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25 水(2)
こいつ、夕泉か。
迷いなく、慎は短刀を抜いた。
もし、ここにあいつがいたら……
そう思えば、するべきことはひとつだった。
せめて、一太刀、傷さえ与えられたなら、宿願が叶うのだ。
ずくり、と、心の奥が鈍く焼け、慎は顔を歪めた。
下腹部の奥底で、長い間澱んでいた熱が一点に集束し、競り上がってくる嗚咽に、慎は思わず膝をついた。見開いた目に、恐怖が溢れた。
それは慎自身さえ自覚していなかった魂の奥底に隠れていた何かだった。それが突如、迸りを求めて内側から粘膜を撫で上げ、強引に引き出されていく感覚だった。そして、どこか、極まる瞬間の恍惚と剥離、清々しいまでの虚無に似ていた。
慎は目を見開き、呼吸を忘れてその喪失を味わった。灰色の瞳から一筋、涙が頬に垂れた。
重みが一陣の黒い風となって、慎の口腔を突き抜けて解き放たれた。
すべてを放ち尽くした後の慎の体は、魂の半分を抉り取られたような、痛切な凪の中に取り残された。
行くな!
刹那、慎は腕を伸ばしたが、甲斐もなく黒くしなやかな曲線は宙を切って、男の唇の隙間へと滑り込んだ。何も掴めなかった指先が、痺れていた。
男の全身が一瞬、大きく脈打ったのを、慎は見逃さなかった。
男は、ゆっくりと目を開いた。
視線に射抜かれ、途端に慎は凍り付いた。心臓までが鼓動を止めたと思われた。襟に潜めた絹織りの護符が、じりっと肌を焼くように熱を発した。
「そんな……」
慎は小さく声をあげた。呼応するように、男は立ち上がった。
石の床に這いつくばったまま、慎は食い入るように男を見つめ続けた。唇が震えても声は出なかった。
長く垂らした男の裾が、一歩一歩を踏みしめて歩み寄り、やがて、慎の目の前に立った。
慎は喉を仰け反らせて、動けずにいた。
こちらを見下ろす、黒曜と白銀の瞳。
慎は、無意識に、ぽつりと名を呼んだ。
その声色には、隠しきれない懐かしさが溢れていた。
戸惑いと、恐れと、押し殺した喜び。
胸を満たしていく熱に、慎の思考が止まった。
「あんた、なんだろ……?」
夢見る声で、慎は囁いた。引き寄せられるというのにふさわしく、自らの体を譲ることもできぬほど、心を奪われていた。
姿ばかりか、見る者の心にさえ入り込む強い狂気が、確実に慎を捉えていた。粘りつく陶酔が慎を包み込み、頭の隅で、それがまやかしだと知っていても、否定する気力すら失せていた。
何かが、胸で爆ぜた。
違う。
違う。
違う。
違う。
違う。
慎の胸で激しく警鐘が鳴る。
違わない!
慎は自心を否定した。
見る者によって姿を変える、夕泉の呪い。忘れることのできない人の姿を見ても、不思議ではなかった。
何が起きているのか知っていても、認めたくない現実は山ほどあった。これも、その一欠片だ。命を賭けても悔やまない、真実より思い幻だった。
息づく人の熱が恋しく、慎は見つめ続けた。そっと手を差し伸べ、男は慎を招いた。
「俺を、呼んでくれ……」
精一杯の言葉が、慎の唇からこぼれ落ちた。
黒と銀の瞳を持つ男は、慎の手を静かに上から包んで、短刀を引き寄せた。抗うことなど、慎にできるはずがなかった。
黄色い光の中で、毒の刃はやけに黒く光っていた。切先が、微かに震えながら、男の喉元に当てがわれた。
「あんたは……」
放心した慎に、男はかすかに微笑んだ。
「あんたは、何度、俺を置いていく気だ……?」
慎の頬に流れる涙に、橙の火が映って夕陽のように煌めいていた。
血が滲む慎の声に、男の目が二度、瞬いた。
「やっと……俺の気持ちがわかったか?」
聞き慣れない声と、懐かしい口調が、強く慎を引き寄せた。眼差しが交差し、鼓動が重なり、息が交わった。男は一息に、刃を喉に突き立てた。毒刃を伝って暖かな深紅の血が慎の手を伝い落ちて石の床に溜まり、そこに、幾雫かの涙が混じった。
『凛を見くびるな』
いつだったか、暁隊の隊士が、酒の勢いで誇らしげに叫んだ声が、いつまでも玲凛の耳にこびりついていた。
血を分けた玲陽でもない。特別に親しい涼景でもない。他の誰でもない、名前さえ確かめることをしなかった、気の荒い、無作法な隊士の酔いどれの戯言だった。
だが、玲凛にはそれが、人生でかけられたどんな言葉よりも魂の琴線に触れて、唐突に思い出された。
涼景を誇るように、暁隊は玲凛を認めた。その一言は、孤独だった玲凛の時間を世界と共有するものへと変えた。
どこまで行っても、彼女は一人だろう。
だが、同時に、孤独は選び取ったものであり、追い詰められた檻ではなかった。
そして今、名も知れぬ隊士の酒の席の一言が、彼女を後宮の闇の中で奮い立たせていた。
暴風に立木が大きく揺れる道を、玲凛は駆けた。
紀宗の許可を得た玲凛は、日の出を待たずに振り返ることもなく後宮の門を突破し、最短の道を選んで南へと走った。
鐘が遠くで、朱雀門の開門を告げた。だが、雷鳴と豪雨がそれをかき消し、いつもの半分も響かなかった。
足元で石畳が煙のように雨を砕き、篝火も燃えることを諦めて、雨風にさらされていた。半分炭化した薪の間を、風が音を立てて吹き過ぎ、荒く組み合わされた燃えさしを伝って、雨が細い滝のように流れ落ちていた。
すでに陽は昇っていたが、手が届きそうに低い雨雲は分厚く、あたりは奇妙な暗さに包まれていた。
夜でもなく、夕でもなく、ましてや未明の光を秘めた空気でもない。どこまでも鈍く色の感じられない宮中の景色は、玲凛を阻むように重たくのしかかってきた。
そんな中にあっても、歌仙育ちの猛々しい少女は、怯みはしなかった。
単独行動は得意とするところだった。
大軍を率いて動かす才は、玲凛にはない。
自分一人のことで手一杯であり、そうでありながらも、残す結果は誰にも真似のできない偉業であった。ただし、当の玲凛本人は、自分の手柄の価値を知ることも誇ることもなかった。
|為《な》すべきことを|成《な》す。
それが玲仲咲だった。
玲凛は泥を跳ね上げ、姿勢を低くして、五亨庵を目指した。
宮中を南北に貫く大通りに、人気はなかった。
激しい雨の中、右近衛の姿がまばらにあるだけで、朱市は普段より広々としていた。
石畳が水没し、道は無いも同じだった。泥水の中を走りながら、いつかの渓谷を思い出した。玲凛は、どんな悪路も災いも恐れなかった。ただ、目的に向かって猛進するのみである。
此度の彼女の狙いは、人でも獣でもなかった。
五亨庵。
そこに宿る|理《ことわり》そのものが相手だった。
犀星が築いた庵は、皆を守る城から牢獄へと意味を変えていた。
五亨庵へと続く小径の曲がり角で、玲凛は足を止めた。呼吸を整え、腕で額を拭いながら、変わり果てた祇桜を見つめた。
古い桜は、幹が真っ二つに裂けて根こそぎ倒れ、小径を塞いでいた。
昨日、玲凛はその手で、祇桜を斬った。
当然、その代償は覚悟の上だった。命まで失ってもやむをえないと腹をくくっていた。だが、握った柄から力を奪われることはなかった。それどころか、逆に並々ならぬ活力と生命の躍動を掻き立てらた。
寿魔刀。
他者の傀儡を斬れば力を失い、同じ血を断てば力をもたらす。
あまりに皮肉が過ぎた家の宝に、玲凛はもはや、苦笑する気にもなれなかった。
因縁を、断つ。
玲家にとって不必要な忌子とされてきた自分が、一族の命運を担うなど、誰も想像だにしていなかった。
いや……
玲凛は、まぶたに浮かんだ母を思った。
玲家当主・玲芳こと玲|子芙《しふ》。
母だけは、全てを予見していた気がした。歌仙を出る玲凛を止めず、寿魔刀を託し、好奇心を煽るように宮中に近づくなと警告したのは、この未来を見通してのことだったのではないのか。
本当に、これだから玲の血は。
紀宗に何度も呆れられた言葉が蘇った。
それでもいい。これは、私の道だ。
玲芳の思惑があろうとなかろうと、玲凛自身が決めたことだった。
ふと、雨音の中に乱れた足音を聞きつけて、玲凛は振り返った。
「うわぁ! 雷にでもやられたのかな」
見覚えのある男が、大声を上げて古木の惨状を横目に、こちらへ寄ってきた。緑権だった。骨が折れてめくれ上がった傘の柄を、大事そうに握りしめていた。
「謀児様?」
「あれ、仲咲どのじゃないですか。いつ、歌仙からお戻りに?」
隠し事が苦手な緑権は、玲陽と同じ嘘で騙したままだった。
「謀児様こそ、こんな天気に朝からどうして?」
玲凛は顔色ひとつ変えずに話題をすり替えた。
「こんな天気だから、ですよ」
緑権はにやっと笑って、自信満々に言い放った。強い雨足にも負けない大声に、玲凛はわずかに頼もしさを覚え、すぐに思い直した。緑権の強さは、玲凛のものとはまた質が違っていた。思い込むと周囲を見ようとはしない無謀さと紙一重だった。
「この大雨で、川の水量が一気に増えています。上流の様子を知っておくことが辰巳にとっても必要だったので、見に来たのですが」
緑権は恨めしそうに目玉を回して空を見上げた。
「これは、相当な降り方ですね。土手を強くするよう対処はしていましたが、想定以上です」
長年、これと言って功績のなかった緑権だったが、辰巳の開発の一件以来、その働きは十分に賞賛されるに値していた。
「謀児様は、宮中の治水について詳しくご存知ですか?」
玲凛は首を傾げて問いかけた。
「それはもう!」
緑権は破顔した。必要に迫られて、緑権は緑権なりに見識を深めていた。何を聞かれても堂々と答える自信があった。ましてや見目麗しい玲凛が相手である。嬉しくないはずがなかった。
「何でもお尋ねください。鼠一匹の幅の違いでも、正確に覚えていますから」
玲凛は足元の水の流れを目で追いながら、
「気になったことがあるんです。宮中は北から南へ、水が流れているでしょう? でも、あのあたりに、妙な渦が出来ています」
玲凛は、朱市の西側を指した。
「地面は緩やかに南へ傾いているのに、あそこだけ、北へ向けて流れが出来ている。明らかに奇妙だと思って……」
「さすが、仲咲どの、お目が鋭い!」
緑権は興奮気味に、
「あれは八穣園に水を引いてるんですよ」
「八穣園? あそこの池にですか?」
「はい」
揚々と語る緑権の顔の周りだけ、雨幕が薄らいだように晴れやかだった。
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