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22 有明の眠り(2)

 東雨の顔がわずかに落ち着きを取り戻した。すぐ先に、いつかの蝋梅の木があった。そこは、犀星と出会った日に、初めて言葉を交わした、あの場所だった。  東雨は確かな足取りで木へと歩み寄ると、その幹に触れ、そっと額を当てた。  俺はあの日からずっと守られてきた。  木肌から立ち上る匂いが鼻の奥へ柔らかく滑り込んだ。優しさよりも強く、確かに心を揺さぶられるもの。それが東雨を勇気づけた。  あの時、若様も同じ匂いを嗅いでいたのだろうか。  今の東雨と同じく、犀星は木の幹に触れながら静かに言った。 『蝋梅には毒がある』と。  それでも、愛でる。  犀星が抱いていたのは木ではなかったのかもしれない。  東雨は不意に思った。  玲陽との離別の傷を負い、一人で宮中に投げ込まれた少年は、毒を飲み干してもなお、人を想うという感情を忘れまいと、精一杯にあがいていたように思われた。  雷のような衝撃が身を駆け抜け、東雨は自分の答えを見つけた。  犀星とも違う。涼景とも違う。自分だけの正義だった。  内なる毒にも屈しない、他者に負わせる犠牲も認めない、諦めも妥協も物分かりのよさもない、ひたすらにまっすぐな東雨の真意が、強く脈打った。  青春の憧れ。宮中という魔窟で、知らず知らずのうちに、枯れていった純粋な理想は、時と魂を超えて、今、確かに東雨の内側にあった。 「俺は、あいつのようにはならない」  東雨は、思わず声に出した。 「俺は、諦めたくない」  東雨は目を開けた。  地平線の近くに雲が見えた。もうすぐ夕立が来るだろう。雲は異様な速さで動き、空は灰色に塗りつぶされていった。風は感じなかったが、空の高いところでは強く吹いているらしかった。  嵐になる。  冬を呼ぶ雨風を受けても、今日も、明日も、誇りを手放さずに立ち続けることが、東雨の出した答えだった。  先人たちが諦めざるをえなかったものを、東雨は決して、手放さないと誓った。  十年の時をかけて、彼らの心から東雨の心へと、その情熱は確かに受け継がれていた。  見上げる蝋梅の枝の向こうに、まだ、青空が残されていた。  東雨なりの色で、香りで、あの空に咲いてみせる。  愛する人々の誇りとなれるように。  決意を込めて、東雨は頷いた。久方ぶりに視界が開けて、東雨は深呼吸をした。  と、その時、かすかな靴音が聞こえた。それは東雨のそばで立ち止まった。どきりと、東雨は振り返った。 「祥雲どの」  覚えのある声。  目の前にいたのは、宝順の近衛であり禁軍大将でもある、然韋であった。厳しく凛々しい顔立ちの奥に、疲労と迷いが混迷していた。  予想だにしていなかった相手の出現に、東雨は明らかな戸惑いを浮かべた。  ようやく心の迷いを退けた矢先に、次なる苦悶が訪れた。  然韋とは、物心つく頃から見知った仲だった。  特に、東雨が満月の夜に天輝殿へ通うのを、然韋は承知していた。宝順の側にあるものとして、ある種の同族であった然韋は、今は確実に溝で分かたれた対岸の人であった。  東雨は然韋を前にして、どんな態度で接するのが正解かわからなかった。怯えるべきか、堂々と見据えるべきか、逃げるべきか、対峙するべきか。判断できない焦燥が心を縛り、東雨を立ち尽くした。  こわばった東雨の顔に、然韋はわずかに悲しげな笑みを浮かべた。  やはり、似ている。  十八歳の黒髪の少年は、然韋が生涯を賭した若き日の親王を彷彿とさせた。然韋の胸に、懐かしい日の懐かしい人の面影がよぎっていた。  東雨は木簡を背後に隠し、胸を張った。 「もう、俺に構わないでください」  絞り出した声は、わずかに震えていた。  すでに、宝順の間者であった東雨はこの世にはいない。今の彼は、玲陽の弟であり、犀家の人間である。玲親王の近侍であり、確固とした後ろ盾と身分を保障された宮中の要人である。  犀祥雲である以上、いかに然韋といえども、東雨を軽んじることはできなかった。  理屈ではわかっていても、東雨は己の怯えを痛切に感じていた。魂に刻まれた恐怖の一端に、常に然韋はいた。宝順の傍らで、命を落としかけたあの夜も、然韋は部屋の隅で黙って自分を見下ろしていた。  恥辱と絶望の限りを与えられ、完膚なきまでに尊厳を奪い取ったのは、確かにこの然韋と禁軍の兵たちだった。石の床に転がされ、踏みつけられ、命を落としかけたあの朝。  急速に記憶が蘇って、東雨は一瞬、足元がふらついた。それでも、弱みを見せるものかと、眉間に力を込めた。  あの時の怪我が元で、侍童の東雨は死んだ。  今、ここにいるのは玲親王の腹心である犀祥雲である。暗い過去に引きずられる必要はない。 「俺は、玲親王殿下の近侍です。たとえ然韋様とはいえ、分を心得た立ち居振る舞いを願いましょう」  東雨は、精一杯に気を強く保った。  然韋は、涼景や備拓よりも位が上である。だが、いかに軍部の頂点にあるとはいえ、それは警護を担う近衛の一角に過ぎない。東雨の立場は玲親王の側近であり、その公的な順位は間違いなく然韋より高いものであった。ただ、東雨本来の競い合うことを好まない温和さが、身分の上下を曖昧にしていた。 「わきまえている」  然韋は静かに答えた。その口調は、東雨の記憶の中の然韋よりも柔らかく、遠慮さえ伺えた。手荒いことはあるまいと思われたが、東雨の警戒心は緩まなかった。夜の天輝殿ですれ違う然韋はいつも、幼い東雨にとって、恐ろしい相手に違いなかった。  然韋は、東雨の過去の全てを知っている。宝順の密偵であったことも、反逆の咎で命を落としかけたことも、犀星の策略が東雨を救い、同時に皇帝の意に反し続けていることも。  然韋との接触を、東雨は恐れていた。  今や、宮中で真実を知らぬ者はない。それでも皆が黙殺してきたのは、宝順と犀星の確執に巻き込まれないための自衛だった。その頼りない思惑に救われて、東雨は日常を手に入れてきた。だが、その安寧は、然韋がその気になれば、あっさりと握り潰されてしまう脆いものであった。  東雨の胸に不安が満ちた。戸惑いを浮かべたその表情を、然韋はさらに沈んだ目で見つめ、他には聞き取れない低い声で言った。 「そなたにとって、私は悪夢でしかないだろうな」  東雨はこわばった口を固く結んだ。然韋はじっと東雨を見下ろしていた。沈黙が二人の間を隔てていた。  鎧姿ではない然韋は、今、人の波に溶けて目立つことはなかった。東雨もまた質素な身なりで人目を引かなかった。二人は時が流れるのを待つように見つめ合った。それはいつまで続くともわからなかった。  やがて期が熟したというように、然韋は目元を緩めた。その顔に東雨は目を見開いた。然韋の笑顔など、東雨は生まれて初めて見た。 「そなたは、これからも、玲親王に尽くすつもりか?」  然韋は確かめるように問いかけた。東雨は小さく顎を引いてうなずいた。 「俺の気持ちは変わりません」  なぜ問われているのか、その真意が見えないまま、東雨は答えた。  然韋はさらに続けた。 「玲親王への実直なる忠誠、その思いの深さは承知している。その上で尋ねたい」  然韋の声はゆっくりとしていた。まるで一言一言を響かせること、その響きが東雨に届くことを楽しんでいるかのようであった。 「そなたは、それで、幸福か?」  東雨は耳を疑い、呆然と然韋を見た。 「どうして、そんなことを聞くのですか?」  東雨は思わず問い返した。 「俺は玲親王殿下の近侍です。それはこれから先に何があっても変わらない。死ぬまで、この命尽きるまでおそばにいます」  それはどこか悲鳴のようであった。 「だからこそ、問うている」  高ぶった東雨に反して、然韋はどこまでも静かだった。 「命尽きる時、幸福であったと言えるか?」  東雨の混乱はさらに激しさを増した。  突然に投げかけられた然韋の執拗な問いかけ。東雨に反して、返答を待つ然韋の顔は不思議と穏やかだった。過去の彼とはまるで別人のような声が東雨の心にじんわりとしみ込んだ。  然韋の優しいまでの眼差しは、なぜか、涼景を思い出させた。 「あなたには、関係のないことです」  答えてしまってから、東雨は息を殺した。  迷わず幸福だと断じられなかったことが、東雨自身を困惑させた。  真実を突きつけられた東雨はもう、無邪気には笑えなかった。笑みの代わりに、東雨は覚悟を決めた顔を上げた。 「……あなたにどのように見えようと、俺は幸福です。そう思えない瞬間もあるかもしれない。それでもいいんです。必ず、最後には笑ってみせる」  然韋は目を細め、低く息を吐いた。東雨は続けて、 「俺も、お尋ねしたい。然韋様は、ご自身を幸福だとお思いですか?」  ただの仕返しのつもりだった。突然に東雨の心に踏み込んできた然韋への、意趣返しに過ぎなかった。だが、然韋の目はどこまでも真剣に、東雨を捉えて離さなかった。  これほど長く、誰かを見つめるなど、いつ以来だろう。  東雨は動揺し、それでも唇を引き結んで顔を上げ続けた。  逃げたくはなかった。 「私は、幸福だった」  然韋が、囁くように言った。 「そなたが覚悟しているように、そう思えない時もある。それでも、取り戻したいと思っている」  然韋の返答は、東雨の想像を超えていた。  長く知っている相手とはいえ、警戒すべき宝順の近衛であり、いつ自分を傷つけるか知れない脅威、それが然韋だった。  それが今、まるで別人のように自分の前に立っていた。  蝋梅の木の下で向き合う、真意の読めない相手。  二人の間には異様な沈黙と緊張が張り詰めていた。そばを過ぎていく人の群れは、それに気づくこともなかった。誰もが、目の前の自分の命に忙しかった。無駄に干渉せず、関わらぬことが身を守る社会だった。目立てば嫉妬を買い、主張せねば埋もれいく。その境界の綱をうまく渡れる者だけが、宮中で生きながらえることができた。  東雨は途方に暮れた。  然韋は、時が止まったように自分を見つめたまま、動く素振りすらなかった。  ふと、東雨は頬に風を感じた。  いつからそうしていたのか、自分のすぐ脇に、墨染を身にまとった蓮章が立っていた。 「禁軍大将閣下が、玲親王の近侍どのに何用かな」  言い放った蓮章の声は、東雨の耳が覚えていたものより、わずかに低く思われた。  これは慎だ、と東雨は直感した。存在を知らなければ、気づくこともない差異だった。  然韋は目線を東雨から外した。 「偶然、お見かけしてご挨拶したに過ぎぬ、気にとめる必要もない」 「ならば、ここまでとしていただこう」  慎は東雨を庇うように前に出た。然韋の目元がすっと歪んだ。東雨は鋭さのほとばしる慎の横顔を見た。 「我々は玲親王の身辺を預かる身。祥雲どのを災いから遠ざけるのもまた、使命というもの」 「災い、か」  自嘲の呟きが、然韋の唇から漏れた。 「確かにそうだ。右近衛にとって、第一に考えるは玲親王であり五亨庵。それゆえ近づく者を警戒するは当然のこと。されど、いみじくも陛下の禁軍を災いと呼ぶは不敬の重罪ではないか」  東雨は息を殺した。  一瞬前とは打って変わって、然韋の目から温もりが失せていた。  東雨の想像の中で、蓮章は不敵に笑った。だが、現実の慎は追い詰められた気配をまとい、その余裕すらなかった。然韋はわずかに唇を開き、何かを言いかけて、諦めたように顔を背けた。  わずかに空気が緩み、同時に、ぽつりと大粒の雨が足元に落ちた。  降り始めた雨は瞬く間に勢いを増し、土埃はぬかるんで石畳のくぼみに細い流れが揺らめいた。逃げるように泥水を蹴立てて人々が駆け抜けていく中、三人は一歩も動こうとはしなかった。  髪の先から垂れる雫が、東雨の頬に時を刻んだ。水を吸って張り付く着物の感触が、逃れられない未来であるかのように重たかった。  最初に動いたのは然韋だった。 「祥雲どの」

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