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22 有明の眠り(3)
然韋は、東雨たちに背を向けながら、
「気をつけなされよ。宮中では、誰も信じてはならぬ」
東雨の心が瞬時に凍った。
呪いの言葉は、同時に深い暖かさを帯びていた。
煙立つ雨に霞む然韋の後ろ姿を見送って、慎は東雨を振り返った。
「何を話していた?」
雨音に混じる慎の言葉に、東雨は思わず身を固くした。
「別に何も……」
「あいつには近づくな」
低い声が冷徹に告げた。
「いいな」
東雨は、数呼吸、沈黙してから、
「そんなの俺には関係ないです」
声に込められた露骨な抵抗に、慎は目を鋭くした。
「余計な摩擦を避けるためだ。それくらいわかるだろう?」
東雨は毅然として慎を見返した。
「わかりますよ。だからこそ、俺は誰と何を話すか、自分で決めます。あなたに従う理由はない」
容赦のない雨が降り続いていたが、二人とも気に留めなかった。それ以上に二人を飲み込むのは、現実と理想との狭間で濁流となって押し寄せてくる感情の波だった。
「俺が動くのは、若様のためだけです」
至極当然の東雨の意思だった。だが、慎の表情は、さらにこわばった。この場に来たのが蓮章本人であるならば、東雨の態度も少しは違ったのかもしれない。
慎は落ち着きのない様子で呼吸を乱し、煩わしそうに前髪をかきあげた。
その仕草から、東雨は相手が蓮章ではないことを確信した。
蓮章ならば、東雨に対してここまで隙や弱みを見せることはありえなかった。少なくとも、東雨が蓮章だと思っていた人ならば。
「祥雲、おまえの判断基準はそれなりに尊重するが、親王のことを考えるなら、更に慎重になるべきだ。特に宝順がらみは関わらない方がいい」
「俺の過去に関わる告発、皇帝からの五亨庵への嫌がらせ。そんなことになるのが面倒だからですか?」
「それだけじゃない」
慎が雨音にかき消されるほどの声で言った。
「もっと厄介だ」
東雨はじっと慎を見た。蓮章と同じ灰色の左目が光を失っている事は、目線の動きから想像がついた。
「今、然韋は禁軍の中でも孤立しかけているらしい」
「え?」
東雨は素直に驚いた。
「でも、然韋様は隊長ですよ。もう、二十年以上、近衛勤めをしてきて、信頼も経験もあるはず」
「それが、崩れかけている。最近、然韋が皇帝と不仲だとの噂だ」
「……なんだ、また噂ですか」
東雨は、わずかに安堵した。
「噂なんて、あてになりませんし、ありえません。然韋様は陛下には絶対的な忠誠を誓っています。裏切ることなんて……」
東雨はそう、否定したものの、慎が警戒している噂の信憑性については、無視もできない気がした。
「忠誠など、いっときの熱病に過ぎない」
慎は冷たく言った。
「あいつは、こうなることまで、読んでいたのかもしれない」
独り言のように、慎は言った。
雨がさらに勢いを強め、二人の周囲からは人影が消えていた。朱市はあっという間に閑散とし、商人たちは雨宿りの軒を求めてあちらこちらへ逃れていた。
こういう時にこそ、衛士たちの出番だった。
雨に乗じて店先の荷物や金の箱が盗まれることが多く起きる。東雨が見回すと、右近衛が等間隔に道に立ち、雨に打たれながら、警戒と巡回に当たっていた。
慎は衛士の動きを見張りながら、声だけは東雨へ向け続けた。
「おまえはなぜ、ここにいる?」
慎の声は東雨の心を余計に荒ませた。
「今日、親王は都の屋敷だろ。おまえ一人、何の用できた?」
東雨は背中で握っていた木簡を、そっと前に抱え直した。雨水を吸った麻袋の色が、濃く変わっていた。蓮章に知らせるならば、本人でなければならない。それは慎に対する不信感ではなく、犀星に対する忠義だった。
「蓮章様は右衛房ですか?」
東雨は襟の下に木簡を隠した。慎の目元がわずかに引きつった。
「……リィには、会えない」
慎は言った。
「あいつに用件があるならば、俺が取り継ぐ」
東雨は雨に目を細めながら、濡れてなお色気を増す横顔を見ていた。虚ろな灰色の瞳は空よりも暗かった。
「それではだめです。直接、蓮章様にお会いしたい」
雨が大地にぶつかって跳ねる音がしばらく続き、その果てに、慎はようやく小さく首を振った。
「無理だ」
東雨は黙って慎を見つめた。無言でいればいるほど、慎の感情が解けて見えてくるようだった。
「会えないんだ」
慎の声は、震えていた。
滂沱の雨に混じって、別のものが慎の頬に流れ落ちた。東雨の心臓が、ぎゅっと縮んだ。手足が冷えきって、背筋を何かが這い上がってきた。
「ちょうどいい」
慎は東雨にだけ聞こえる声で、
「おまえに訪ねたいことがある」
「……幸せか、って質問なら、間に合ってます」
「くだらない。そんな主観になど興味はない」
慎は東雨の顔を覗き込んだ。
「石の間への道を教えろ」
光のない灰色の目に、東雨は身震いした。雨の冷たさよりも、凍える温度が宿っていた。
「おまえは、かつて、抜け道を使っていたんだろう?」
東雨は我知らず息を飲んだ。封印していた記憶の奥底で、暗い通路が右へ左へ揺れていた。
「知ってどうするんですか?」
東雨は、容易に答えの透けて見えることを、あえて問うた。慎は顔色を変えなかった。
「おまえこそ、それを知ってどうする?」
「…………」
「忘れるな。こちらの意図に逆らえばどうなるかくらい、わかるだろ」
その物言いは、厳しくとも情のあった蓮章とはかけ離れていた。
姿ばかり同じで、心はまるで違う。
慎が蓮章以上に冷徹に物事を進めるであろうことは、東雨にも想像がついた。東雨は唇を噛んだ。
安寿の庵を出た時、すでに雨は本降りとなっていた。
呆然と空を見上げる玲陽に安珠は傘を貸した。
「光理どのを濡らしたとあっては、歌仙様にどのようなお仕置きを受けるかわかったものではない」
優しい髭を蓄えた顔で、安寿は穏やかに微笑んだ。玲陽は、寂しげに傘を受け取った。
涼景と並んで、玲陽は激しい雨音の中を帰路についた。急ぎたい気持ちがその足を速くさせたが、道は悪く、泥は裾にまとわりついた。だが、今の玲陽にはそのような事は気に止めるほどでもなかった。
ここ数日、目に見えて犀星の様子がおかしくなった。そばにいても、いつも以上に口数は少なく、玲陽と二人きりの時でさえ、ただそっと手を重ねて遠くを見ていることが多くなった。沈黙は決して寂しさではなかった。むしろ言葉がないぶん体の距離は近く、人目がなければためらうことなく温もりを求めた。
犀星の体は、以前より増して暖かく、安らぎをくれた。顔を寄せれば、犀星の方から微笑して擦り寄ってきた。求められることが玲陽には嬉しかった。存分に甘やかして応えたかった。
かつて、孤独に泣いた夜を思えば、今の境遇は、まるで別世界だった。幸福と安寧と満たされていく体と心。これ以上何を望むのかと、自分でもその貪欲さが恐ろしいほどであった。
だと言うのに、犀星の心の底は真っ暗に沈んでいた。近くなればなるほど焦点が合わず、何もかもがぼやけて見えなくなるのに似ていた。一番見たいものだというのに、それが叶わなかった。
降りしきる雨。
その粒の軌跡さえ見えるのに、大切な人の微笑の下にある心が、手を伸ばしても掴めなかった。
「陽」
少し後から涼景の声がして玲陽は我に帰り、走り始めていた足を緩めた。涼景は難なく横に並んだ。
「落ち着けと言うのは無理だろう」
そう言った涼景の声も、普段より緊張していた。
「しかし、こういう時だからこそ、おまえが我を忘れていては事態は悪くなるばかりだ」
「はい」
玲陽は素直に頷いた。今、一人でないことが心強かった。涼景は誰よりも、犀星の味方だった。屋敷に残してきた東雨も、犀星のために尽くしてくれるに違いなかった。
「何かが起きているのは、間違いないです」
玲陽は言葉にすることで、少しだけ視野が開ける思いがした。
「辰巳から戻ったあたりから、急に様子が変わったみたいで……」
「都に帰ってきてから、か……」
涼景は、自分の傘を傾けて、玲陽との距離を詰めた。
「確かに、物思いに耽ることが増えたと感じる」
「……怖いです……」
玲陽は思い切って口にした。
「父上を亡くした時でさえ、こんなに動揺はなさらなかった」
「夕泉とのことを引きずっている、ということは?」
涼景の問いかけに、玲陽は首を振った。
「それは、ないと思います。前を向いて、一緒に生きようって約束しました」
玲陽の声は雨の音と重なって、一つの願いのように涼景には聞こえた。
「私は何があっても、兄様を信じます」
喉の奥でこくりと何かを飲み込み、玲陽は傘の柄を強く握り締めた。
「それでも怖いんです。私の知らない何かが起きている……涼景様には何か心当たりは無いのですか?」
玲陽は、道の先を見つめながら、すがるように言った。
心当たり。
涼景は、胸の底から湧き上がってきた衝動をぐっと抑え込んだ。
犀星が皆に隠れて、奏鳴宮の、あの辛い傷の風景見に行くこと。それと、最近の犀星の変化は、明らかにつながりがあるように思えてならなかった。
察しつつも、涼景は誰にも言えずにいた。犀星自身が明かすなと言うのであるから、涼景には絶対の命令だった。
玲陽は良き友である。信頼に足る人柄と、犀星を思う純真さ。聡明で、同時に人間臭い激しさを持つ、大切な友であることに間違いなかった。
それでも、涼景にとって、どれほどの友情も犀星の言葉に勝ることは無かった。たった一人の主である犀星が沈黙を望むのなら、涼景は守るのみである。それは近衛として、涼景の信条だった。
雨水が道端に細く流れていた。この区域は、来年の春、犀星が水路整備の候補地として挙げている場所であった。ついに都にも、犀星の水の構想が実現しようとしていた。花町から始まり、長い年月をかけてようやく手を入れることが許された。
都の水事業を、遂げさせてやりたい。
それを支えるのが涼景の使命であり、願いだった。
いつしか犀星の夢が、涼景の夢になっていた。
雨が叩きつける音が、涼景には、滝の音にも聞こえた。
水の音を聞きたがっているだろうか。
不意に、涼景の首筋に冷たい不安がよぎった。
それぞれの思いを抱きながら、二人は暁隊の並ぶ塀の前を過ぎた。
「ただいま戻りました」
水の滴る傘を閉じ、玲陽は玄関で大きな声を出した。屋敷の中は、しんとして返答はなかった。迎えに出てくる東雨の足音もしなかった。
ぞっとして、玲陽は駆け出した。涼景もまた、胸の高鳴りを感じながら、それを追った。
迷わず犀星の部屋の戸を開いた玲陽の目に、中庭に立つ後ろ姿が、まるで不動の彫像のように見えた。
「星!」
悲鳴じみた声を上げて、玲陽は庭に飛び降りた。傘に守られていた肌が、あっという間に雨に濡れた。全身を降りしきる雨に打たせながら、犀星はじっと遠くを見て立ち尽くしていた。いつからそうしていたのか、すっかり体中が冷え切っていた。
玲陽は正面に回り込むと、頬に張り付いていた髪をそっと分けた。雨を遮るように顔を近づけ、祈るような思いでその目を見つめた。
「星……」
泣き声が混じった呼びかけに、犀星はゆっくりと玲陽の顔を見た。
唇が動いて、玲陽を呼んだようだったが、聞こえなかった。
その弱々しさに玲陽の胸は、より熱く早くなった。
「何をしているんです?」
思わず責めるように言ってしまった。
犀星は首を振った。
「……とにかく早く中へ戻りましょう。このままでは体を痛めてしまいます」
犀星は黙ったまま、無機質に玲陽を見つめていた。感情の抜け落ちた青い瞳は、雨の中で一層潤っていた。
「東雨はどうした?」
部屋の中から涼景が声をかけた。屋敷は他に人気がなかった。
「星、東雨はどこへ……?」
涼景は重ねて問いかけて、口をつぐんだ。
肩越しに振り返った犀星の目は、まるで知らないものを見るかのように空白だった。
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