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24 迷い道に臆さず(2)

 紀宗は力なく、 「何代もかけてしだいと広げられてきた。どこを誰がどうしたなど、記録もないわ」 「何代、って皇帝が作らせたの?」 「いかにも。あのあたりは、歴代の皇帝が……」  言いかけて、ふと、紀宗は黙った。数瞬ためらって、 「……いや、令を発したのは、多くが即位前のことであったと……」 「即位前?」 「確かなことはわからぬ。所詮、噂にすぎぬ」 「それ、根も葉もない噂じゃないわ」  玲凛はじっと、地面を見つめながら、 「宮中の噂ってのは、大抵、誰かの得になるものよ。でも、今の話は誰ともつながらない。単なる事実である可能性が高い」 「それが事実だとして、何のために道を作らせる必要があった?」 「公式の記録には残せないほどの理由のため」  玲凛は瞬きも忘れていた。 紀宗は、唸って口を歪めた。 「だとしたら、これは当代だけの話では済まなくなる。もっと根深い」  紀宗の言葉に、珍しく玲凛は頷いた。  闇の中に張り巡らされた道。  ふた通りしかわからないものの、空白の部分にはさらに複雑な通路があるに違いなかった。  何を目的として作られたのか。  新月の夜に宇城を歩ませたわけが何なのか。  その道順が、毎回異なったのは何故か。 「……あっ……」  玲凛の背中に、ぞくっと冷たさが走った。  玲凛は泥の中に書いた地図をじっと見つめた。  道を歩いて見えるものもあれば、俯瞰して気づくこともあった。  その真剣な眼差しは、敵の布陣を分析する軍師にも似ていた。  土に刻んだ溝を睨みつけていた玲凛の指先が、無意識に震えた。  自身の直感に導かれるように、玲凛は滑る土に書き足し始めた。  玲家の宝刀が泥にまみれていく様子から、紀宗は目が離せなかった。  石の部屋へ続く通路に重ねて、寿魔刀は後宮の地図を描き出した。  ふた月、玲凛が調べ続け、頭に描いてきた全体像が、土の上に現れた。  紀宗より離れて伺っていた、女官たちが背伸びをして覗いていた。  後宮の形はいびつだった。天輝殿の後殿から一続きになり、増築が重ねられた通路は絡み合い、不規則な造形を成していた。そのところどころに大きな建物や使い道の知れない部屋が作られ、通る者を惑わせた。随所に空き地も生まれ、無駄とも思われる空間も設けられていた。  いかに広大とは言え、三千人を抱える場所である。決して土地を余らせて得があるとも思われなかった。単純に規模を拡大するだけならば、入り組んだ形にする必要はなかった。  それでもなお、このような配置にしたことには、明らかな意図が感じられた。  無意味に見えて、無秩序ではなかった。  すべてを描き終え、玲凛は数歩下がって、離れた位置から全体を見回した。後宮の配置が、泥と水たまりの上に刻まれていた。  玲凛はその結果を睨みつけ、思い切り眉をしかめた。  玲凛の予測できない行動力に閉口していた紀宗は、完成した泥の地図に、思わず目を見張った。  後宮の回廊と、先に書いた石室への道が、完全に一致していた。 「どういうことだ?」  怯えた声で、紀宗は呟いた。 「わからない」  玲凛は首を振った。 「でも、宇城様が歩かされていたのは、ただの無駄じゃなかった。その道順には、意味があった。おそらく、迅って人が伝えたかったのは、これだった」  紀宗は別の緊張に顔をこわばらせた。 「そなた、その名は……」 「宇城様から聞いた。宝順の本名だって」 「……この道順にいかなる意味がある?」 「わからない」  玲凛は言い、それから、 「これ、似てると思わない?」  振り向きもせずに低く続けた。  紀宗は即答を避けて、並んで地図を眺め回した。  問いかけはしたものの、玲凛は既に確信していた。 「前に、陽兄様に見せてもらった、宮中の地図にそっくりだ」 「気のせいであろう」  紀宗は心にもないことを言った。陰陽を司り、宮中の方位や建物の高さ、門構えから庭に植える樹木まで熟知している紀宗から見ても、それは間違いなく宮中だった。  後宮が、宮中を模倣しているという事実は、紀宗の予測を裏切ると同時に、格好の好奇心の的となった。  後宮と天輝殿との境が、ちょうど朱雀門に当たった。  瑞祺堂は天輝殿中央の位置にあり、宇城の居室は奏鳴宮と重なった。  産屋は聚楽楼のあたりに密集し、東西南北が対称を成すように建てられていた。右近衛と左近衛には、階位の高い側室の屋敷が配置され、演舞場は空白の広場に当てはまった。平生から女官たちが使用している建物は、官吏の屋敷と同じ向きに門が揃えられていた。  紀宗が認めざるをえないほど、それは宮中そのものだった。 「宇城様が辿った道順…… それが伝えていたのは、おそらく、後宮ではなく、宮中」  玲凛は首筋がざわつくのを堪えながら、慎重に言葉を選んだ。 「一度目の道。天輝殿から朱雀門、そこから戻って五亨庵、西へ言って奏鳴宮、また五亨庵、朱雀門、その先はまっすぐにあの部屋へ」  寿魔刀の鞘の先端が、わずかに震えながら地図の上を辿った。  ごくりと、紀宗の喉が音を立てた。 「では、二度目は?」  玲凛は再び、入り口に鞘の先を戻した。 「天輝殿を出て、朱雀門、五亨庵、右衛房、五亨庵を避けて東を回って天輝殿、そして右衛房に回って、そこからまっすぐ朱雀門……その先は一回目と同じ」 「……何ゆえ、かような符合が……」  紀宗は己の知識の全てを結集させて、玲凛の推論の確証を探した。 「月に一度……道が変わる……」  玲凛もまた、口の中で繰り返し短く呟きながら、記憶の全てをさらうように考え続けた。  いつの間にか、女官たちがすぐそばで一緒に地図を眺めていた。長く後宮に閉じこもっている彼女たちには、宮中の地理はわからなかった。だが、住み慣れた後宮のことであれば、玲凛や紀宗よりもよく知っていた。 「慈光の道だわ」  年若い女官が、首を傾げた。玲凛は振り返った。 「何、それ?」 「ここです」  別の女官が、地図の道を指した。朱雀門から北へと伸びた道だった。 「この回廊を歩くと、不思議と体の不調が和らぐんです。ですから、厄落としになると言われています」  一瞬、玲凛の表情に不審が走った。 「ただの偶然……」  言いかけて、玲凛は続きを飲み込んだ。 「ほかに、気づいたことはない?」  女官たちは顔を見合わせた。同じ女が、また地図を指差した。 「西側のこのあたりに、側室様のお部屋があるのですが」  女は奏鳴宮と重なる位置を示して、 「月事のたびに苦しまれていたのですが、少し前から急に楽になられたとのことでした」 「少し前って?」 「確か、夏の頃です」  力強く、女は頷いた。 「酷く暑い最中でしたのに、ご気分が良いと話されていたので、覚えています」 「その、何とかの道の話、いつ頃からだ?」  紀宗が割って入った。女たちはまた目配せし、それから明らかに|束役《たばねやく》と見える女が進み出た。  食い入るように自分を見つめる紀宗と玲凛に狼狽えながら、女は控えめに口を開いた。 「慈光の道の噂が立ったのは、ちょうど十年ほど前だったと思います。当時は、歌仙様をお迎えした時期でしたので、御徳をいただいたのだろうと申しておりました」  期せずして、玲凛と紀宗は互いの顔を見た。 「宇城様が新月の夜に出かけるようになったのはいつから?」  今度は、玲凛が一歩、詰め寄った。その気迫に驚いて、女は目を丸くしながら、 「宇城様付きになったことはなく、詳しくは存じ上げませんが…… 鹿紗王殿下がご存命の時から伝え聞いたことがございますので、もう、随分長いかと……」  紀宗は唸り、玲凛は五角の伊織を仰ぎ見た。 「ここが清廉過ぎるのは、そういうことか!」  玲凛は再び女たちに向き直った。 「ありがとう、いい話を聞かせてもらったわ」  ほっとして、女たちは笑い合った。  紀宗は地図の端に目を向けた。玲凛は唐突に、寿魔刀を土に突き刺した。はねた泥が地図の外にまで飛んだ。玲心の五角形の庵に対比されるのは、紛れもなく、五亨庵であった。  目の前に、自らが描き出した小さな宮中。長い年月を経て、数多の手と思惑により、後宮は表の世界と共に成長を遂げてきたのだ。  ここまで合致すれば、呪術とのつながりを信じるより他になかった。  玲凛は西を顧みた。  宮中であれば、祇王桜の場所である。 「あそこに、何があるのか」  庵の周囲は林で囲まれており、玲凛もそこへ深く分け入ったことはなかった。  好奇心が玲凛を突き動かし、彼女は素早く踵を返した。背後で紀宗が制止を叫んだが、そんな言葉を聞く玲凛ではなかった。  また騒ぎ出した女官たちに溜息をつき、紀宗は空を見上げた。雨が降りそうな気配があった。  玲凛は意を決して、背後の林の中へ入った。  鬱蒼としたそこは、近づく者を拒むように、下草が深く足に絡みついた。  木立は深く低く垂れて日の光を遮り、肌に触れる空気がぐっと温度を下げた。  林の中はまるで、閉ざされた部屋と同じだった。立ち並ぶ木の柱と、茂る藪と蔦が、世界からそこだけを切り取っていた。  風も音も吹き抜けるのに、空間は明らかに区切られ、後宮の中にありながら別の世界そのものだった。  それは、ひとつの結界とも言えた。  玲凛は慣れた足取りで、草に阻まれることなく数歩、奥へ進んだ。その距離は僅かだったが、確かに何かの境界を越えた感触があった。  紀宗たちは林の手前で立ち止まり、それ以上踏み込むことはなかった。  ただ薄暗い中の、玲凛の背中だけを見つめていた。  何が起きているか知りたい。  紀宗の胸に好奇心は宿り続けていたが、自分にはどうしても超えられぬものであるとも理解していた。  玲凛が立つその場所は、宮中の地図に重ねれば、あの人食い桜の根元だった。  玲凛は静かにあたりを見回した。土と草の匂いが、湿った足元から立ち上っていた。深く沈む柔らかな地面は、生き物の体を踏むような感触がした。  するりと硬い茎が、枯れてくすんだ草の間から、幾本か、伸びていた。  秋の終わりの景色とは対照的な、若々しい曼珠沙華の花が、じっと彼女を見上げていた。 「桜と曼珠沙華か」  思わず皮肉っぽく玲凛は呟いた。  これが符合だと言うのなら、この花を摘み取ってしまえばいい。  玲凛は雨垂れのように広がる曼珠沙華の赤い|蕊《しべ》をそっと指先でつまんだ。  引きちぎれば血飛沫が上がるのではないかというほど、花の手触りには明らかに脈が通っていた。  日頃から怖いもの知らずな玲凛ですら、摘み取ることを思わず躊躇した。  しばらくの間、花の生殺与奪を握ったまま、彼女は立ち尽くした。  時間が止まった玲凛の視界に、突如、暗い影が落ちてきた。 「やっと、出てきたわね」  敵でも見るように、玲凛は正面に顔をあげ、睨みつけた。  彼女の前にはいつか桜の下で見た、男の姿があった。  深緋の上衣に黒の裳に似た着物をまとい、どちらにも炎を模した紋が細い金糸であしらわれていた。黒髪が長く背に流れて、背の上でゆるく束ねられ、玉飾りのついた紐が腰の下まで垂れていた。直線的な立ち姿は桜の幹を思わせ、額の炎の刻印は、玲凛のものと酷似していた。  三百年以上の時を経てもなお、玲家の血筋に受け継がれる、荒々しくも神聖な雰囲気が、玲凛と男とを分かちがたく結び付けていた。 「祇桜」  玲凛は覚悟を決めてその名を呼んだ。事情を知る紀宗が身を乗り出す気配があったが、今はそれどころではなかった。  玲家の先祖に当たる、仙女と交わったとされる人間の男。  霊魂となってなお、歌仙から遠く離れたこの地で、時の摂理に反してその存在を保ち続けていることの脅威。  紀宗によれば、祇桜の存在が玲の血を呼ぶという。それは玲凛にとって、看過できない内容であった。  木の枝からすだれのように下がる蔦と、棘のある茂みが、祇桜の周りを取り囲んでいた。それは彼を捕らえているようでもあり、守っているようでもあった。  閉塞感が、突如として玲凛の胸に押し寄せてきた。それは、泉の底に体が沈められていく感覚に似ていた。玲凛はわずかに肩を落としたが、それは敗北ではなかった。動きを妨げる過度の緊張を解き、玲凛らしい、しなやかな戦闘態勢へ移行する一つの段階だった。  傍若無人で通っている玲凛も、本当に避けるべき危険は承知していた。本当に勇ある者は、危険を冒すものではなく、危険を察知しうるものである。  祇桜はまさに、玲凛が避けるべき存在だった。しかし、同時に避けては通れない敵でもあった。  真逆の条件に挟まれて、玲凛はほんの少しだけ慎重になった。だが、結果として、立ち去ろうとはしなかった。  背後から指先で肩を掴まれる感触に、ぞくりと背が震えた。  祇桜は目の前にいるというのに、玲凛の全身にあらゆる角度から自由に触れることができるのだった。  実体を持たない情念とは、そのようなものだった。  玲凛には、特別な力はない。  ただ、そこにあるものを見る、それだけである。意志を振りしぼったところで、玲陽のように浄化することはできなかった。犀星のように能動的な会話を持つことも、声を聞くことも叶わなかった。

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