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24 迷い道に臆さず(3)
ただ、そこにいるということを知るだけの力。それ以上は何も望めぬ、傍観者であることに徹するだけの存在。それが、玲家が玲凛を不要と断じた理由だった。
それでも玲凛は、胸を張り、顔を上げ、堂々と現実と対峙した。
振り返らないという選択が、玲凛を玲凛たらしめていた。
「いつまで、ここにとどまるつもり?」
凜と響く声に、臆する気配は微塵もなかった。
これは、戦いだ。
玲凛は泥だらけの寿魔刀の鞘を投げ捨てた。片足を引いて、両手でしっかりと柄を握ると、年月を経た玲家の宝刀は、その力に軋みを立てた。
「あんたが誰であろうと、斬ると決めている」
言葉どおり、玲凛はさらに体勢を整えた。
「伯母上も、母上も、星兄様も、陽兄様も……そして私も、あんたのせいで運命を曲げられた。その怒りは確かにある」
祇桜の視線は、じっと玲凛の足元に向いていた。はるかな時にへだてられた、血の因縁。見ず知らずの男の顔が、玲凛には決して遠い存在ではなかった。
「桜の木に宿っているだけの傀儡ならば、ここに現れるはずはない」
玲凛は返答を期待せず、静かに告げた。
「あんたは、すべての摂理を破壊している」
祇桜は、玲凛の知るあらゆる枠に当てはまらなかった。人でもなく、傀儡でもない、特異な存在。ここにあることさえ許されない、いびつな塊。
「終わりにしよう。私はそのためにここへ来た」
玲凛の目がわずかに開き、喉がコクリと動いた。
祇桜は何も答えず、呼吸すら止まっているように、ただ、そこにあった。
玲凛の目に、祇桜の足元が土深くに埋もれているのが見えた。
足首から下は、土の下だった。それがどこへ通じているのか、玲凛は瞬時に悟った。
五亨庵と人食い桜。玲心の庵と足元の曼珠沙華。
天へ昇る道は、あってはならない世界の歪み。
風もないのに、曼殊沙華がさやりと揺れた。
玲凛の頭の中で目まぐるしく想像が閃いた。
「残念だけど」
玲凛は声を低くした。
「私は、兄様たちみたいに優しくないのよ」
玲凛は一歩動いて、曼殊沙華を茎から踏み折った。一瞬、祇桜の影が水面のように波立った。
「あんたは長く、生きすぎた。あんたの命の代償は、もう、誰にも負わせはしない」
玲凛は最後の間合いを詰めた。
名もなき情念の傀儡を斬っただけで、玲凛の力は大量に消費され、時には身動きも辛くなる。もし、玲家の始祖を斬ったらどうなるか。それは玲凛にもわからないことだった。
それでも、己の意志で戦うこと。玲凛の魂には、その覚悟が深く根付いていた。それは、桜の根よりもはるかに深く、強固に心臓を鷲掴んでいた。
ほんのわずか、祇桜の目が玲凛を見た。
瞬きする間ほどの、刹那の思いの交換は、祇桜の記憶の全てを、走馬灯のように玲凛へ注ぎ込んだ。
身震いを一つして、玲凛は寿魔刀を振り下ろした。
「あんたがいる限り、全ての呪いは終わらない。そういうことなんでしょう。玲凛は物言わぬ影に問いかけた。あんたがどうしてこの都に来たのか知らない。あの桜に宿ったのも、偶然だったのかもしれない。でも、今、あんたは確かに五亨庵と繋がっていて、この場所と繋がっている。かつて叔母上が何かを残したのだとしても、それもまたあんたの差し金だったんじゃないの。あんたの狙いは一体、何? どこまでも
玲凛がこの場所を選ぶのには、一目につきにくいこと、それが第一だったが、もう一つ、やはり五亨庵が気になった。玲心がかつてここでどのような術をかけたのか、その心がわかる。そして、それが今なおどのような影響を与え続けているのか、玲凛にはその全てを知りたい欲があった。
周囲に人気がないことを確かめて、
凍える雨が降り始めた。
玲陽は庭に面した寝室の隅で犀星の隣に座ると、優しく肩を抱き寄せた。湿った空気は一層、犀星の暖かさを恋しくさせた。
雨に曇る庭。
大粒の雫が黒々とした大根の葉に落ち、音を立てて跳ねていた。庭に掘られた排水溝に沿って枯葉が数枚、流されていった。東雨が傘を手に、溝の詰まりを気にして何度も庭を往復していた。
少し先の回廊で、涼景がそれを目で追っていた。いつも、犀星が丁寧に世話をしていた畑が目に入った。ここに犀星を住まわせて十年が過ぎ、初めて涼景はその畑を愛しいと思った。
不意に一つ、犀星が苦しげな息を吐いた。玲陽は肩掛けを胸元で合わせてやると、うなじに顔を寄せた。
「冷えてきました。今日は早く休んだ方がいいです」
ほんのわずかに、犀星は玲陽と繋いだ手に力を込めた。
「無理をなさらず」
蒼い目が、伏せるように玲陽を映した。視線に気づきながら、玲陽は見返すことができなかった。
犀星の中に、どれほど自分が残っているのか、澄み切った目が鋭く突きつけてくるようだった。
「陽」
音のない呼び声に、玲陽は胸の高鳴りを殺した。耳の奥を、雨とは違うものが流れていく音がした。
「星……」
喉の奥で、玲陽は答え、息の乱れを抑えた。
人前で玲陽が犀星を名で呼ぶ事は無かった。だが、そんな遠慮も、もう、意味をなさないようで、玲陽は込み上げてくる涙を堪えた。
その様子にも犀星は反応を示さなかった。嬉しそうに玲陽だけを見ていた。心地良さそうに顔を擦り寄せて、小さく鼻を鳴らしただけだった。その仕草は、まっさらな子犬のようであった。
玲陽は、甘えられるままに犀星を抱き、東雨さえ呆れるほどに抱きしめ、撫で回した。それから、抱えるように腕を絡めて、手のひらを額に当てた。犀星は静かに目を閉じ、されるに任せていた。
「星、熱がありそうですよ」
さらりと玲陽が嘘をついた。犀星は優しく微笑んだ。
「雨も上がりそうにないですし、明日の辰巳荘の視察は延期したほうがよさそうですね」
玲陽の声は、溝をつついていた東雨にも聞こえた。
明日、そのような予定は入っていない。
東雨は手を止め、息を呑んだ。涼景もまた、険しい顔を犀星へ向けた。
犀星だけが全てを受け入れ、こくりと頷いた。
玲陽は額に当てた手を滑らせ、犀星の目を閉じた。
「雪が降る前に、亀池にも行かなければ。この雨では、近いうちに貯水量が……」
話の途中で、玲陽の頬に涙が流れた。
東雨はびくりと肩を揺らし、犀星たちに背を向けた。確かに、怖さがあった。傘を叩く雨音が心音のようにうるさかった。
涼景は思わず身を乗り出したが、すぐに姿勢を戻した。
涼景は、五日の間、犀星を屋敷から出していなかった。
奏鳴宮へ通わなくなって、犀星の心は忘却に逆行することがなくなった。口数の少ない、かつての犀星のようでいて、決して取り戻すことのできない空白に包まれていた。
どこまで、おまえなんだ?
涼景はわずかに表情をくもらせた。
雨はさらに強く、激しくなった。
玲陽の肩が小刻みに震えても、犀星は黙ったまま、じっとしていた。
東雨には、何もできなかった。助けを求めるように、涼景を探すと、見たことのない苦しげな表情がそこに浮かんでいた。
つながっていた心と心が、犀星というひとつの要を失って役割をなくし、ばらばらに地に落ちていた。
堪えきれず、東雨は厨房へ逃げ込んだ。
息をするのも辛かった。傘を手放さなかったはずなのに、全身がぐっしょりと濡れていた。
「東雨……」
低い声が、背中を撫でた。
東雨は肩越しに振り返った。
涼景が掲げた小さな手持ちの油灯の光が、厨房の薄暗がりの中に影を揺らめかせた。
「俺たちの事はわかっているようだな」
「当たり前だ!」
東雨の目に大粒の涙が浮かんで、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
涼景はそっと目をそらした。同じように泣いていた犀星が懐かしかった。今の犀星は涙どころか、無表情すら見せない。ただの透明な素顔が痛かった。
「俺のせいだ」
しゃくりあげて、東雨が言った。
「全部、俺が悪い」
「逃げるな」
涼景の声が、崩れた東雨を救い取るように支えた。
「自分に全ての非を背負わせるのは容易い。だが、それは傲慢だ」
「……おまえに、言われたくない!」
東雨は叫んだ。涼景の呼吸が短く乱れて、やがて長く息を吐いた。
「……その通りだな」
東雨は垂れ落ちる足元の雫を数えながら、震える足で立っていた。まとわりつく濡れた着物の感触が、一瞬、辰巳荘の温かな湯けむりを彷彿とさせた。
「あの頃に、戻りたい」
涼景は、重たい視線を上げて、東雨の泣き顔を見つめた。
守ると誓った。
誰も救えない無力感が、ずしりと涼景の肩をにのしかかった。それでも、倒れずに居られるのは、目の前の涙のせいだった。
「どうしたら、いい?」
東雨は涼景の顔を見られなかった。遠くで、雷鳴が聞こえた気がした。
「俺は、どうするべきだと思う?」
心が折れかけていた。奮い立たせて戦わねばならないとわかっていても、心寄せる犀星との未来すら、霞のように雨に散らされてしまった東雨には、何を支えにすべきかも見えなくなっていた。
涼景は拳を握りしめた。
抱きしめることで東雨を安心させられるのは、犀星だけだった。涼景は所詮、東雨の最愛にはなれないと割り切っていた。
そうであっても、守る者として、そばにいるつもりだった。だが、その自信と誇りすら、もう、無残に砕かれて口にすることはできなかった。
あの頃に、戻りたい、か。
東雨の声が、何度も耳に蘇った。
「おまえがするべきことは、おまえが決めろよ」
どこか優しく、ひやりと冷たい涼景の声が、静かに言った。
「覚えているか? 星がよく言っていた。自分で見て、聞いて、感じたことだけが真実だ、と」
「覚えてる。忘れるわけない」
東雨は奥歯を噛み締めた。その意地らしさに、涼景はまた、背中を支えられている思いがした。
「それなら、自分で考えろ。おまえが決めたことなら、俺はそれが何であろうと……」
それ以上言葉にできず、涼景は黙り込んだ。
雨の音に風が混じった。
外はすっかり暗く、すでに日が落ちて夜へと変わっていた。雨雲の空に月の光などなく、ましてや星の輝きはなおのこと遠かった。
冷え切った東雨の全身が震え始めていた。
東雨は無言のまま、帯を解いた。しみ込んだ雨が絞られて、さらに床を濡らした。着物を全て脱ぐと、最後に一枚残った肌襦袢も取り去った。
いつもは手ぬぐいを干す衣桁に着物をかけ、竃の近くに置いた。夕食のために火を使った余熱が、まだ残っていた。
細く淡い後ろ姿を、涼景は奇妙な思いで見つめていた。
東雨の裸体など、もう、飽きるほどに見ていた。だが、見るたびに涼景に湧き上がる感情は変化していた。
今は明らかに、手を伸ばしたい衝動があった。
治療のためではない。庇護するためでもない。
触れ、掴み、感じる、原始の感情ゆえに、体が動きそうになった。
「涼景」
名を呼ばれて、涼景は鋭く悲鳴のように息を鳴らした。
「俺、自分で決めるよ。だから、涼景も好きにしていい。自分で、決めていい」
東雨はようやく、涼景の顔を見上げた。その表情に、涼景は体がカッと熱くなった。
東雨は、穏やかに泣きながら、笑っていた。
「俺、天輝殿へ行く。もう、若様をお助けするには、それしかないと思う」
「宝順に、嘆願するつもりか?」
涼景は、燃える体に反して、落ち着いた声色で言った。
「危険すぎる。第一、宝順がおまえをどう扱うか……頼みを聞くどころが、無事で戻れるかどうかもわからないんだぞ」
「大丈夫だよ」
東雨は、自分に言い聞かせるように、
「大丈夫、なんだ。多分」
「なぜ、言い切れる?」
涼景は明らかに焦りを見せた。
「あの冬に、おまえは殺されかけたんだぞ」
「でも、殺さなかった」
東雨は落ち着いて続けた。
「とどめをささなかった。俺を殺したのは、若様の方だ」
肉体的に抹殺する機会を得ながら、宝順は東雨を逃した。犀星は東雨という記号から解放し、祥雲という希望を与えてくれた。
「……だが、危険だ」
涼景は当然のごとく食い下がったが、東雨は毅然として向き合った。
「宝順が俺を殺すなんて、簡単だ。なのに、今までそれをしない。しないのではなくて、できないんだ。おまえなら、その理由、わかるんだろ?」
涼景の目が東雨と重なった。
あの時と同じだ。
剥き出しの、涼景という生身の男がいるだけ。
その無防備な瞳を向けられることへの、誇らしい高揚感。
東雨は自然と微笑んでいた。
「おまえが、止めてくれて、安心した」
本心から、東雨は言った。
「知らないのは、俺だけじゃなかったんだな」
「……東雨、それ、どういう意味……?」
「いいんだ、それで」
東雨は、涼景の間合いにすっぽりと入って、立ち止まった。
「知らないことも、知ることも、辛い」
東雨のため息が涼景の油灯の火を揺らした。
「でも、忘れてしまうのは、きっと、それより悲しいはずだから」
触れ合うほど近くすれ違って、東雨は涼景を超えて回廊へ抜けた。
「今夜は眠る。明日、連れていって」
「東雨!」
悲鳴じみた涼景の呼び声にも、東雨は立ち止まらなかった。
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