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23 雲霞に誓えば(2)
「……何もかも、押し付けやがって……」
こらえきれない思いの端が、粗野な口調で吐き出された。慈圓はさらに顔をしかめたが、それ以上は言わなかった。
慈圓の陰から、小柄な体に重そうな装飾を纏った紀宗が、こちらを覗いた。
蓮章は露骨に不満の表情を浮かべた。直接害は無いものの、何かと規則しきたりにうるさい陰陽官は気に障った。
「そなたに尋ねたいことがある」
紀宗は聞き逃しそうなほど低い声で、上目遣いに見ながら、
「古い道を調べている。そなたは花街に詳しいと聞く。力を貸せ」
言い方の横暴さは権力者のそれと変わらなかった。事実、紀宗が握る権力は無視できるものではなかった。
慈圓が両者の間に入った。
「伯華様がこの街に手を入れるより前、宮中より水を引いて買い取っていたことを知っているな」
蓮章は黙っていた。古くから花街で生きてきた彼には、当時の記憶があった。
慈圓は続けた。
「その古い道について知りたい」
「今は使われていない地下水道だぞ。もう崩れているところも多いだろう」
「それが、そうでもないようなのだ」
話す気が無いのではないかと言うほど小さな声で紀宗が言った。
「最近、気がかりがあってな。玄草の話と重ねたところ、行き先のわからぬ出費があることが明らかになった」
「何の話だ?」
蓮章はため息まじりに首をかしげた。策士というものは、どうして回りくどい話し方ばかりするのかと、軽い疲労を覚えた。
「結論だけ言え」
慈圓がまた眉をひそめながら、
「かつて、伯華様がこの街の治水工事を行った際、雑費として使途不明の金が動いていた。当時は、私用の花代かと追及はしなかったが、あのご気性でそれはないと、今ならば断言できる」
「それがどうした?」
蓮章は前髪を鷲掴みにして、搔き上げた。いつしか移った癖だった。
「玲親王の考えることなど、俺たちには想像もつかない」
「その通りだ」
慈圓は神妙に頷いた。
「だが、そうまでして何かを成したというのならば、そこには間違いなく意味があるとは思わぬか?」
煩わしそうに、蓮章は目を背けた。
軍師・遜蓮章をして、読み切れない相手と言わしめた犀星の真意が、今の蓮章にわかるはずもなかった。
様子を伺っていた紀宗が、得心した顔で何度か頷いていた。
黄昏は、いつも世界をうっすらと悲しみに染めた。
東雨は無言で玄関の戸を開けた。
「一回りしたら戻る」
言い残して屋敷を出て行こうとする涼景の背を、東雨は胸を押さえて見つめた。音を飲み込む一呼吸の緊張を感じて、涼景は振り返った。
「どうした?」
東雨のまっすぐな目は、夕映えの中で美しく波だった。
「……涼景」
細く呼ぶ声に、涼景はぞくりとした。見つめ合う空間に、かすかな既視感が混ざった。
「……聞いたか?」
東雨の問いかけに、涼景はいぶかしんだ。
「何を?」
問い返す涼景には、何かを隠す動揺はなかった。少なくとも、東雨にはそう見えた。
「……噂」
真顔で、東雨は嘘をついた。
「最近、然韋様と陛下の仲が良くないって」
涼景は、ただ、黙っていた。それから、あきれたように長く息を吐いた。
「噂などあてにならないと、おまえは良く知っていいるだろう?」
その言葉は、東雨の胸の内側を引っ掻いた。
知っている、つもりだった。東雨は平気な顔で笑った。
「そうだよな。噂なんて、誰かの都合のいい作り話だ」
言いながら、声は笑えなかった。睨みつけるほどに涼景を見つめ、そのわずかな表情の変化も見逃すまいと、ありったけの注意力を払った。
ただならぬ東雨の雰囲気に、涼景はいぶかしむよりも、安心させるように笑みを見せた。その優しさに、東雨の仮面に浅くひびが走った。
「心配するな、と言っても、無駄なことはわかっている」
涼景は心地よい距離まで東雨に近づいて、
「約束する。おまえを、宮中の血なまぐさい陰謀などには巻き込まない。星のことも、解決策を見つけてやる。陽の身も守る。だから、おまえは明日の朝食のことだけ考えていろ。俺の分も、忘れるなよ」
気づかぬうちに、東雨は涙をこらえていた。それが、何の涙なのもわからぬままに。
今まで、何度も東雨を救ってきた、悪戯めいた笑みが光った。
それを見るたびに、東雨は時に腹を立て、時に心から安堵した。今は、そのどちらとも言えなかった。ひたすらに、ずっと見つめていたい思いだけは確かだった。
「……涼景」
あてもなく、東雨は呼んだ。経験から学んだ淡い期待に応えて、涼景はもう一歩近づくと、わずかに腰をかがめて、東雨と視線を合わせた。
「思い切り、怖がっていろ。強い振りをするより、楽になれる」
東雨は言葉に詰まった。
少し前の、何も知らない自分ならば、暁将軍が自分だけに見せる素顔に、有頂天になっていただろう。それができないことが、悲しくてならなかった。
何が表で何が裏なのか、東雨の心は複雑にねじれていた。
あの人は、涼景に何も言っていないんだ。
玲芳からの知らせだけではない。まだ、涼景は東雨が真実を知ったことを、聞かされてはいない。
こんなことって……
柔らかく目を細め、涼景は背を伸ばした。暁隊に声をかけながら、屋敷の周囲を見回りに出た涼景の後ろ姿を、東雨はじっと見送っていた。
誰もが皆、隠し事を身にまとう。
東雨はそれを受け入れられなかった。せめて、自分だけは正直であろうと誓った。
隠したくはない、告げねばならない、とそれが正義であるかのように自分に言い聞かせていたというにに、実際に涼景を前にすると、何も言えなかった。
涼景の悲しむ顔を見たくはなかった。救える力もない自分には、悲しみに落とすだけの勇気がなかった。
涼景には知らせない方が良い。
そう言った犀星は、ここまで見越していたのだろうか。
東雨に、それだけの覚悟がないことを知っていて、逃げ道を与えてくれたのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは遠のいた。
夜半に目が覚めて、わずかな喉の渇きを覚え、玲陽は無意識に犀星の体を探った。すぐそばに暖かな熱があった。ぐっすりと眠りの底に心を横たえ、あまりにも無防備に目を閉じて、犀星は体を自分に寄せていた。呼吸に合わせて胸が膨らみ、どくりどくりと心臓の鐘までが聞こえるほどに、夜は静かだった。
孤独な日々の果てに触れ合った指は、遠慮がちに絡み合い、固く結び合って、解かれることを恐れた。
共に積み重ねた記憶は、世界の形を変えて、二人にしか見えない景色を形作った。
訪れるあらゆる苦難に立ち向かい、乗り越えるたびに大きく、とどまるところをしずに膨張する。そうして磨かれた想いの結晶は、幸も不幸も糧として成長を続けながら、自由に姿を変えてきた。
日々のさりげない変化に繊細に蠢き、どんな形の器にも水が収まるように柔軟に、何色にも染まりながら、しかし決して濁らなかった。
犀星と玲陽の世界とは、生まれた瞬間から二人の間で唯一の光を放ちながら育てられたものだった。
二人で一つの世界を創る。
相手が見ているものが、自分と同じだと信じて疑わなかった。
今も未来も、そして思い出までもが変容していく悲しさに、玲陽は身の毛がよだった。
隣に眠る犀星の息は深かった。
再会してすぐの頃、玲陽を気遣ったせいか、または都でついた癖なのか、犀星は些細な異変ですぐに目覚め、ひどく眠りが浅かった。
それが最近では、底知れぬ水に沈んでいくように、あっという間に意識が薄れ、朝まで目を覚まさないことが多くなった。
玲陽は、犀星が目を閉じるのを見て眠りにつき、犀星よりも早く目覚めた。
それが不安でならなかった。
雨雲が通り過ぎ、風は静まって、十六夜の月が窓の隅に見えた。ほのかに照らされた犀星の顔を、玲陽は覗き込んだ。以前はこうするだけで気配に感づいて、犀星は目を開いた。だが、今は睫毛一本震えることすらない。
玲陽は腕をかけると、そっと犀星の頭を抱き寄せた。頬に口づけを落とせば、さらりとした肌を唇に感じた。そのまま頬をすり寄せて、体重を乗せて体を預けた。
それでも、犀星は静かだった。
触れてしまえば、一つに戻れる気がした。それは、玲陽にとって恐ろしい記憶とつながった。
肉体に刻まれた傷とともに、心もまた、深傷を忘れたわけではなかった。疼きは痛みであり、恐怖を蘇らせた。
だが、その傷を負うよりも遥か前、幼い頃に犀星に触れたときに知った懐かしさと、たまらなくなる胸の熱さは、今も玲陽を強く支えていた。
あの記憶があったから、十年の空白に耐えられた。この人がいるから私は生きていたいと思うのだ。
現実を遮るように、玲陽は固く瞼を閉じた。かすかな犀星の寝息が、玲陽の幸福と微量の寂寥を同時に誘った。
誰にも触れさせたくない。
犀星は、玲陽だけの命だった。息吹だった。
玲陽は耳元に口を寄せた。犀星に注ぐ月明かりにさえ、嫉妬した。
五亨庵の誰もいない景色が、つながりもなく、玲陽の脳裏をよぎった。
今頃、同じ月に照らされたあの庵の二つの几案の下で、互いに想いを込めて綴った小さな布の切れ端は、世界よりも重い二人の記憶を抱いて、静かにしているはずだった。
玲陽の熱い息が、喉の奥からこぼれた。
眠る犀星を抱きしめていても、失いそうで狂おしかった。少しずつ何かが確実に奪われていく感覚があった。
言葉では言い表せず、表してしまえば、絶望的に世界が壊れるようで、玲陽は黙ったまま犀星を抱き続けた。
決して変わらないと信じ、疑うことなど思いもしなかったもの、それを、疑わねばならなくなっていた。自分自身の思い過ごしか、それとも、本当に何かが起きているのか、それを確かめることすら恐ろしい。
だが、どれほど心が拒もうと、犀星の変容は、すでに明確過ぎた。それは東雨や涼景の様子が証明していた。犀星に最も近い二人が揃って異変に気づいている。犀星自身が何と答えようと、玲陽が何を望もうと、それは明らかに表面化している変化だった。
玲陽は犀星の襟に指先を差し入れて、肌に添って滑り込ませた。表情を伺いながら、少しずつ暖かな体を探っていく。柔らかい胸を手のひらいっぱいに包んでも、犀星は身じろぎ一つしなかった。
自分に気づいてくれない。
それが玲陽の悲しみを膨らませた。月の光はさらさらと部屋に流れ込み、ここ数日の雨で清められた夜の空気は既に秋の涼しさに変わっていた。
「もうすぐ一年です」
玲陽は囁いた。犀星の眠りは深いままだった。
玲陽の下で、犀星は安らかに寝息を立てていた。幸福なはずの寝姿。それを腕に収めても、玲陽の胸騒ぎは激しくなる一方だった。
最近、玲陽は恐ろしい夢を見なくなった。代わりに、優しく犀星に揺り起こされることもなくなった。どちらが幸せだったのか玲陽には決められなかった。
こうして熱を感じていると、自然と新月の夜が思い出された。
初めて、犀星の深くに触れた、あのぼんやりと優しく明るい一夜の出来事。
玲陽に全てを開いてくれた犀星の想いが、記憶の中であまりにも艶やかに輝いていた。
「あなたは私の、たったひとつの大切な花」
思うたびに暖かく、同時に悲しかった。咲き誇る花は、いつか確実に散りゆくのだ。その時が近づいていることを玲陽は意識し、本能的に遠くへと押しやった。
生きる事は死に向かって歩むこと。たとえ今、並んでいることができたとしても、いつかどちらかが欠ける日が訪れる。
その時、すべきことは一つだった。命の終わりに共にいようと誓った。その記憶は玲陽にとって何にも勝る強さの源だった。
こうして眠る犀星を見ると、夜毎に思う。朝の光が差し込む中で、優しい目覚めは本当に訪れるのだろうか。いつか必ず二度と目覚めぬ朝が来て、もう自分を見つめることは無くなってしまうのではないか。
そうなるならば……いっそのこと……
玲陽は体温を頼りにして犀星の頬を撫でた。眠りが浅かった頃、犀星はすぐに反応した。すんなりと目を開き、迷わず玲陽の手をとって引き寄せ、指に柔らかく口づけた。
だというのに、今はすっかり動かなくなった。
「疲れているだけですよね」
玲陽は最近の五亨庵の慌ただしさを思った。次から次へと心が休まる暇もなく、癒えるより前に、次の刃が襲いかかった。
奏鳴宮の悲劇、甥である皇子の死、その疑惑の目、多忙を極める亀池と辰巳の開発、きな臭くなる宮中の権力闘争の気配。
息をすることさえ、負担に感じられるほど心も体も限界を超えて、それでも犀星は先へ進もうと精一杯にもがいていた。
玲陽もまた、承親悌の名に恥じることない実力と存在感で、五亨庵の要として犀星を支え続けていた。
二人で一つの未来を目指して、立ち止まることなく歩き続けてきた。
「星……」
目覚めないだろうと思いながら、それでも玲陽はそっと呼んだ。媚びの響きを帯びた自分の声が、あまりに気恥ずかしかった。
気づいて欲しい。
玲陽の願いとは裏腹に、犀星は眠りにとらわれたまま脱力していた。
命あれども心なきが如くに。
玲陽は犀星の額に口付け、目を閉じた。
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