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25 水(3)
「あそこの池は大量に水を溜めるでしょう。ですから、少し前に伯華様が特別な計画を行ったんです。それによれば、うまいこと地面の高さを変えて、特別な堤を作って水を誘い、宮中の水位を下げられるようになりました」
「つまり、冠水時の治水対策?」
「はい。先ほど、私が水門を開いてきましたので、間違いありません。大雨が続いたらそうするように、と、伯華様から直接任されているんです」
緑権は自慢げに頷き、玲凛は眉間にしわを寄せた。
いかに八穣園の池とはいえ、連日の雨を受け入れるだけの容量はない。緑権とは、つくづく真実に縁のない男である。
やっぱり、星兄様も玲家の血。
妙に納得して、玲凛は深く溜息をついた。
花街の地下の巨大な蓄水池。
玲凛の頭の中には、暗部で水がうなる音がはっきりと聞こえていた。
星兄様、もう、ほとんど記憶なんて残っていないはずなのに。
玲凛はちくりと胸が痛んだ。
愚直なまでに忠実な緑権に最後の一矢を託した犀星は、やはり誰にも読めない鬼才だった。
「しかし、あっけないものですね」
思い出したように緑権は、裂けた桜の木の前にしゃがみ込んだ。
「この木、根が深かったから長くもったんです。まぁ、相当長生きしたみたいだから、もう十分でしょう」
「長生き、しすぎよ」
玲凛は誰にも聞こえない声で呟いた。答えるように、稲光が世界を明るく照らした。緑権は両耳を抑えて身を縮めたまま、長い雷鳴をやり過ごした。玲凛はその間、むき出しになった古木の内側を見つめていた。もう、そこに、彼女を引き寄せるものは何もなかった。
「謀児様、お願いがあるのですけど」
「もちろん、お引き受けします!」
用件も聞かずににっこりして、緑権は立ちあがった。その笑顔と、荒れ狂う雨風は、全く釣り合いが取れていなかった。玲凛は北を振り返って、
「今の話、天輝殿の紀宗様に伝えてください」
「今の話? 桜のことですか?」
「いえ、星兄様が作った、水の道の話です」
「構いませんけど、どうしてです?」
「紀宗様と以前お会いした時、謀児様から直々に教えを請いたいとおっしゃってました」
当然、そんな話は出まかせだった。そしてやはり当然、緑権は嬉しそうに顔を輝かせた。
「わかりました。必ずや、紀宗様に伯華様の計画の後押しをしていただけるよう、売り込んで見せましょう!」
陰陽官として位の高い紀宗を味方につければ、五亨庵の政策は格段に自由になる。
緑権は、役に立たない傘をさしたまま、降りしきる雨も心地よいと言わんばかりに、軽やかに大通りを北へ向かっていった。
玲凛はそれを見送ると、小径を塞ぐ古木の枝をまたぎ、倒れた枝葉の隙間に体を入れて、さらに潜り抜けた。
「こちらも最後の仕上げだわ」
小径は、中央がすっかり川となっていた。玲凛は祇桜の枝を一本折ると、足元の水中に差し入れ、地面の感触を確かめた。そうしながら、流れに逆らい、足首まで泥水に浸かり、一歩一歩探りながら進んだ。濁った水は底が見えない。下手に足を踏み入れて、深みにはまれば怪我につながる。まさか宮中の真っ只中で、このような野歩きの知識が必要になるなど思ってもいないことだった。
両脇の梅の木は根元が沈むほど水に浸かり、水面には細い葦の葉が流れに乗って揺れていた。この様子では、水が引いた後も、相当な被害が予測された。
星兄様も余計なことなんてしないで、早くこの辺をどうにかしてくれればよかったのに。
思わず思った玲凛だったが、それももう永遠にかなわないとわかっていた。
犀星はとっくに、犀星ではなくなっているだろう。それは玲陽にとって、いかばかりの想いだろう。
玲陽の顔を思い出して、玲凛は小さく息を飲んだ。
胸の奥に見てはいけないものを見つけてしまったような寂しさにも似た思いが、玲凛の表情を曇らせた。空を睨みつけると、稲光が長く走って、天がまるで割れたようだった。
太陽の光が見たい。
この雨の向こうで、太陽は今この時も、微笑むように輝いているはずなのだ。
|陽《ひ》の光が恋しい。
今度ははっきりと、玲凛は自分の寂しさを自覚した。珍しく、玲凛の胸が震えた。
二度と、会えない気がした。
ごめんなさい。でも、兄様なら、わかってくれますよね。
玲凛は胸に手を当てた。
「やるからには、徹底的にやるわ」
自分に言い聞かせるように、玲凛は言葉にした。
五亨庵の美しい壁が、雨の向こうにやけに鮮やかに見えた。
いつも右近衛が控えている長榻には、背中を丸めた目つきの鋭い男がこちらを見ていた。
「まさか、そなたが来るとは」
玲凛に気づいて、慈圓は驚きを隠さず、腰を上げた。庇の下に入って、玲凛は濡れた犬のように身震いした。
「珍しい人によく会うなぁ」
玲凛の声は雨よりも冷たかった。
「この嵐に乗じて動いたのは、私だけじゃなかったってことね」
慈圓は苦笑し、それから、玲凛の背後を見た。
「一人、か?」
「不満?」
「……いや、構わぬ。伯華様はどちらに?」
「知らない」
玲凛は袖を絞った。
「ここに来ていないなら、都じゃない? 私も、後宮からまっすぐ来たから」
「紀宗は?」
「天輝殿に残っている」
言いながら、玲凛は裾の水を絞り、
「客が来たら案内すると言っていたけれど、玄草様、どういう意味かわかります?」
「何の話だ?」
「知らないことにしておきます」
玲凛は、それ以上踏み込まなかった。その先は、自分の立ち入る領分ではない。玲凛が対峙するのは己の血であり、宮中の事情ではない。
「それで、そなたは何用でここに来た? すぐにでも、光理どのの元へ向かうと思ったが」
慈圓もまた、話題を避けた。
玲凛の目が、稲妻にキラリと光った。
「全部、終わりにするために」
玲凛は、五亨庵の内扉を開いた。
一目見るなり、玲凛は足がすくんだ。圧、と呼ぶにふさわしい何かが、真正面から玲凛を拒んでいた。このような恐怖は、かつて味わったことがなかった。
視界は全て、水に沈んだように歪み、景色の全てが輪郭を失って、揺らめくだけだった。
五亨庵の中と外。
それは、結界の内外と同じだった。
閉じ込められているのは、庵の中か、世界の方か。
「終わりにしてやる」
玲凛は寿魔刀を抜いた。
鈍い刀身から流れ込んでくる、際限を知らぬ力の波が、玲凛の魂を揺り起こした。
今、自分は初めて目覚めたのだ。
奇妙な感覚に流されかけて、同時に、その流れを自ら制御する意志が芽生えた。
犀星が水を操ったように、玲凛もまた、力の脈動を己の支配の下に置いた。
玲凛の後ろで、慈圓が信じがたい光景に息を飲んだ。
『このままでは、やがて水に飲まれる』
かつて、紀宗が警告した言葉が、この瞬間と結びついていた。
「これは、何が起きている?」
「知らない」
玲凛は答えた。
「でも、やるべきことはわかっている」
「やるべきこと、だと?」
「玄草様、申し訳ないけれど、五亨庵を破壊する」
慈圓は訝しんだ。玲凛は重たく粘る水の世界へ踏み込んだ。
体が重く、動きが自由にならなかった。だが、目指す場所は定まっていた。
玲凛は一人、火の石へまっすぐに向かった。深い泥を掻き分けて進むより、それはゆっくりと難儀する道のりだった。玲凛は焦らず、しかし臆さなかった。
前へ、前へ。
その一歩を拒むように、景色はうねり、押し返された。向かい風に逆らうように、玲凛は体を傾けた。
やがて、一際強固な境界を超えて、一気に体が楽になった。
石の周囲だけ重たい水は消え、平常な空気が石と玲凛を包んだ。それは、水中に浮いた泡の中にいるようだった。
玲凛は、寿魔刀を高く振りかぶった。雄叫びと共に、白い刀身が石に打ち下ろされた。
赤みを帯びた巨石が、渾身の一撃で粉々に砕け散った。欠片が辺りに飛び散って、水の景色がぐらりと揺れ、波立ち始めた。
玲凛はためらうことなく、滅の順に石を巡った。
金色の筋が断ち切られ、高い音を響かせた。
「次!」
緑色を帯びた石も、真っ二つに割れて転がった。
黒曜石も破片が、舞い踊る蝶の羽のごとく煌めいて四散した。
石が一つ破壊されるたびに、庵に満ちていた水が薄らいで行く。
これは……!
慈圓は、想像を超える光景に、息を飲んで見入っていた。
破壊なのか、解放なのか。
まるで神聖な儀式を見るようで、慈圓と言えども身動きも出来ず、立ち尽くすのみであった。
何もかも、五亨庵のせいだ。
玲凛は、怒りよりも悲しみに震えた。
犀星が誇りとし、愛してきた場所は、彼が信じていた優しい庵ではなかった。
人が決して手にしてはならない、制御できない力のるつぼだった。
玲陽を新月の光に染め、喰らった傀儡の力を蓄え、際限なく膨張する巨大な核。やがては犀星の祈りも引き裂き、脈々と受け継がれてきた最も濃い血を、一滴残らず焼き尽くす。
それは誰が望み、誰が受け継いできたものだったのか。
そんなことは、玲凛にはもはや、どうでもよかった。
一つだけ確かなことは、終わらせるのは自分だという意志だった。
寿魔刀は、そのために彼女の手にあった。
歪んだ視界の中で、桃色の着物の裾が翻った。玲凛の姿が、水に映る花びらのように揺れた。
「これで最後!」
我知らず、玲凛は叫んでいた。それは、自分との決別でもあった。
玲凛が最後まで残したのは、犀星の化身ともいうべき水の石であった。それは情か未練か知れなかったが、玲凛にはその選択が最良であるという確信があった。
私は、私が感じたことだけを信じる。
玲凛はあらん限りの力で寿魔刀を最後の石へと叩きつけた。魔を斬る刀の、それが限界だった。
光の粉塵が跳ね上がり、相撃つ寿魔刀と水の石が、粉と砕けて雨のように降り注いだ。
五つの石の全てが破壊されると同時に、大地を震わせる雷鳴が、すぐ近くで轟いた。
地鳴りが走り、慈圓は内扉に手をついて体を支えた。
振動は深く、五亨庵を中心として同心円状に広がっていった。
玲凛は肩で息をついて、それでも、倒れなかった。
小刻みに大地が震えていた。高い梁が聞いたことのない異様な軋みをあげて歪んだ。
崩れる!
玲凛は、呆然とする慈圓の腕を引っつかんで、外へと駆け出した。
背後を、轟音が追いかけてきた。
玲凛は一息に小径の梅の陰に隠れた。
蒼氷の親王の美しい庵は、断末魔とともに陥没した地の底に沈んでいった。
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