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26 希望の人(1)
夕泉親王が暗殺された。
その知らせは稲妻より早く宮中を駆け抜けた。
最初に動いたのは然韋だった。
もはや形骸化したとはいえ、それでも踏まねばならない手順を惜しむことなかった。大きな体躯と動じることを知らない然韋は、禁軍へ向けて皇帝警護の命令を出すと、すぐに石の間の検分に当たった。
部屋に踏み入った然韋はすぐに違和感を感じた。そこは確かによく知る場所だったが、空気が澄んでいた。正しくは、他と変わらなかった。
石の間は、特別に勘が鋭いわけではない然韋から見ても、禍々しさと薄ら寒い気配が常に漂う魔窟であった。その暗さがすっかり抜け、息をするのが今までになく楽に感じられた。
これは、紀宗が興味を持ちそうだ。
こちらから呼ばずとも、光に集まる蟲のように寄ってくる陰陽官のことである。いずれ姿を見せるだろうと、知らせはせずに放っておいた。
然韋は布をかけただけの夕泉の遺体を見た。染み出した血が、布の一部を染めていたが、すでにその広がりは止まり、生前同様に、無味乾燥な印象をまとって横たえられていた。
誰が、このような無益なことを。
然韋は部屋を見回した。
昨夜、扉に閂はかけられていなかった。だが、扉の前の回廊には左近衛や禁軍が常駐し、人が入った気配はなかった。
然韋は部屋の奥の、隠し通路を覗いた。土が床と壁に点々とこびりついて乾いていた。
「ここから侵入したか」
然韋は低く呟いた。
夕泉が夜、この部屋で一人になることは、一部の者しか知らないはずだった。
しばらく前から天輝殿に滞在していた夕泉は、宝順の快癒の祈願と称して、夜な夜な、一人で石の間に閉じこもることが習慣になっていた。
宝順の心身の不調もまた、側近だけの秘め事だった。
夏の終わりから、宝順の生気はみるみると失せ、その衰えぶりはまるで、先帝の最後を彷彿とさせた。
蕭白帝は八年をかけて徐々に身体を壊していったが、その間も後継者である宝順に対する執着は凄まじかった。まるで、己の全てを注ぎ込もうとするかのように、あらゆることを教え、宝順の意志と真っ向から対立した。
宝順の近衛として最も近くで盾となっていた然韋は、その全てを見てきた。あの時の先帝の狂気じみた言動に比べれば、宝順の変容は静かすぎた。ただ口数が減り、石の間への通いが減り、公務の席でも遠くを見つめていることが多くなった。
皇子の死に対して悲しみすら見せなかったのは、決して薄情ゆえのことではなかった。
その身を案じ、何人もの典医が脈を取り、陰陽官が祈祷を奉じた。だがその甲斐はなく、宝順に取り入っていた者たちは、我が身と一族の将来を託す次の器を探し始めていた。
正式な後継者指名が行われていなかったため、皇位は自然に次の権利保持者である夕泉に傾いた。
詳しい事情を知らない者の目には、夕泉が天輝殿にとどまるようになったのは、皇位継承の準備のためであろうと見えた。
世に知られる通り、夕泉は皇帝の責務が務まる人格ではなく、そうであるからこそ、権力者たちには操りやすい|傀儡《かいらい》だった。
己の意思を表さず、自分たちの思い通りになる夕泉の即位は、左派の者たちにとって好都合だった。彼らは次の時代を夢見て、皇帝の容体を案じる神妙な顔の下で。虎視眈々と策略を巡らせ、ほくそ笑んでいた。
そんな時に、突然、何者かによって夕泉が殺された。
石の間は、事実上、誰も近づくことはできないはずだった。部屋に入れば、夕泉が行う儀式に飲み込まれ、正気を失う。それゆえ、護衛すら遠ざけられた。
約束の朝の時刻が来て、いつものように禁軍兵が様子を見に部屋を開けた時、夕泉はすでに絶命していた。毒の塗られた刀で首をひと突きだった。引き抜こうとしたのか、夕泉の手はしっかりと短刀の柄を握りしめていた。争った形跡もなかった。ただ、泥を引きずったような足跡が、秘密通路から続いていた。
然韋は、やりきれない苛立ちにかられて壁を殴りつけた。
この通路を知る者が、わずかな隙をついて夕泉を殺した。
すぐに思い浮かんだのは、東雨だった。皇帝の血を引く東雨ならば、夕泉同様に儀式の中でも正気を保つことができるのかもしれない。しかも彼は、雨の夜に紛れて通路から侵入する道を知っているのだ。
だが、同時に、然韋は東雨の気性についても、決して無知ではなかった。
芯は強いが、他者を手にかける残虐性は持ちあわせていない。むしろ、暴力よりも犀星譲りの奇策と機転で切り抜ける性格である。
「やはり、致命傷は毒によるものです」
夕泉を診た医官が、そう告げた。然韋にじろりと睨まれて、医官は竦み上がった。
「致死毒か?」
「わずかな傷でも、相当な効果があるかと。夕親王の傷は深うございますから、強い脈に乗り、一瞬でお体にまわったものと……」
毒。
そう聞いて、然韋はさらに東雨を思った。腕に自信のない者ほど、毒を使う。だが、それでもやはり、然韋には信じられなかった。
雨の中で、自分と真っ向から向き合い、犀星への忠誠を誓った東雨の強さに、心惹かれる自分がいた。失ってしまったものへの懐かしさと執着だった。
もし、本当に東雨が動いたのだとすれば、本人の意思とは考えられなかった。夕泉がいなくなり、最も得をするのは誰か。
玲親王の指示……?
今まで、犀星は表立って宝順と敵対することはなかった。宝順からの執拗な誘いをのらりくらりとかわしつつも、弟としての礼はつくし、兄として立ててきた。
犀星には、皇位を継ぐにあたって、何一つ落ち度がなかった。
ただ、夕泉だけが障害だった。
そして、夏以来、犀星と夕泉の仲がこじれた、というのはどうやら真実のようであった。
とはいえ、宝順の不調も夕泉の石の間での祈願も、犀星が知る情報ではない。だとすれば、状況はさらに悪かった。
玲親王が謀反を企て、夜の狂宴に乗じて宝順を狙ったものの、あてがはずれて夕泉を殺めた。その可能性は決して高くはないが、夕泉の死で権力を握り損ねた者たちが証拠を捏造すれば、犀星とて今度こそ無事では済まない。
最悪だぞ、東雨。
然韋は黙り込んだ。
「如何なさいますか?」
禁軍の一人が、然韋の足元にひざまづいた。
「……止むをえまい」
然韋は絞り出すように、
「都へ行け。玲親王殿下をお迎えせよ。丁重に扱え」
白にせよ黒にせよ、犀星と関わることは危険だと、然韋は長年の付き合いの中でよく知っていた。犀星は個人の武勇にも長け、優れた知略を持つばかりか、規格外の策を涼しい顔で大胆に仕掛ける。苛烈であろうとも、腹を探れる宝順の方がましだと、然韋は心底思っていた。
だが、今は別の意味で、あの氷の親王をそっとしておいてやりたかった。
かつて、奏鳴宮で見た空虚な玲親王の背中は、もう、戦うだけの力を残してはいなかった。
伝令が石の間を出て行くと、代わりに一人の身なりの良い男が、足踏みをするように慎重に入ってくるのが見えた。然韋は振り返り、その顔を見て、舌打ちをした。
備拓だった。
夕泉の遺体はかろうじて毛氈の上に横たえられ、全身に錦の布がかけられていたが、決して丁重であるとは言えなかった。禁軍にとっても、国にとっても、夕泉とは地位と実質的な扱いとの間に、あまりに差のある人物だった。次期皇帝でありながら、直前まで顧みられることもなく、ようやく耳目を集めたかと思えば、あっさりと命を落とした。
その儚さは、備拓も十分に理解していた。
どこまでも霞のような人よ。
備拓は、然韋に促されて、夕泉のそばに両膝をつき、深く頭を垂れた。
「最後だ。そなたならば、拝顔も許されよう」
それは、然韋に言える最大の慰めだった。だが、備拓は首を横に振った。
「このまま、誰の目にも触れることなく、静かにお見送りを」
「良いのか? そなた、礼を尽くしてお顔を見たこともなかったのだろう?」
「それで、良いのだ」
備拓は、目を閉じた。
「顔など、いかようでも良い。わしが知りたかったのは、殿下のお心だ。それはもう、はっきりと見えた。それで良いのだ」
然韋は黙って備拓を見つめ、それから、禁軍に指示して、慣例通りに夕泉の体を死者の輿へと収めさせた。
「今日は、荒れるな」
備拓は、然韋の斜め後ろから、声をかけた。
「ああ」
然韋は備拓を振り返り、沈んだ声で唸った。
「ひとまず、陛下には後宮へ避難いただいたが、もとよりお体の弱りもある。順を追うのならば玲親王殿下に後継されるべきところだが、夕親王殿下の最期がそれを許しはすまい。少なくとも、左派は反発するだろう」
備拓は静かに、
「夕泉様がかようなことになった以上、わしはすでに左近衛隊長でもなければ、一介の近衛でもない。口を挟む資格はないが……」
周囲を詳しく調べている禁軍兵の耳を気にしなら、備拓は声を抑えて、
「左近衛の多くは、玲親王殿下を信頼しておる。正しくは、殿下の近侍、犀祥雲どのを重く見ている」
意外そうに、然韋は目を動かした。
「何故、そのようなことに?」
「いろいろあったのだ。左だ右だ、と言っている時代は終わった。そもそも、この派閥とて、歴代の皇帝が己の権力を維持するために設けた、力の削りあいがそもそもの発端。初めから、まっとうなものではない」
役職を解放された備拓には、遠慮がなかった。然韋は同意すれども、まだ、公に頷くことはできなかった。
「然韋どの。最後に一つ、お頼みしたい」
備拓は運ばれていく輿を見つめながら、
「殿下は、天輝殿にて葬っていただきたい」
「奏鳴宮に返すのが道理と思うが、良いのか?」
備拓はしばらく黙ってから、幾千の生死を見てきた目で、然韋を見上げた。
「天輝殿にて、陛下のお側に。それが、殿下の唯一の願いゆえ」
老兵の言葉は、彼が生涯を通してやっと得ることを許された、たった一つの真実のようだった。
然韋は頷いた。
「わかった。そのようにはかろう。陛下も受け入れてくださるだろう」
「感謝申し上げる」
備拓は深く礼をした。
「代わりに、と言っては分をわきまえぬと思われるやもしれぬが」
然韋は備拓に顔を上げさせて、
「備拓どのの役職は当面、据え置き、奏鳴宮の守りを任せたい」
備拓はわずかに驚いた。然韋は重ねて、
「あの宮を、必要としている方がいらっしゃるだろう? これは、我らの主人の最後の願いと思って、受けてくれぬか?」
「あの方を隠せと?」
然韋は視線を遠く、部屋の外へ投げかけた。
「あのように抜け殻となった方に、何ができよう。せめて、静かにお過ごしいただくことしか……」
「……右近衛はどうする? 自分たちの親王を他者に預ける連中ではない」
「だが、愚鈍ではない」
然韋は、兵たちの耳を気にしながら、
「目立てば、余計に状況を悪化させることくらい、あの副長なら察するだろう」
備拓は口を閉じ、疲れが滲んだ然韋の顔を見た。
悪夢から目覚めた然韋の前に、現実という更なる悪夢が広がっていた。
石の間の事件の噂は瞬く間に肥大して、都へともたらされた。
真っ先にそれを耳にしたのは、市中警備に当たっていた暁隊だった。犀星と縁のある暁隊の隊士に、朱市に出入りしている商人たちが群がって、あれこれと話して聞かせた。隊士は慌てて、犀星の屋敷へ走った。
「隊長!」
若く、荒っぽいが実直なその隊士は、忙しく指示を出していた涼景を見つけるや、転がるように門の中へ駆け込んできた。
「隊長、大変です! 夕泉が殺された!」
一瞬、その場にいた十数名の隊士が、しんと口を閉じて振り返った。
「詳しく話せ」
涼景は落ち着いて屋敷の中を気にしながら、声を低めた。奥の部屋では、未だ、安珠が玲陽の怪我の手当てにあたっていた。
「今朝、石の間で死体が見つかったって。夜中のうちに誰かが侵入したらしい。皇位継承をめぐって、歌仙様がやったんじゃないか、って騒ぎになってる」
涼景の頬の傷がぴくりと動いた。
「禁軍が歌仙様を探していて、たぶん、ここに来ると思う。市場の連中が朱雀門のあたりで悶着を起こして足止めしてくれているが、長くは持たない」
大声に気づいて、東雨がそっと、玄関から門を覗いた。
「捕まったら何をされるかわからない。すぐに辰巳に逃げた方が……」
「旦次を見かけたか?」
涼景は遮った。隊士は頷いた。
「朱雀門を抜けるのを見た。何かあったのか?」
「星が消えた。後を追わせた」
「え……?」
「旦次のことだから、短気を起こしたらどうなるかわからないな」
涼景は口早に言うと、東雨を振り返った。
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