れ、玲陽の震えがそのまま世界を揺らすようだった。  早く、星のそばに……  犀星の熱だけが、安心できる玲陽の居場所だった。  早く、あの人のそばに……早く……  そう思えど、体が動かなかった。  慣れた屋敷の夜の回廊。玲陽は石像のように突っ立ったまま、前にも後ろにも進めずにいた。虫の声すら聞こえなかった。視線を震わせて空を見上げたが、雲の切れ間に一筋の光も見つけられず、月のありかもわからなかった。  大声を上げれば、暁隊が駆けつけてくれるのはわかっていた。だが、それは大切な人たちを玲陽の背負うおぞましい世界に巻き込むことも意味していた。  背中に宿る呪いは、今、この時もあらゆる存在を玲陽のそばに惹きつけていた。犀星にすら知らせることのない孤独の中に、玲陽は立っていた。ただ夜中に目を覚まし、水を飲みに部屋を出た。それだけだったはずなのに、別の世界へ引きずり込まれてしまったような気がした。  以前、犀星が声が聞こえると言っていたことを思い出した。今にも、自分の耳元で何者かがささやくのではないか。そしてそれを聞けば、間違いなく、自分は悲鳴をあげて泣き出してしまうだろう。  玲陽は、そんな想像にひたすら耐えた。暗闇の中、頼るべきものもない。  自然と玲陽は湯のみの小さな丸い水面へ目を向けた。その瞬間、鋭い悲鳴とともに盆を投げ出した。音を立てて、湯呑みが床に転がり、水が八方にしぶきとなって庭に散った。声は思ったよりも小さかった。ただその衝撃だけがあまりにも大きかった。  湯のみの水面に映っていたもの。確かにそれは人の姿だった。だが、自分ではなかった。 「母上……!」  玲陽は唇を動かし、そしてすぐに否定した。  母に似ている、もう一人の女。  火傷が燃え上がった。自分の命を油として燃え続ける炎のようだった。 「私は……誰だ?」  玲陽は両手で顔を覆った。  足元がぐらつき、柱に寄りかかって座り込む。  夜着の裾に溢れた茶が沁みて、瞬く間に冷えた。  わずかな間、眠っていたのだろうか。  はっと我に返ったとき、すでに夜明けの白い光が戸の隙間から差し込んでいた。  東雨はゆっくり起き上がり、見回した。厨房の景色は昨夜のまま、脇に飲み干した湯呑みがのこされていた。  夢じゃなかった。  東雨はゆっくり立ち上がると、庭に出た。  夏の終わりに盛りを迎える胡瓜や茄子が、薄明るい霧の庭で、東雨を待っていた。  ぼんやりとした目で眺める庭は、いつもにも増して平和に思われた。乱れる胸を、朝のひやりとした空気が撫でていった。  東雨は厨房から持ち出した籠に、食べごろの茄子を摘んだ。  ちら、と胡瓜にも目がいったが、これは犀星が好きにもいで食べるだろう。  井戸水で茄子を洗い、いつもと変わらず、東雨は厨房に立った。  食事の支度をしていると、余計なことは忘れることができた。東雨はことあるごとに、こうして支度に没頭した。  茄子を輪に切り、軽く塩を振って休ませた。その間に、粟と|黍《きび》の粥の支度にとりかかる。丁寧にかまどに火を入れて、最小限の火力でゆっくりと煮るのが、倹約の日常だった。  備蓄庫から、玲凛がとってきた鹿肉の残りを出した。肉を手にすると、宮中の深くに潜り込んでいる、炎のような少女が思い出された。  玲凛が後宮へ行きたいと言い出した時、犀星も東雨も、凍りついた。当然、玲陽に知らせることはできず、かといって玲凛を思いとどまらせることも不可能だった。  あの時、東雨は玲凛の好奇心ゆえのこと、と呆れ果てた。  だが、今ならば、別の考えが容易に浮かんだ。  玲凛は最初から、蓮章の策略を知っていたのではないか。  表からでは探れない、皇家の、宝順の情報を得るためだったのではないか。  東雨は、自分が知る限りの玲凛の性格を思い起こした。  武術に優れ、胆力があり、物怖じせず、暁隊の乱暴者たちをもあっさりと手なずけた強者だった。同時に、妙に冷静で深い思慮、そしてどこまでが本気ともしれない配慮を垣間見せることもあった。何より、玲陽に対する愛情は本心からのものだった。  玲凛は、守る者なんだ。  東雨は、細切りにした肉と生姜を火にかけた。ゆっくりと少量の水で茹でれば、湯気の香りが胸に満ちた。  涼景と同じく、玲凛もまた、自分とは正反対の、力を持つ者なのだ。  無表情で、東雨は下処理した茄子を鍋に加えた。ひたひたと具材が浸る程度に水を加えた。味噌を溶き、少量の魚醤を加え、味を見る。  そうしながら、粥の火加減も手際よく調節した。  体が、動きを覚えていた。  頭の中は違うことでいっぱいだというのに、てきぱきと動く姿はいつもと寸分の変わりもなかった。  鍋を軽く煮詰め、味が具にしみる程度で火から下ろした。  几架から器を盆に並べ、箸と匙を添え、粥のための碗も並べた。  炊き上がった粥の甘く香ばしい香りに、茄子と鹿肉の味噌の香りが絶妙に絡んだ。  生姜の風味が時折混ざり、東雨の朝餉は文句のない出来栄えだった。  昨夜に作り置いた韮の和え物を小鉢に添え、東雨は力強く段差を上がって居間へ向かった。  ほんの少し、眠気が遠のいていた。だがその分、心の前線は奥へと退いている気がした。  五亨庵への出仕のない日は、犀星の朝も幾分か遅かった。  それは最近になって見られるようになった変化だった。  東雨も玲陽も何も触れず、ただ、少し気だるげに起き出してきた犀星を待って、朝食をとった。  東雨が犀星に向ける目は、徐々に変わっていた。  幼い明るさは影を潜め、ささやかな怯えと遠慮、不安が見え隠れしていた。  大切な主人への深い愛情ゆえの迷いが、言動の端々に滲み出ていた。  一方、犀星は変わることなく穏やかで、目を細めて東雨の料理を楽しんでいた。玲凛のいなくなった静かな食卓で、玲陽は二人を見比べ、かすかに眉を寄せた。  玲陽の戸惑いは、心をすり減らす東雨に対してではなかった。東雨のことは痛ましかったが、理由がはっきりとしていた。玲陽を困惑させたのは、そんな東雨の変化に触れない犀星に対してだった。  犀星は、玲陽以外には過干渉にはならない。それでも、東雨の感情には敏感だったはずだ。その犀星が、気づいた様子も見せなかった。  何か、おかしい。  玲陽は二人の顔色を伺いながら、表面では平生を装った。 「そうだ」  玲陽は、食後の茶を手に、少しわざとらしく切り出した。 「後で、安珠様のところに、お薬をいただきに行ってきます。東雨どのの分もいただいてきますね」 「ああ、それなら、俺が行きますよ」  東雨は微笑んだが、表情はどこか硬かった。玲陽は首を振った。 「いいえ。確か、昨日、五亨庵から文を持ち帰っていたでしょう? 東雨どのは近侍ですから、まずは、兄様と内容を改めておいてください」  玲陽は、意味ありげに犀星を見た。 「いいですよね、兄様」  犀星はわずかに沈黙し、顔を上げた。 「ああ。陽、気をつけて。暁隊を誰か連れて行って欲しい」 「大丈夫です。慣れた道なので一人で行きます」 「……そうか」  東雨は驚きに目を見張った。  玲陽が護衛を断ったことも初めてだったが、犀星がそれを許諾するなど、さらに前代未聞だった。決して一人歩きをさせない過保護な犀星が、安珠の庵までとはいえ、一人で玲陽を向かわせるなど、狂気の沙汰だった。  東雨は呆然と玲陽を見た。目が合い、玲陽は小さく頷いた。東雨は玲陽の真意を悟った。  犀星への違和感。  それが、玲陽と東雨の間でしっかりと共有された瞬間だった。 「玲凛を連れて行けば……」  言いかけて、犀星の声がすっと消えた。 「若様、凛は歌仙に戻ったんです。夜勤で留守なのではないですよ」  とっさに、東雨が言い放った。玲陽は膝を握った。犀星は視線を揺らし、それから、何度か頷いた。 「そう、だったな」  玲陽の指が、膝に食い込んだ。  夏の終わりは、玲陽の体に優しい気候を連れてきた。背中の焼印は、最近、その痛みを弱めたように思われていた。  その油断が何かを引き寄せたのか。  昨夜の強烈な痛みの後、どうやって寝室まで戻ったのか、記憶は曖昧だった。  気がついた時には、久しぶりに犀星の方が先に起きていて、透明な目でこちらを見つめながら、髪を撫でてくれていた。  不安感の波も遠のき、玲陽はすべてを夢だと思い込もうとした。心の満たされ方は今までの人生の中で最も深く、暖かかった。だが、幸福に包まれていながら、玲陽には新たな憂いが生まれていた。  犀星の態度がおかしい。  それは、今朝の一件で確信に変わった。目を合わせた東雨も、驚きを隠せずにいた。  何かが、狂い始めている。  都の道を、玲陽は初めて一人で歩いた。  すでに夏に飽きた蔓草が、覇気をなくして塀に垂れ下がっていた。今年は例年になく暑い、と都の者たちは不満を言っていた。歌仙から出たことのなかった玲陽には過ごしやすい気候に思われたが、今は季節の変化に興味を傾ける余裕はなかった。  絶対に、おかしい。  玲陽は繰り返し思いながら、土埃の立つ細い道を黙々と急いだ。知らず知らずに足が速くなっていた。  両側の平屋は質素で、薄い壁の向こうから住人の話し声さえ聞こえてくるようだった。太陽はまだ、午前の柔らかさで景色を照らし、心地よい風が吹き抜けた。  玲陽の着慣れた袍がせわしなく揺れて、靴音がいつもより大きく響いた。  安珠の庵は、道の行き止まりにあった。  犀星の気鬱、玲陽の古傷、東雨の治療。  ことあるごとに、安珠には世話になりっぱなしだった。東雨が祥雲として社会に復帰するにあたり、犀星との間には侍医として個人的に契約を結んだ。その流れもあって、辰巳荘の医療施設の助言役として、緑権とも頻繁に打ちあわせる間柄となっていた。  夏場は直射日光を避けて遠出を控えている安珠は、この時刻には大抵、一人で薬の支度などを行っていた。  玲陽は背の低い門を抜けて、入り口に立った。右手の井戸はよく手入れされており、つるべの紐も新しくなっていた。足元に小さな薬草の畑があり、玲陽は砦での暮らしを思い出した。  自らの知識で、精一杯に生き延びようとしていた記憶だった。  しかし今は、そんな過去に浸っている時ではなかった。  入り口の戸に手を伸ばして、玲陽は思わず動きが止まった。  話そうと心に決めていたことが、急にためらわれた。  言葉にすれば現実になりそうな恐怖があった。  もう少し、慎重に、様子を見るべきなのではないか。  脳裏をかすめたその思いは、そのまま、玲陽の逃げたい意識の表れだった。  かすかに、庵の中から、聞き慣れた声がした。 「涼景様?」  玲陽は、心の奥から勇気が湧くのを感じて、扉を開けた。 「失礼いたします」  丁寧に礼をして顔を上げると、入り口に近い部屋に、安珠と涼景が向き合って座っていた。二人の間には、数種類の薬草と、その粉末、そして、医療に関することが書かれているらしい竹簡が並んでいた。  涼景が時々、安珠に医療について習っていることを、玲陽は知っていた。 「お忙しいところ、申し訳ありません。いつものお薬をいただきたくて」  玲陽はこわばった顔で笑った。  普段なら、笑顔で薬を差し出す安珠が、今日は困ったように顔を歪めた。涼景が上目遣いに玲陽を見た。 「陽、一人なのか?」 「……はい」

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