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22 有明の眠り(1)

 大切な事は、いくつもあったはずだった。  次第と記憶に穴が開き、やがて穴があることにさえ気づかないほどに、ごっそりと、世界が消え失せた。胸には、破れた枯葉のような断片が残るだけだった。かろうじて氷のごとき表情は、犀星の空っぽになってゆく真実を覆い隠してくれた。だが、それも長くは持たないだろう。  玲陽も、東雨も、怪訝そうな目を向けることが増えていた。  それは、心の鈍った犀星にもはっきりとわかった。  自分の空白が、すでに隠せないほど大きく、気取られてもやむなきところへ至ってしまったことを、認めないわけにはいかなかった。  もう、両手で数えるほどの思い出が見つからなかった。  不意に涙が溢れそうになったが、息を殺して衝動に耐えた。こぼした涙の分だけ、また何かを失ってしまいそうだった。  犀星は、そっと部屋を出て、庭に立った。  東雨は、無事に蓮章に会えただろうか。  一瞬、それらしきことが心の底を横切ったが、意識するより先に薄れていった。  夏の日は白く、見慣れた庭の景色をわずかに揺らしていた。  風が優しく吹き過ぎて、着物を涼やかになびかせた。  遠くの空を見上げた瞳は青く澄み、しかし、何も映しはしなかった。 「陽……東雨……涼景……凛……」  犀星は無意識のうちに彼らの名を呼んでいた。一人ずつ、丁寧に思い出すことができた。近しい者、というたった一つの認識だけで、頭の奥深くにうっすらと影を落としていた。それはかろうじて自分が自分であることの証だった。  首筋が冷えて、汗が浮いた。そっと指先で触れると、肌はしっとりと吸いついた。  身体が、怯えていた。心には、何もなかった。  恐怖すら忘れた魂の空隙。やがて何も残らなくなる日がくる。それは己の死を意味するのか、それとも、生まれた瞬間に戻るだけなのか。 「水の音が聞きたい」  犀星の唇が、独り言を奏でた。  夕泉が犀星に贈った狂気の庭が、ありありと目の前に立ち上がった。  絶望と憎悪の象徴となり果てた、滝のある風景。  玲陽と再会した歓喜の場所であり、凄惨な仕打ちを呪い尽くした場所。  奏鳴宮に再現された歌仙の庭は、犀星の消えていく記憶をつなぎとめ、激しく揺り起こす劇薬だった。  それは、犀星が犀星でいるための、最後の砦だった。  だが、もう……  遠のいていく意識が、それすら、忘却の中へと引きずり込んでいく。  どこかで明るい声が聞こえていた。  それは塀の向こうの現実だったのか、記憶の最後の幻だったのか。  かつて、世界は確かに犀星のそばにあった。  今は目の前の空気がどろりと粘性を持って、犀星を閉じ込めていた。  冬の風に池の面が凍るように、ゆっくりと犀星の周囲に壁ができた。犀星はいつからか、孤独の中で無色透明の氷を透かして、抵抗するすべもなく世界を見つめているのだ。  その世界の中心に、大切な人がいた。  不意に犀星は微笑した。彼が全てと引き換えに守った人は、今もその世界にあった。  ただ一つ、幸あれと望んだものが、祈り続けたものが、失われる事はなかった。その笑顔のためならば、自分の持つ何を差し出しても構わなかった。  強く思った瞬間、また一つ、自分の存在が軽くなるのを感じた。  もう何が消えたのかさえわからなかった。  痩せ衰えてゆく記憶と引き換えに、未来を築こうと思った。なくしたものを取り戻そうと足掻くよりも、新たに生み出していけば良いだけだ。十を失うなら、十一を得る。今一時、虚無の中を彷徨ったとしても、顔を上げ続ける限り、運命はまた巡ると信じた。  己の心を励まし、犀星は生きることを、自分であり続けることを諦めなかった。  切望は、程なく、絶望に変わった。  目の前の出来事を抱きしめても、あっけなくすり抜けた。手を伸ばし、駆け寄って、微笑んでも、跡形もなく消えていった。  何も、残らない。  恐怖さえ忘れた心で、犀星は理解した。  今の自分には、記憶を留めおく力すらない、と。  昨日の上に今日があり、その先に明日がある。  自分を自分たらしめる過去をなくしたとき、その先にあるのは、自分ではなかった。  私は、なぜ、ここにいる?  ただ、庭に立ち続ける影が、乾いた土に落ちてじっと動かなかった。日差しがその体を包んでも、固く閉ざされた氷が溶けることはなかった。  誰に何を伝えたら良いのか、もう東雨には想像もつかなかった。  誰を信じ、何を頼ったら良いのか、少し前まで迷うことなく口にできたというのに、今は自信が消え失せていた。胸の中にはしっかりと焼き付いた信頼があった。求めれば差し伸べられる手を知っていた。だが、呼びかけることが罪に思われてならなかった。  他者の痛みと引き換えに得られる安寧など、今の東雨に選べはしなかった。それが、心を許し、求めてしまった相手の犠牲であれば、なおさらだった。  淡い色の木簡を握り締め、回り道をして、東雨は歩き続けた。暁隊に近づくこともためらわれた。右衛房へ行くことも恐ろしかった。  犀星の指示は東雨にとって絶対だったが、それを成し遂げるには、多大な覚悟が必要だった。  木簡を届けるだけだ……  子どもでもできる、ただの遣いである。だからこそ、子どもではいられなくなった東雨にとっては、あまりの難題として立ちふさがった。  俺が弱かったから……  東雨の細い指がぎゅっと音を立てて、木の束を握り締めた。  大切な人を傷つけてきた。  その思いがひたすらに頭の中をぐるぐると回った。強さを信じ、周囲に寄りかかってきた過去の自分が憎らしかった。  誰もが笑みを浮かべて、東雨を安心させてくれた。今まで東雨が愛してきた数々の笑顔が全て仮面であった気がして目眩がした。  自分の弱さが、皆に嘘を強いたのだと、擦り剥けた心が灼けついた。  知らないままでいること。無知がどれほど罪であるか。  東雨の心は無数のひびを内包した柱のように、いつ崩れ落ちるかもしれないほど脆く傷んでいた。その柱が支えるのは、彼が信じていた世界そのものだった。  どうしたらいい?  東雨を悩ませたのは、手の中にある歌仙からの冷たい知らせだけではない。  これから、どうしたら……  うつむいて歩きながら、東雨は考え続けた。体に宿る血の熱が、自分をどこへ連れて行くのかを想像すると、身の毛がよだった。  流されるだけでいい。  蓮章は、そう、言った。逆らわず、何もせず、身をまかせるだけでいい。その先にどんな景色が広がっているのだろうか。  東雨は無意識に脇の細い水路に目を向けた。水は低きに流れる。大地に沿って自然と道を作る。その流れをせき止めれば、やがて溢れて水害が起きる。無理に変えようとすれば、どこかに余計な力が溜まってしまう。  自然に任せるのが正しいのだと、いつだったか、水路の図面を見ながら犀星が言っていたことがあった。  流れを変えようとしているのは自分なのか、それとも時代なのか。  東雨の心は次第に傾いていった。その傾斜に沿って、赤い血は細い線を描いて、ゆっくりと道を示した。  流れてゆく。  流されてたどり着く、未来。  自分の意思とは無関係に方向は定められ、目的地は決められていた。  運命を委ねることは、容易には受け入れ難かった。逆らいきれない傾斜だとしても、無力を思い知らされるようで、たまらなく悔しかった。  力が欲しい。  不意に東雨は思った。  剣術の腕前に限界を感じてから、久しく、そんな期待は抱かずにいた。  望む力。  今、東雨が手を伸ばそうとしているのは、武力ではなかった。稀なる叡智でもなかった。ただその血が導く資格だった。飾り立てた空き箱のようなそれが、東雨に残された、たった一つの行く先だった。  自分から進んで選ぶのではない。だが、確かにこの身にあり、それを行使することで望みが叶う気がした。  東雨の上に、良心の呵責が無視できない重さでのしかかった。この力に頼ることは弱さの極致であると、東雨の奥底で魂が叫んでいた。それでも守ることができるのなら、救うことができるのなら。  また、同じ場所に立てるのなら。  自分を苛むずしりと重たい傷は、決して東雨だけのものではないと思われた。  ずっと昔から東雨を守ってくれた人々もまた、同じ痛みを感じていたのではなかろうか。そうとは気づかせることなく、ただ静かに内側に沈めて、表では笑みを浮かべて。  そうやって、誰もが誰かをかばいながら泥をかぶり、生きてきたのではないのか。  いつまで俺は甘えてるんだ。  東雨は自分を奮い立たせた。  いつまでも、自分だけ綺麗な場所にいるつもりか。それはあまりに身勝手だ。  幼い日から、抱え続けた棘のある秘密。ようやく手放すことを許されて、代わりに手にした平穏。永遠に守り抜きたい一心で捧げた忠誠心。開けたと思われた明るい未来。  精一杯に立ち向かい、掴み取ったと信じていた過去は、自分より高みにいる人々の庇護のもとで与えられたに過ぎない気がした。  覚悟を、決めなければ……  誰にも告げられない優しい悩みの種を、胸の中に埋める心地がした。  その種が東雨の命を吸って育ち、根を張り、枝を伸ばし、誇らしく花を開かせたとしても、誰にも知らせることなく、永劫に、自分だけの世界に留め置くこと。それが人を守るということならば、受け入れなければならない。  東雨を取り巻く人々が、そうしてきたように。  人として、自分もまた、強くならねばならない。  だが、東雨にはそれが最善とは思われなかった。自己の犠牲で、真に人を守ることはできないのではないか。東雨が味わったように、傲慢な自意識は誰かを孤独へ追いやってしまうのではなかろうか。それとも、世界とはそんな形でできているものだというのだろうか。  東雨が求めているのは、一方的な保護などではなかった。共に傷つき、ともに苦しんでも隣に立てる、その信頼が欲しかった。  親友としてそばにいながら、真実に触れず、知らぬ顔で笑うことが優しさだというのならば、東雨は望まなかった。自分の弱さを隠し、傷ついても目を背けることが強さならば、欲しくはない。  俺は……  と、東雨は木簡を胸に抱きしめた。文の向こうで、一人の少女の命が消えようとしている。その死を伝えるべき相手は誰なのか。  東雨の胸中は乱れに乱れた。  妹を慈しむ涼景の気持ちを知ればこそ、知らせないわけにはいかなかった。何事もなかったように、これから先、涼景と顔を合わせることなど、東雨には到底耐えられるものではなかった。同時に、犀星の判断が間違っていないこともわかっていた。  蓮章様なら……  東雨は必死に救いを求めて考え続けた。  蓮章ならば、どうにか都合をつけて、涼景を歌仙へ帰らせてくれるかもしれない。立場上、それができるのは蓮章を置いて他にはいなかった。東雨には及びもつかない蓮章の知略と政治力、それを後押しする精神力。たとえ、歪んだ愛情が秘められていたとしても、宮中を自在に動かしてきた実力は、決して揺らぐものではなかった。  その望みがあるからこそ、犀星は蓮章に托せと命じたのだ。  だからと言って、涼景に知らないふりなんて、できない。  東雨はいつしか歩き慣れた道を行き、朱雀門を潜っていた。朱市を通り過ぎ、五亨庵の小径にも気づかず、八穣園の前でようやく足を止めた。東雨は青く高い空を見上げ、木簡と自分の体を抱きしめながら息を整えた。 「流されてはいけない」  小さく呟き、自分に言い聞かせた。今は流されてはいけない。理由などない。根拠などない。  それでも別の何かが東雨にささやいた。  信じろ、と記憶の彼方から声がした。 『自分の目で見て、聞いて、感じたことだけが、真実だ』

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