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25 水(1)
新月之夜、星誕之暗。
紅陽之色、暁空之彩。
白昼之凛、万物之廻。
一祥之光、是一生之光也。
つん裂く叫び声が、未明、東雨の耳を突き通した。
東雨は反射的に飛び起きると、犀星と玲陽の寝室に駆け込んだ。稲光りが異様に長く室内を照らし出し、真昼の月の色に世界を染め上げた。
目の前の光景に、東雨は全身が凍りついた。数瞬、犀星と目が合った。やけに輝いていたが、美しさよりも恐怖が勝った。
犀星の足元には、跪く玲陽の姿があった。何が起きているのか察するには、あまりに短い時間だった。
「若様!」
東雨が駆け寄るのと、犀星が庭に飛び降りるのは同時だった。
後に残されたのは、うめき声を必死に堪える玲陽と、暁隊に命令を飛ばす涼景の怒声、轟く雷鳴と激しい雨音だった。
呆然と立ち尽くした東雨を、玲陽の苦しい声が引き戻した。
「……陽様!」
東雨は雷雲の光を頼りに、恐る恐る玲陽のそばに膝をついた。乱れた呼吸は聞くだけで体がよじれる痛さを帯びていた。
「お怪我を……!」
東雨は玲陽の上体を抱え上げた。背中に腕が触れた。玲陽の絶叫に驚いて、東雨はとっさに手を離した。玲陽は東雨の膝に崩れ落ち、のけぞるように身悶えした。
暖かい滑りが東雨の指に絡みついていた。鮮烈な血の匂いが漂い、生々しい感触とつながった。
稲妻が走り、東雨は一瞬の明滅の中で目を見張った。
玲陽の背中の火傷が破れ、鼓動に合わせて血を吹いていた。
「涼景っ!」
東雨は迷わずその名を叫んだ。ぬかるんだ庭を横切って、靴のまま、大きな影が部屋に駆け上がった。
「東雨! 何があった!」
東雨は玲陽の傷口に自分の袖を押し付けながら、激しく首を振った。
「わからない! 陽様が怪我をして、いきなり、若様がいなくなって……!」
「落ち着け。星ならば、塀を越えたのが見えた。旦次が追っている。ただ事じゃない。侵入者か?」
「わからないよ!」
東雨は怒鳴った。
「でも、絶対におかしい!」
東雨はすでに涙声だった。
「若様なら、敵を追うより、こんな陽様をひとりになんてしない……」
少なくとも、かつての犀星ならば。
涼景もまた同じことを思ったのだろうか、顔を歪めた。
玲陽の惨状が、平穏の崩壊を容赦なく突きつけていた。
涼景は、東雨から玲陽の体を預かると、傷を確かめながら、
「東雨、暁隊に安珠様を呼びに行かせろ。おまえは湯を沸かして、布を用意しろ」
「……若様は?」
「俺が追う。加勢が必要かもしれない」
立ち上がりかけた涼景にすがりついて、東雨は引き止めた。自分でも驚くほどに素直に体が動いた。
「ここにいて!」
涼景の目元がぴくりとした。
「お願い、陽様に何かあったら、若様が悲しむだろ!」
「だが……」
「旦次様が一緒なんだろ! 若様だってお強い。だから、涼景はここにいて!」
絶対に行かせてはならない。
そんな気迫が東雨から溢れて見えた。どうしてこれほど強く思うのか、東雨自身にもわからぬまま、それでもそうしなくては収まらない直感に突き動かされていた。
涼景は何度か、庭と玲陽、そして東雨の間に視線を彷徨わせたものの、やがて、わずかに肩の力を抜いた。
「わかった。まずは手当てだ。急げ!」
東雨は一瞬安堵を見せ、それから確かな足取りで部屋を駆け出した。
激しい雨に紛れ、慎は天輝殿の裏に回った。抜け道へ、茂みから茂みへ身を隠しながら、細い影が素早く走った。雨音が葉擦れの音をかき消してくれた。雷雨と暴風に見舞われ、いつもならその場を離れることのない禁軍兵が、今は見張り小屋の|庇《ひさし》の中へと身を寄せていた。
慎は稲光りを避けて、木戸に潜り込んだ。
むせ返る土と|黴《かび》の匂いに、喉がむず痒かった。全身が濡れて、髪から滴る雫がひたひたと垂れた。
まさか、俺が先鋒とは……
慎は心の奥で悪態をついた。
荒れた天候に見舞われ、平時の慣例が通らないこの時を狙って、慈圓が下した決断だった。
とっくに死んだ身、惜しげもなく火中に投じる、か。
慈圓の潔いまでの人選に、慎は黙って従った。
東雨から聞きだした、石の間への道。何の因果がこのように結びついたのか、かつて東雨が歩んだ道を、今は慎が歩いていた。世に起こる出来事とは、全くもって想像を超えていた。
慎は己の心を奮い立たせ、汗ばんだ手で短刀を握りしめた。かつて、涼景が東雨に渡したものと同じ、一筋の傷で相手を死に至らしめる毒の刃だった。
東雨が腰をかがめてくぐり抜けた通路は、慎には狭すぎた。着物の汚れは気にならないが、湿気が酷く、肌にまとわりつく感触は不快極まりなかった。
雨水はじんわりと土壁に染み出し、すでに足元は泥となって、這うごとに手のひらが沈んだ。
石の間。
宝順よりはるかに遡る御代から、数々の魂に呪い尽くされてきた石の棺は、禍々しい空気に満たされ、一歩近づくごとに呼吸が詰まった。そこに染み付いた恨みの沼には、慎の血縁の魂も溶け込んでいた。
胸に忍ばせた護符だけが、慎を守る唯一のものだった。それがなければ、傀儡と化した情念に同調し、取り込まれることは避けられなかっただろう。
道は近いようで遠かった。
狂乱の宴は今もなお、夜な夜な繰り返され、それに興じる宝順には積年の恨みがあった。今の慎を動かしているのは、蛾連衆としての務めでも、世を正すという大義名分でもなかった。
たった一つの、私利私欲、けじめだった。
自分が|今日《こんにち》まで生きながらえてきた空虚な理由の残滓が、慎を恨みの巣窟へと誘った。
俺には、もう、これしかない。
慎の覚悟は空洞で、乾いた風が細い音を立てて吹き過ぎた。
道の先に、小さな部屋が見えた。最後の低い穴を抜けると、慎はようやく体を起こした。部屋は小さく、置かれたひとつの交椅は空っぽだった。床の端には排水溝が走っていた。壁の一面に切れ目があり、その先が、石の間だった。
やけに静かだ。
慎は、幾度か夜勤の際に耳にした悲鳴を思い出した。
右近衛に紛れて石の間の前を通り過ぎるとき、中からは身の毛もよだつ声と物音がしていた。分厚く重たい扉越しにも、その絶望感がひしひしと伝わってきた。そういう日は、朝が憂鬱だった。排水溝から流れてくるどす黒い水。鼻を刺す匂い、掻き出される穢れと、時として亡骸。
単なる趣向と呼ぶには凄惨過ぎる狂気が、宝順ばかりか、歴代の皇帝には宿っていた。
夕泉が映相の呪いを負っていたように、宝順もまた、歪んだ魂を受け継いだのかもしれない。
たとえ真実がどこにあろうと、慎に下された命はひとつだった。
宝順帝を殺す。
想像するだけで身は震えた。
長く復讐の時を待ち望んできた。今まさに恨みを晴らそうという時になって、感情はやけに冷めて行動と噛み合わなかった。
挑む心と、捨て去りたい心とが、せめぎ合っていた。
怒りと悲しみに駆られて、宝順に毒杯を送った若かりし頃の迷いなき行動力は、今の慎には残っていなかった。あまりに、虚無を知り過ぎた慎の願いは今、宝順の死よりも、それとは別の息吹を望むまでに変容していた。
決して叶わない願いを秘めて、慎は石の間から漏れ来る灯りが揺れるのを見つめていた。
人の声はなく、動いている物音もなかった。
ただ、灯りだけが暗く灯されていた。
慎の弱い視力では、それ以上はわからなかった。
遠くから、涼景の声が聞こえた気がした。
慎は露骨に顔を歪めた。
俺はもう、あいつに義理立てる必要もない。
慎は、気持ちを落ち着けた。
あいつとの縁など、そんなもの、最初からなかった。
あったのは、同じ人を挟んで対立する、敵と敵。それも、今はもう、失せた。
今の俺には、何もない。
自分に言い聞かせながら、慎は短刀を握りしめた。
意を決する。
それは自死の決意と同義だった。
理性は本能的な恐怖を抑えつけ、限界まで張り詰めていた。
慎はゆっくりと、壁の向こうを伺った。
ぼんやりと灯りは灯されているものの、やはり、人の気配は薄かった。
深い穴の底から湧き出す冷たい水のように、懇々と恨みの念は石の隙間から滲み出ていた。
四方も天井も床も、怨念の宿る石作りの墓穴。血と情を吸い続けてきたその部屋は、耳から音を遠ざけ、肌の感覚を麻痺させるほどに、圧縮された念が渦巻いていた。
特別なことは何もわからない慎にすら、ここがどれほどに忌まわしい場所であるのかだけは感じ取れた。
視線の先には、背の高い灯台が二つ、立てられていた。そして、その間には、背もたれと肘掛のある広い交椅に身を委ねた、長身の男がいた。
眠っているのか、力無く四肢を垂れて、ぐったりとしていた。
男の身なりは、一目で上等だと知れた。濃紺の外袍の奥に、墨色の裳と深い赤の腰帯が見えた。生地には何かの刺繍があるようだったが、慎の目にははっきりとわからなかった。
漆黒の薄絹が髪に飾られ、手には畳まれた扇が握られていた。ゆるりと座る姿勢からは、武勇を持って身を守る心得があるようには見受けられなかった。だというのに、部屋に護衛の姿はなかった。不用心が過ぎるその態度は慎を困惑させたが、同時に、好機でもあった。
慎は目を擦った。部屋の空気が黒く見えたのは、弱い灯りのせいだけではなかった。
霧のような、髪の毛のような、黒っぽい何かがゆるゆると蠢いていた。
同じ光景を、慎は別の場所で見た記憶があった。それは、都の北の地。玄武池だった。
予定になかった夕泉の外出を不審に思った慎は、密かに尾行し、玄武池で林立する黒い塊を目撃した。
あの後、玲凛がもたらした情報と合わせれば、今、何が起きようとしているのか、そして、交椅に身を委ねる人物が誰であるのか、想像に難くなかった。
部屋から湧き出す黒い霧は、すでにいくつか、塊となってごろごろと転がっていた。玄武池の怪異より小さいものの、明らかに同質の嫌悪すべき何かだった。
塊はやがて形を保つ限界の大きさに達すると、泡が破裂するように砕けた。その中から数匹の蛇が飛び出して、すべて、男の口へと吸い込まれていた。
男は、空気でも吸うようにそれを飲み込み、苦しむ様子は見せなかった。
祥雲と同じだ。
慎は思った。
本来、傀儡を飲み込めば正気ではいられない。そうはならないということが、慎の予測を裏付けた。
慎は全身が総毛立った。
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