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21 一巡り(3)

「星か東雨は?」 「お屋敷にいます」 「暁の護衛は?」 「……断りました」  玲陽は、小さく、 「兄様が、許してくれましたので」  安珠と涼景は顔を見合わせ、それから、座れ、というように涼景が隣を指した。  玲陽は静かに戸を閉めると、おとなしく涼景に並んだ。 「光理どのの体調は?」  安珠はあらかじめひとまとめにしてあった薬の皮袋を差し出した。 「最近は、落ち着いています。季節のせいかもしれませんし、気持ちの問題かもしれません。お薬も、少しずつ減らしています。東雨どのも、安定しているとのことです」  玲陽は近況を答えると、涼景と安珠を交互に見た。 「あの、私に、何か?」 「陽、おまえの意見を聞かせて欲しい」  涼景は険しい顔で、 「最近、星に変わった様子はないか?」 「え?」  心の中を言い当てられて、玲陽は息を飲んだ。 「あるんだな?」  涼景の容赦ない追求に、玲陽は俯いた。 「そのことで、安珠様に相談をしていたところだ。陽、星のことは、誰よりおまえがよくわかるだろう?」  玲陽は無意識に唇を少し舐めた。 「何か、とははっきり言えません」  言葉を選びながら、 「けれど、兄様が私を一人で使いに出すなんてこと、今まででは考えられませんでした。さっきも、凛どのが歌仙に帰ったことを忘れていたみたいに見えましたし……」  涼景は眉をひそめた。  玲凛が歌仙ではなく、宮中の、それも後宮に侵入していることは、玲陽には絶対に明かせなかった。玲陽以外の近しい者たちは皆知っていたが、玲凛に押し切られる形で誰一人止めることはできなかった。  涼景は、玲凛についてはあえて触れなかった。 「最近の星を見ていると、どうにも危なげな気がする。それで、安珠様に相談に上がっていた」  涼景は深く腕を組んだ。 「玄武池のことも、辰巳のことも、順調に進んでいる。皇子の一件でも疑いが晴れた。夕泉に関しては何も言えないところではあるが、それは陽が支えてくれているだろう。以前のような気鬱が再発するとは考えにくいと思うのだが」  玲陽は表情を沈ませた。 「涼景様がおっしゃる通り、だと思います」  玲陽は考えこみながら、 「私には、気鬱とは違うような気がしてならないんです」  じっと聞いていた安珠が口を開いた。 「歌仙様の心の有り様については、光理どのの見立てが的確であること、疑う余地はない。どのような些細なことでも良い。話してはくれませぬか?」  言語化できない違和感、としか、玲陽には表現が見つからなかった。 「とても、表しにくいのですが」  正直に玲陽は言った。 「感情が……薄いのです」 「気持ちが落ち込んでいるということかな?」  安珠が首をかしげ、玲陽は首を振った。 「兄様は、都に来て以来、気持ちを隠すことが多くなりました。けれど、元々、歌仙では……子どもの頃は、感情のままに喜怒哀楽を激しく見せる方でした。だから、私も混乱しているのです。昔の兄様ではないことは確かですが、蒼氷の親王とも違う……かと言って、気鬱とも、違う気がして……」 「憶測、か」  涼景は唇を歪めた。すまなそうに、玲陽は涼景を見た。 「何度か、尋ねてみたことはあるんです。体調が優れないのか、悩みがあるのか、と。けれど、何もない、とだけ」  三人は、黙りこんだ。  犀星の心の底には、誰にも明かされることのない、深い闇がある。  それは、意図して隠しているのか、それとも本人も自覚がないのか、わからないままだった。だが、ここ最近の犀星の様子は、明らかに彼らの不安を煽った。  安珠には、医者として、長期間における緩やかな心の浮沈が案じられた。  涼景には、親友として近衛として、秘密裏に奏鳴宮を訪れる犀星の真意が見えなかった。  玲陽は、ただ漠然とした胸騒ぎと、犀星が遠くへ行ってしまう心細さに胸が締め付けられた。  そしておそらく東雨もまた、今までとは違う犀星の態度に、明確な戸惑いを抱いていた。  それぞれに一人の人を思い、それぞれの見方で先を案じた。  昼も近いというのに、日差しは肌に刺さる鋭さを失いつつあった。風はまだぬるいが、匂いは夏の終わりに近づいていた。  玲陽が出かけた後は、穏やかな日常が繰り返されていた。  暁隊が塀の外で軽妙に冗談を言い合い、時折、民が差し入れの食料を届け、東雨がそれを受け取って深く礼をした。仕事の区切りがつくと、犀星もまた、門まで出てきては、人々の話を直接聞いた。  変わることのない、日常だった。  そんな温かく穏やかな日常にあって、東雨の心には乾いた秋の風が、早くも吹き始めていた。  月を数え、眠れぬ夜と、現実感のない昼を生きる。  それでも、かつての冬の日と決定的に違うのは、東雨には力が与えられているということだった。  それは自ら得たものでも、望んだものでもなかった。偶然と運命の皮肉。だが、確かに東雨を強くし、前を向かせた。  胸は騒ぎ、おさまる気配はなかった。  犀星と二人きりで屋敷で過ごすなど、いつ以来だろうか。  数日前までの東雨なら、心が浮き立って笑顔がこぼれ、あれこれと世話を焼いて犀星にまとわりついていたに違いなかった。それが、今では不自然な距離感に怯えてさえいた。  それでも、玲陽が戻るまでの間に、終わらせねばならない仕事があった。  五亨庵から持ち込んだ竹簡と木簡の山を座卓の上に広げ、犀星とともに東雨も目を通した。  侍童の頃は、政治の内部に関わることを許されなかった。だが、近侍となった今日では、むしろ、隠されることの方が皆無と言えた。  俺は、揺れている。  東雨は、静かな眼差しで木簡をたどる犀星を盗み見ながら、目元を曇らせた。  近侍として、友として、そばにいたかった。犀星が作る未来を共に夢見て、そのそばを歩きたかった。その未来だけが、東雨の望みだった。  そんな光り輝く日々の中に、玲陽も、玲凛も、涼景もいた。  涼景……  傷つきながら、それを見せることなく笑い、自分をからかっていた暁将軍。  誰よりも先に東雨の正体を見抜き、誰よりも先に手を差し伸べてくれた男。  それを、自分は何もできないまま、時に反発し、時に身勝手に甘え、時に期待を抱き、気づけば心の拠り所として目で追うようになっていた。  涼景のようになりたい。  見返りも求めず、誰かを静かに支える存在に。押し付けることもなく笑い飛ばす涼景が羨ましかった。  もう、何年も前から、東雨はその姿に憧れ、己の理想を重ね合わせていた。  東雨の幻想と理想は、一夜にして粉々に崩れ風に消えた。  宮中に満ちていた噂など、悪趣味な貴人の気まぐれであり、涼景に対する嫌がらせに決まっている。  そう、信じて生きてきた。  明るい涼景から、暗い現実など感じられなかった。そばにいた犀星もまた、何事もないような顔をして、涼景と話をし、からかいあい、笑い合っていた。一度として、真剣に天輝殿の話題が二人の間で交わされたとは思われなかった。  その犀星が、涼景の身に起きていたことを、知っていた現実。知らないわけがなかった理屈。  知っていて、知られていて、当然。  犀星から涼景を労る言葉はなく、涼景からも辛さを匂わせる発言も皆無だった。  どこまでも親しく、互いに信頼し合い、全てを打ち明けていた理想の姿。  東雨は、長年、そんな関係を信じて疑わなかった。だというのに、自分が見ていたものは、ほんの片側に過ぎなかった。東雨には、誰も何も教えなかった。  明らかにされた現実そのものよりも、隠されていた時間への絶望が、東雨を追い詰めていた。  対等でいるつもりで、実は庇護のもとに囲われていたという受け入れがたい羞恥に、身も心も焦がされた。  子どもじみた自分の言動を、すべてを承知した涼景はどんな思いで見ていたのだろう。あの挑発的な表情の下で、何を感じていたのだろう。  すべてが疑わしく、二度と顔を合わせることはできない気がした。  紅蘭の東、犀星が静かに暮らす屋敷には、普段と変わらぬ時が流れていた。  文机の前にきちんと座り、わずかに細く立ち上る香木の煙を、犀星はじっと見つめていた。斜向かいで、東雨は物思いにふけりながら、いつもより何倍もゆっくりと、玲芳から届いた木簡を読み終えた。その時間の長さに、犀星は何も言わなかった。  東雨は、文の中ほどを改めて読み上げた。 「|宿世《すくせ》の|徒花《あだばな》、結ぶことなく土へ還り、一族、これを深き影として厳に秘せり……?」  東雨は首を捻って、顔を上げた。 「若様、これ、どういう意味ですか?」  やや間があって、犀星は黙ったまま東雨を見た。不安そうに顔を歪めて、東雨は木簡の一部をまた、読み直した。 「今や因果の淵に臨み、命の灯火、消えんとす……って……難しいけど、とにかく、春さんの命が危ないってことですよね? 燕家は涼景に知らせていないようですけど……」  東雨は親指をそっと唇に当てながら、 「やはり、涼景に伝えた方がいいのでは?」  犀星はわずかに首を振った。 「知ったところで、あいつは都を離れられない」 「でも……」  東雨の表情が更に暗くなった。 「春さんだって、涼景に会いたいと思いますし……」 「おまえは、春に会ったことがあったか?」  東雨は記憶を辿った。 「一度だけ。ほら、歌仙で燕家に薬を分けてもらいに行ったじゃないですか。あの時に……涼景によく似た、印象的な目をした芯の強そうな方でした」  遠い昔のことのように思われる歌仙での日々を、東雨は思い出した。まだ、運命を知らずに孤独に彷徨っていた頃のことだった。犀星は淡々と、 「燕家が伏せているのなら、俺たちが暴くべきことではない」 「でも、たった一人の妹でしょう?」  東雨は食い下がった。 「何も知らないままなんて……」 「知らない方が、幸せなこともある」  犀星の言葉に、東雨はどきりと胸が跳ねた。 「そんなの、本当の幸せなんかじゃないです」  東雨は木簡を握りしめた。不思議そうに犀星は眉を寄せた。 「何か、あったのか?」 「……いえ」  隠しきれないとわかっていながら、東雨は目をそらした。犀星は頷いた。 「では、蓮章に知らせてくれ。その先は、彼に任せよう」  犀星の提案に、東雨は思わず渋い顔をした。 「どうした? 不満か?」 「……不満、というか……」  東雨は言い淀んだ。 「蓮章様は、信用できるんですか?」  突然の言葉に、犀星の目が揺れた。 「蓮章がどうかしたのか?」 「本当に、涼景のこと、任せても大丈夫なのかな、って……」  震える声で、東雨は吐き出した。 「本当に、助けてくれるのかな、って……」  わずかに迷ってから、犀星は口を開いた。 「少なくとも、俺たちより涼景のことを長く知っている。政治上、春の存在が与える影響もある。蓮章に預けた方が良い」 「政治上の影響……?」  問いかける東雨の視線に、今度は犀星が顔を背けた。 「とにかく、今は……それがいい」  珍しく、歯切れの悪い返答だった。  東雨はじっと犀星を見た。  涼景が否応なく背負わされた、他者の命。燕春もまた、涼景を押しつぶす重荷の一つなのだ。 「……では、これから、行ってきます」  東雨は立ち上がった。 「こういうのは、少しでも、早い方がいいですから」 「蓮章は今日、右衛房にいるはずだ。先ほど、隊士が話していた」 「わかりました」  部屋を出かけて、東雨は足がすくんだ。何に怯えているのか、自分でもわからなかった。  助けを求めて、東雨は犀星を振り返った。開け放した庭の方を向いたまま、犀星は静謐な気配を纏って座っていた。 「若様」  呼びかけに、犀星は東雨を見上げた。その姿はあまりに寂しげだった。  知ることで傷つき、知らないふりを続けることで守る。その痛みは時とともに心をえぐり、傷はゆっくりと深さを増して癒える隙さえ与えない。  東雨の知らない世界で、犀星も、涼景も、そして蓮章も、その苦しみを抱え、隠し続けてきた。  東雨の目に涙が滲んだ。 「どうした?」  犀星から逃げるように、東雨は背中を向けた。 「何でもありません。ついでに、薫風の様子も見てきます」  言うことは普段の東雨と変わりはない。  だが、犀星は奇妙な焦りを感じていた。だというのに、それを言葉にすることができないほど、犀星の心は空隙に満ちていた。  角を曲がって足早に立ち去る東雨を、犀星は肩を落として見送った。

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