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24 迷い道に臆さず(1)
後宮に身を置けば、外で何が起きているのかようとして知り得なかった。世界がどう動いていようと、この香の匂いと、誰かをそしる囁きに満ちた、華やかで陰惨な宮殿には、何一つ伝わっては来なかった。唯一何かが届くとすれば、それは宝順が後宮を訪れる知らせのみである。
そろそろ、引き際だわ。
朝から晩まで妾や側室たちの話し相手をさせられているのは、彼女にとっては息を止めているも同然だった。ただでさえ蓄えの少ない作り笑いも、すでに底を尽いた。
あれこれと理由をつけて暇を作り、玲凛は刀の稽古に励んだ。
稽古と言っても、玲凛が満足するような長物があるわけもなく、また、立ち回れば、見咎められるに決まっていた。
玲凛は寿魔刀を手に、一人、こっそりと庭の隅に立った。わざと、雨にぬかるんだ足場の悪い泥の上を選ぶのは、実戦を想定してのことであった。
寿魔刀は、彼女が好む刀よりも重量が小さく、思うように動けなかった。苦肉の策として、玲凛は小さな灯篭から石を拝借すると、それを帯で刀身に括り付け、重心を整えて力強く振った。
小気味好く、風の裂ける音がした。
玲凛は、続けざまに思う存分、寿魔刀を振るった。一沙の構え、そこから変形させた彼女らしい太刀筋が、秋空を舞う木の葉をつむじ風のように吹き飛ばした。どのような場所にあっても、玲凛はどこまでも玲凛に違いなかった。
犀遠に仕込まれた剣術の根幹は、時が経つにつれて、すっかり玲凛の一部となり、独自の形へと進化を遂げていた。
玲凛はそこに一つ、虚飾を加えた。
寿魔刀を用いた、鎮魂の舞。
かつて、花街の辻舞台で即興で立ち回ったことが、恨めしく思い出された。あの時の、大太刀の手応えが懐かしかった。刀身を鞘に収める、キンと光る音。分厚い風を切り裂くあの爽快な響きが、玲凛の耳に蘇った。寿魔刀では、玲凛の望みを再現することはできなかった。それでも体の芯をぶれさせず、力を維持するには、日に長時間の稽古に励む必要があった。
犀遠をして天才と言わしめた玲凛だが、努力を惜しむことはなかった。もともと才ある者が鍛錬を重ねれば、抜きんでるのは必然であった。
無心で太刀を振るいながら、玲凛は力強く地を蹴り上げた。力の余りあった彼女の体は、見事に宙に浮いた。
何事かと、目ざとい女官たちが、遠巻きに小声を交わしながら様子を伺っていた。
玲凛ははためく衣装の裾で粗野に額を拭った。白地の着物に鹿の子のように泥が乱れ飛んでいたが、気にする性分ではない。それどころか、蹴立てた足元の乱れ具合を確かめ、自分の足運びを確かめていた。一分の隙も、許さない徹底ぶりだった。
玲凛は、誰より、女の体の不利を知っていた。やみくもに力に頼ることのできない玲凛にとって、些細な油断が命運を分けた。生きることへの並々ならぬ渇望は、玲凛の強さの所以であった。
物珍しそうにこちらに向けられた女たちの視線に、玲凛はとうに気づいていたが、すでに相手をするつもりはなかった。
ここしばらく、彼女は女官たちから話を聞き出そうと、時間の限り声をかけた。結果は散々だった。
どこの女官がどんな着物を作らせた、最近の流行の飾り石はこれこれこういうもので、その細工にはどの工匠がふさわしい、紅の色艶をよくするにはどこの商人の薬粉が良い、など、およそ興味のない話題を延々と聞かされることに、玲凛は辟易していた。
どうせなら、役に立つ話をして欲しいわ。
寿魔刀に結びつけていた石灯籠の頭を放り出すと、重たい音を立てて地面に沈み、足元が揺れた。縛っていた帯で刀身の泥を拭い、鞘に収めながら、玲凛は静かに息を整えた。
体の隅々に熱が行き渡り、柔軟な筋肉に血が通うのが感じられた。
秋風は湿って冷たかった。
視線を上へ向けると、鼠色の雲が畝のように空全体を覆い尽くしていた。
今夜あたり、また降りそうね。
まだ陽も高いはずだったが、すでに一日の終わりの気配さえ感じた。
「来てやったぞ」
暗雲と同じ剣呑さで、紀宗の声が玲凛を呼んだ。
泥だらけで背筋を伸ばしたまま、玲凛はくるりと振り返った。紀宗の瞼が少しだけ動いて、ひと勝負終えた兵士のような玲凛の惨状を一瞥した。
もう、何も言うまい。
紀宗はただ、変わらぬ調子で、
「そなたに頼まれた例の件、確かに事実であった」
玲凛の目がきらりと光った。
「花街は、やはり、檻だった?」
「そのようだな。少なくとも、そなたの言ったことに狂いはなかった」
玲凛は、拳を唇に押し当てて思案しながら、
「星兄様のことだから、何をしても驚かないつもりではいたけれど…… どこまでが策で、どこからが偶然なのか、私にもわからないわ」
「親王本人に確かめるがよかろう?」
「……そうね」
玲凛は呟きつつ、犀星にはすでにその記憶すらないだろうことを察していた。
五亨庵の石巡りは、犀星が犀星であった時間の全てを喰いつくしたことだろう。
犠牲より痛ましい崩壊。
その現実はすでに、玲陽にも隠し通せるものではなくなっているはずだ。
「ここを出る」
玲凛はきっぱりと言った。紀宗は不満に頬を引きつらせた。
「出て行くなら止めはせぬが、その前に恩くらい返したらどうだ?」
言いながらも、玲凛が洗いざらい語るほど容易い相手ではないことを、紀宗もすでに知っていた。玲凛にとっては、紀宗の好奇心など眼中にあるはずもなかった。
「最低限の礼は尽くすわよ」
その程度がどれほどかについて玲凛は明言を避け、紀宗もまた問いたださなかった。
玲凛は回廊に沿って歩き出した。
玲凛の背を、紀宗は不揃いな歩幅で追ってきた。さらにその後ろに、数名の女官の列が続いた。予測のできない玲凛の観察は、退屈に溺れた女官たちの格好の暇つぶしだった。
好奇心を抱えてついてくる傍観者には構わず、玲凛は歩き続けた。回廊を大きく外回りして梅香館から離れ、寂れた方へと黙々と進んだ。すでに後宮内を自由に探索することは、宇城の許しを得ていた。
宝順帝を救うため。その唯一絶対の目的のための許可だった。
正直なところ、皇帝の安否など、玲凛にとって重要事ではない。だが、宝順に関わる血の縁ならば、絶たずにおくことはできなかった。すでに、犀星も無関係では済まない状況にある。そして、犀星に関わるならば、それはすなわち、玲陽と直結した。
それに、と、玲凛は五亨庵の桜を思い出した。
いにしえより、この地を祟り続けている、始祖の怨念。
玲家につながる因縁など、根絶やしにしたい。
それは、幼少より胸深くに宿り続けた、玲凛自身の悲願でもあった。
今は、力の限りを尽くさねばならない。それも、可能な限り早く、である。
時が経てば経つほどに、玲凛が歌仙に戻っていないという真実が、玲陽に露見する恐れが高まっていく。事態が混迷を極める前に、素知らぬ顔で五亨庵に戻ることが肝要だった。
すでに、知りたい情報はあらかた出揃っていた。
これから何をするべきか、玲凛の思考は先へ先へと猛進した。
蕭白、玲心、宝順、夕泉、そして、犀星。
脈々と連なる因果の糸は彼らの生涯を織り直し、今なお、固く未来を縛り付けていた。その戒めを斬り裂くこと。その手段こそが、玲凛の求める最後の智であった。
玲凛の思いは、一歩ごとに深まっていった。頭の中では、後宮の地図が最後の一欠片を求めていた。その間隙を埋めるには、何をおいても確かめなくてはならないことがあった。
この数日、何度も激しい雨が風とともに紅蘭を襲った。そのたびに気温が下がり、季節は瞬く間に過ぎていく。
急がなくては、面倒ごとが増えるだけだわ。
他を圧倒する行動力と、慎重に物事を見抜く洞察。
玲凛の持つ類い稀なる才覚は、今、最後の一点を突破することへと注がれていた。
冬を待たずして成果を修め、兄の待つ都へ帰ること。そして、兄たちが心穏やかに居られるよう、後顧の憂いを全て絶つこと。
玲凛は手がかりを求めて、後宮のはずれへと臆することなく踏み込んだ。
ざわめきながら後を追っていた女官たちが、慌てた声をあげて足を止めた。
玲凛が近づく先には、玲心が囚われていた五角形の小さな庵が佇んでいた。
玲凛は崩れかけた扉の前に立った。
夕方近くの風が足元を吹き過ぎ、庵の中で渦を巻いた。傷んだ布が重ねられ、埃の匂いが足元から這い上がってきた。
玲凛はかがんで柱の基部を確かめた。埋め込まれている五つの石。どのような手段によったかは知れないが、それは明らかに五亨庵の石の欠片だった。
玲凛が片方だけ残った扉を手前に引いた。朽ちた木の戸はその力に耐えられず、ばらばらに砕けて足元に転がった。注意深く中を覗くと、天井から垂れ下がった布が静かにその擦り切れた端を揺らしていた。初めは美しかったであろう内装も、今は見る影もない。玲心がここでどんな目に遭っていたのか、何を思い続けていたのか、それが深く深く玲凛の心に刺さった。
辺りは、相変わらず透明で空気は澄んでいた。人がいるところには、必ず情の匂いが漂う。だが、ここはあまりにもまっさらだ。
紀宗はこの場所に玲心の御霊が宿っているのではないかと考えていた。だが、玲凛が見る限り、その痕跡はまるでなかった。
玲凛の見立てに、紀宗は肩透かしを食ったようであった。だが、玲凛は反対に、そのあまりに静謐な空気に不気味さを感じた。
玲心の思いが残っていないことが、不自然極まりない違和感だった。今、この瞬間もこの場所が何者かによって清められ続けている印象があった。そうでなければ、これほどに周囲とかけ離れた澄んだ気配を漂わせているわけがないと思われた。
ここには、必ず意味がある。
それは、本能がもたらす閃きだった。
玲凛は鞘ごと寿魔刀を腰から外すと、何を思ったか、柔らかく水を吸った地面に線を引き始めた。
荒々しく泥を削り、彼女にしかわからない線を刻み続ける背後から、足音もなく、紀宗が近づいてきた。いつから彼女を追っていたとも知れなかったが、その目はじっと、玲凛の描くものを見つめていた。
陰陽官として、紀宗の頭には膨大な知識が詰め込まれていた。だが、それをもってしても、玲凛のしていることは理解しがたかった。
紀宗はまず、呪術の一端なのではないか、と疑った。
よりによって、玲心の庵の前である。
何かの術か、結界か、罠か、呪いか。
だが、実のところ、どれも正解ではなかった。
「やっぱり、そういうことだったのか」
玲凛はやがて手を止めると、苦々しく息を吐き捨てた。雨上がりの泥で汚れた寿魔刀の鞘は、家宝の威厳を失った棒切れと化していた。
少し後ろで、難しい顔をした紀宗は、手を袖に入れて考え込んでいた。
玲家の連中のすることは、理解できん。
皇家よりはるかに長く深い歴史を持つ玲一族を理解することは、徒労に過ぎなかった。
「して、何がわかったのだ?」
紀宗は足元の複雑な線を見下ろして言った。玲凛は、泥の滴る寿魔刀で、一箇所を突いた。
「ここが、入り口。そして、こっちが、あの部屋」
玲凛が地面に再現したのは、石の部屋への道順らしかった。
「まず、この線が一度目に通った道」
紀宗は入り組んで左右に折れ曲がり、湾曲した線を目で追った。
「そなた、記憶していたのか?」
「まぁね」
また、常人離れしたことを。
紀宗の呆れは一層募った。玲家が特殊なのか、玲凛が特殊なのか、その両方か。
何にせよ、この娘が未知数であり、理解不能であることだけは確かだった。
「それで、この道が如何したというのだ?」
紀宗は感情を捨てた顔色で言った。
玲凛は、もう一方の線を示して見せた。
「こっちが二回目に通った道」
紀宗は二つの線を見比べた。
そしてため息をついた。
「これがなんであるのか。同じ入り口から入って同じ目的地へとつながる。それだけではないか」
「確かに、結果は同じ。でも、途中の道は違っている」
玲凛は言った。
「どうして違う道を通ったのか」
「宇城様の気分ではないのか?」
「それなら問題ないんだけど」
玲凛は本当に憂鬱そうに言った。
そして、これ以上は紀宗に伝える必要は無いと判断した。
宇城は、自分の足が宝順によって導かれていると言った。
新月のたびに、あの部屋への道が変わるのだと信じていた。
しかし、玲凛の考えは違っていた。
宇城の言葉は半分が正解で、半分が思い込みだ。
宇城が宝順に操られているのは、間違い無かった。だが、それは単なる目眩しではない。もっと別の思惑が潜んでいると、玲凛は確信していた。
どちらも、右へ左へと角を曲がった。時にはぐるりと弧を描いた。
複雑に張り巡らされた通路は、方向感覚を奪う。宇城は確かに違う道を歩かされていたが、それは道そのものが形を変えているという夢物語などではなく、無駄な遠回りに過ぎなかった。
「これ……石巡りと同じなんじゃ……」
玲凛の目が、途端に輝いた。
「紀宗、あんた、あの通路の全体像を知っている?」
「……知るわけがなかろう」
紀宗は決まり悪そうに眉間をせばめた。
「あのあたりは古くから改築がなされ、全容を知るものなどおらぬし、暴こうとする者もなかった」
「あの通路を作ったのは誰?」
「……ひとりではない」
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