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23 雲霞に誓えば(1)

 新月の夜。  夕泉は天輝殿から戻らなかった。  連れ帰るはずだった親王は、自らの意思で天輝殿へ留まった。  夕泉には天輝殿の一画に一棟が与えられていた。奏鳴宮には及ばぬものの、長く滞在することもしばしばあった。  だが、今回は今までとは意味が違った。  別れ際の沈黙は、まるで永遠の決別の色を帯びていた。  一夜を通して石の間の前で祈り、明け方に一筋の涙をこぼして、備拓に深く頭を下げた。  その光景は、あまりに現実感に乏しく、あまりに夕泉にふさわしくもあった。  備拓は答えることも、膝をつくことすらできなかった。  目の前の出来事を理解できない備拓に、夕泉は一言、命じた。 『奏鳴宮を任せる』  日が昇る頃、備拓は無人の輿と共に、主人から託された命令一つを胸に抱えて、部下を連れ、奏鳴宮への道を、あまりにゆっくりと馬に揺られていた。  見捨てられたとは思わなかった。  夕泉は最初から最後まで、備拓との距離を保っただけだった。  信頼されていないとは思わなかった。むしろ、揺るがぬ評価があればこその命令だと納得もできた。  苦しいのは、それが備拓の望んだ形ではなかったことだった。  結局、夕泉は何一つ変わってはくれなかった。  備拓が一方的に主従の絆を望み、特別な信頼と情を期待したに過ぎなかった。夕泉から見れば、どれほど意味をなさない行為に思われたことだろう。  万事を尽くした。  己を納得させるように、備拓は念じた。奏鳴宮は、主人の帰りを長く待つことになるだろう。  備拓は、馬上から遠ざかる天輝殿を振り返った。  夕泉の住まうところに、左近衛は控える。それが当然の習慣だった。夕泉が拒んだこともなく、備拓が疑ったこともなかった。  それが、此度は許されなかった。  形式だけ、わずかな衛士を残して、備拓は奏鳴宮へ馬を歩ませ続けた。それは事実上、夕泉の影を抱いた最後の道のりだった。  奏鳴宮は第一皇位継承者、夕泉の邸宅である。夕泉があってこその、価値ある門である。主人のいない箱庭に、守る価値がいかほどにあろうか。  備拓は知らず知らずに、唇を固く噛んでいた。  備拓が守るべきは生身の夕泉であり、形骸化した宮などではなかった。  これが、答えか。  備拓の生き方そのものの帰結であり、結果であると、心密かに涙した。  遅すぎた。  報われる努力ばかりとは限らないのが世の道理と聞きつつも、根拠のない期待は当然のように備拓の中に存在し続けていた。それが微塵に砕かれ、足元の玉石に混ざって馬蹄に絡みついた。  備拓は普段と変わらぬ風態を装いながら、空の輿を小屋に収めさせた。  二度と呼ばれることがない、見納めと思われた。  と、厩の方から覚えのないいななきが聞こえた。  玲親王が来ているのか……  備拓は急いで馬を預けると、足早に奏鳴宮の奥へ向かった。  主人の留守中、親王の宮殿に都度の許しもなく通される客は一人しかいなかった。  備拓の察した通り、奥の庭に面した広縁に、人影があった。だがその輪郭は、想像を超えていた。  数歩の距離を置いて、涼景と然韋が並んでいた。その先の庭の中ほどに、こちらに背を向けて立つ、犀星の姿があった。  備拓は思わず唸った。  涼景が犀星を伴って庭を訪れることを、夕泉は歓迎していた。自らは姿を見せず、ただ、あの庭は伯華への贈り物だ、と決まり文句を繰り返すだけだった。  来訪者が玲親王とその右近衛隊長だけならば、備拓も動揺はしなかった。  しかし、三人目の訪問者は、想定の幅を過ぎていた。  蒼氷の親王に加え、国で最も釣り合いの取れない二人の将軍が、居合わせている。備拓でなくとも、肝が冷えたに違いなかった。  涼景が先に、一瞬だけ、視線を備拓に向けた。頬の傷がいつもより赤く熟れていた。その仕草に気づいて、然韋はしっかりと備拓を振り返った。 「留守に邪魔をした」  然韋らしくない、湿り気を帯びた声色だった。 「このような場所で、このような形でお会いすることになろうとは」  備拓は、ゆっくりと二人に近づき、足を止めた。  紅蘭の秋は早い。  庭の木々は既に色づき、細い軸の紅葉が風に遊ばれて視界を横切った。土は去りゆく季節の香りを放っていた。ただ水だけが、変わることなく澄み、岩肌を流れ落ちていた。  夕泉が犀星のために作らせた忘却の庭。  その真価は、あまりにも悲しい形で、犀星の上に降り注いでいた。  ただ一人と誓った玲親王の姿から目を離さず、涼景は滝の音にかき消されるほどの声で言った。 「我ら三人は、皆、失った」  その言葉に、備拓は息を止めた。何かを言い返そうと思ったが、心が敗北を認めていた。  ちらりと然韋を見れば、いつもはいかめしいその表情が別人のように悲哀に緩んでいた。  蓮章の手を借り、合議の場で危うい賭けに出たのが、夏の盛りのことだった。あれ以来、然韋はぱたりと気を荒立てることがなくなった。それどころか、盲目的な宝順への忠誠は転がり落ちるように落胆へと遷移した。  備拓と蓮章の思惑とは別のところで、然韋もまた、深く自身の気持ちと向き合わざるをえなくなっていた。  宝順の、皇子への無関心と、ゆるやかな自我の瓦解は、然韋の生き方を長く歪めてきた源だった。  認めたくはない主人の狂気は、いつまでも過去の幻影の中に然韋を封じ込め、外の世界を見ることを許さなかった。  悪い夢から目覚めようとしなかった然韋も、ついに、息が続かなくなった。最後の一呼吸を射止めたのは、皮肉にも蔑み続けてきた蓮章の強さだった。屈辱よりも、圧倒的な畏怖が凌駕した。  神妙な然韋の表情から、備拓は堅物の禁軍大将の揺らめいた胸の内が見えるようだった。  然韋と涼景がこうして共にいる理由がわかった気がした。  どのような強者も、永遠に立ち続けることはできない。  若さゆえの力強さは、やがて限界を迎える時が来る。それは敗北に似ているようであり、悟りとも言えた。  然韋にも、やがて涼景にも、その時が近づいているのだと、備拓は感じた。  かつての自分もまた、その轍に足を取られ、先へ進むことを恐れてうずくまる道を選んだ。その結果が、主人のいない空虚な奏鳴宮だった。  備拓は胸の中に溜まっていた最後の熱い呼吸を吐いた。  二人に、自分と同じ道を歩ませてなるものか。  備拓は控えめながら、強い意志を抱いて向き合った。 「確かに、終焉を受け入れねばならぬ時は来る」  年を経た智を感じさせる、備拓の声が言った。苦しげに、然韋は頷いた。 「認めねばなるまい。これ以上は忠誠とは呼べぬ悪あがきに過ぎぬ」  然韋の低い声に、涼景の聡明な声が賛同した。 「それぞれに志は違い、心尽くす相手は違えど、その情の色は似通ったものであったと思う」  涼景の語り口は、年若い将軍とは思えぬほど、多くを失った傷に削り取られていた。  然韋は目を細めて、 「長い間、俺もまた彷徨っていた」  わずかに諦めのようにも聞こえた声だったが、その裏には、捨てきれぬ情が、確かにまだ宿っていた。秋の風が然韋の襟元を通りすぎ、陽射しの向こうの犀星の裾を揺らした。 「覚めて欲しいと願う夢もある」  然韋は言った。 「だが、たとえ悪夢であろうと、見えているうちはまだ良いのだ。それすら失えば、道に迷うだけなのだから」 「然韋どのらしくもない、気弱を」  備拓は寄り添う心持ちで将軍の疲れた顔を見た。然韋の目は広縁も庭も邸宅の屋根をも超えて、別の地平を見ているようだった。 「覚めるならそれも活路」  涼景は、穏やかに言った。 「私にはまだ見るべき悪夢がある。だが、これは決して醒めないのだということもわかっている。それは、然韋どのとは別の形で苦しいものだ」  二人の言葉を聞きながら備拓もまた己を振り返った。 「わしは悪夢すら、見たことがない」  自然と言葉が、備拓の口をついて出た。 「わしが見ていたのはただの白昼夢よ。そこには光も影もなく、誰の情のかけらもなかった」  老将の告白に、涼景は耳を済ませ、然韋はわずかに視線を下げた。 「望むこともあった気がするが、今ではそれすら確かとは思われない」  備拓の声は、秋風に混じり奏鳴宮の隅々へ広がっていった。今もなお、遠くから琴の音が聞こえていた。  夕泉が愛し、最後に想いを託した庭。  奏鳴宮は主を失った今もまだ、浅い呼吸を続けていた。それはただ一人招かれた弟・犀星に対する優しい兄のぬくもりのようであった。  三人の声は、それぞれに守るべきものを守れぬ無力に芯を失っていた。  涼景は、風に揺れる犀星の髪の一筋をも見逃すまいと見つめながら、拳を握った。  玲陽にも、東雨にも、安珠にも問うた。  それでも答えはなかった。  取り乱し、不安定に揺れる玲陽たちを支えるだけで、涼景は限界だった。  その無力を思い知らせるように、刻一刻と犀星は遠のいていくようだった。  記憶をなくし、過去をなくし、心をなくしていた。  かろうじて、この庭の光景だけが、犀星の魂の奥底から、感情の断片を引き出してくれた。それとて、色あせて乾いて砕けた枯葉ほどに儚いものに過ぎなくなっていた。  憎まれ、恨まれ、蔑まれてまで、夕泉が残した優しさも、すでに尽きかけていた。  涼景は震える吐息を漏らした。 「新しき世を、築かねばならぬ」  声は掠れ、押し殺した感情はどこへ向かうともしれなかった。 「これより先、誰にもわからぬ明日を覚悟せねば」  感情が、涼景の中でどこまでも深い渦となっていた。  犀星の虚ろが、心にずしりと響く。 「時は、|還《かえ》らぬ」  血を吐く声が、そう告げた。 「やらねばならぬことがある。私たちは、私たちに決着をつけなければならぬ」  遠くを見ていた然韋は、涼景の見つめる先に顔を向けた。かつて自分の主が、その命を賭して救った弟の、変わり果てた姿だった。 然韋にとって、犀星は残されたたった一つの、主の正義だった。  備拓もまた、庭に咲く一輪の花となる白い影を見守った。真意は知らぬままであったが、主が最後に備拓に託したのは、間違いなくこの人であった。  三者三様に、想いはひとところへと注がれていた。  昼下がりの花街を、彼は心から愛していた。  霞がかった世界で時の流れは遅くなり、ひだまりの中でまどろむ一時の静寂があった。激しく燃え上がる夜の対極にある、白く空洞な昼。彼が愛したのは、そんな朧げでもろく、触れることさえためらわれる、柔らかな花街の寝顔だった。  人々の命をつなぐ水脈は丁寧に街を潤し、清らかな水を煌めかせて、秋の日差しに音もなく流れていた。柔らかな土に根を張り、何も知らない花が川のそばに一面に咲いていた。秋にもこれほどに花が開くのかと、不思議に思われるほどの光景だった。  新しい小さな石塚の前で、蓮章は膝をついていた。そこに眠る報われなかった深い情念は、今、彼の胸の中に確かに宿っていた。そうすることが誰の望みであったのか、遠くから自分を眺めるようで、判然としなかった。そして同時にそれが心地良いのだ。ようやく息ができる。  花の香りは命の匂いだった。花街の花は、最も生命と遠い場所にありながら、むせ返るほどに強く薫った。  二度とここには来ない。  誓いを立てつつ、このひとときだけは、そばにありたかった。柔らかな土に両手を重ねて、自らのぬくもりがその底へと届くように、祈りを込めて目を閉じた。  秋の空は限りなく高く抜けて、どこまでも透明だった。失われた人の心のように、透き通って街並みを見下ろしていた。青空の天蓋は曇りなく、純粋な魂をあるがままに象徴していた。  ゆっくりと流れる時間。それを惜しむように、蓮章の脈動も速さを落とした。  蓮章を追い立てるものは、もはや何もなかった。自分から手を伸ばし、目指すもののために、先へ進むのみであった。追われるのではなく、追い続けること。それが蓮章の生き方だった。  目を閉じていた感覚の向こう側で、人の近づく音がした。それは完璧な世界の終焉を容赦なく告げた。 「もう、良いだろう」  後ろから掛けられた声が、現実を突きつけてきた。  蓮章は、黙って立ち上がった。手に残った土をじっと見つめ、そのまま手のひらを重ねて、胸に握った。 「感傷に浸っている時ではない」  背後の声がどこか冷たく、そう告げた。振り返る気も起きずに、蓮章は、ただ顔を伏せていた。  静かに心を押さえつける、かさついた慈圓の声が重ねて響いた。 「先ほど暁が知らせに来た。仙水がしばらく都にとどまるから、右近衛を任せると」  自分には関係のないことであるかのように、蓮章はぴくりとも反応しなかった。 「ちょうど良い。ことを進める頃合いだ」 「……どうして、こうなった……」  感情のない小さな声で、蓮章は呟いた。 「おまえがそうしたのだろう?」  慈圓の声はどこか苛立っていたが、それを睨みつけた蓮章の怒りの方が勝っていた。 「したくてしたわけじゃない!」 「言葉に気をつけろ」  慈圓は不愉快そうに顔を背けた。 「認めろ。すべては、あいつが決めたことだ」

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