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26 希望の人(2)

「聞いての通りだ、東雨。状況が変わった。陽のことを頼む」  慌ただしく馬を駆っていく涼景の後ろ姿を、東雨はもう、止めることはできなかった。  一刻も早く犀星を見つけ出し、疑いを晴らさねばならなかった。  夏に、皇子暗殺の疑惑を免れたばかりの犀星である。その舌の根も乾かぬうちに、次は第一皇位継承者の夕泉が殺されたとなれば、もはや、誰もが歌仙親王の謀反を疑って当然だった。たとえ冤罪であろうとも、ここまで状況が重なれば、そう簡単に信頼を取り戻すことは難しかった。  正面から弁明したところで説得できるかもわからないというのに、本人が行方知れずでは、さらに状況は悪くなる。  東雨は、門の前から動けずにいた。 「若様……」  無意識に東雨は呟いた。  雨はいつしか上がっていたが、空は相変わらず暗く閉ざされて、晴れ間が見える兆しはなかった。風は強く、木の枝や屋根に残っていた雫が、東雨の頬に降ってきた。  玲陽を頼む。  そう、言われた裏には、ここを動くな、という意図があることを、経験から東雨は察していた。  結局、俺は何もできていない。  東雨は両方の拳を握りしめた。  犀星を止めることも叶わず、涼景にも頼りにされない。ただ、守られるだけの自分。  何もかも東雨の力の及ばないところで動いていた。  まさか、本当に若様が?  不意に、東雨は背中が冷えた。  涼景が東雨を巻き込まないよう遠ざけたということは、その可能性も考えてのことだろう。 「そんなこと……ありえない」  裏切られたのか……いや、最初から……  東雨は、暗い空を見上げた。 『宮中では、誰も信じるな』  あちらこちらで聞かされてきた言葉が蘇った。  次の瞬間、東雨は目を見開いた。  違う! そうじゃない。  どれほどの証拠を並べられようと、東雨が見てきた現実は別のものだった。  俺は、俺が、感じたことだけを信じる。  幼かった東雨を、たった一人、認めてくれた人がいた。百人の警告より、その人の言葉が自分の生きる道を照らしていた。  東雨は、ちらりと屋敷の奥を見た。  駆けつけた安珠の早い措置により、玲陽は大事に至ることなく落ち着きを取り戻していた。  東雨は足早に、寝室へ向かった。  玲陽は傷を庇う姿勢で牀に横たわり、そばには薬を飲ませる安珠が付き添っていた。  東雨は静かに安珠の隣に座った。 「お加減は?」  控えめに、東雨は切り出した。安珠は、血に染まった布を畳みながら、安心させるように微笑んだ。 「詳しくは話さずにおこう。おまえを怖がらせるだけだから」 「いいえ」  東雨は安珠に微笑み返した。 「俺は、聞きたいです。どんなことでも、ちゃんと知っていたい。隠されることで守られるのは、もう、嫌なんです」  玲陽の目がわずかに色を濃くして、東雨を見つめた。  黄金はどこまでも美しかった。どのように磨いたとて、再現のしようのないその瞳は、命の色をしていた。 「うむ」  安珠はふたりを見比べ、頷いた。 「東雨は、傷を見ていたな?」 「はい」  頷いた東雨の頬は、少しだけ強張っていた。 「元の傷から出血しているのを、昨夜、見ました」 「うむ」  安珠は息を整えて、改めて口を開いた。 「東雨。あの傷は普通ではない」  安珠は布を重ねて示しながら、 「火傷の様子を覚えているかの? 人の皮膚は何層にもなっている。畳んだ布のようにな。外気に触れていた外側はただの皮膚ではない。傷を埋めるために無理やり作られたものでな。本来の皮膚ほど丈夫でも柔らかくもない」  玲陽は目をそらしたが、耳だけは安珠に向けられていた。傷の説明は、玲陽自身さえ初めて聞くものだった。 「問題は昨夜だ。何が起きたか、その原因はわしには説明できなが、結果ならばわかる」 「はい」 「傷の内側から、組織が裂けたのだ」  東雨の顔色が変わった。安珠はゆっくりと、 「外から切ったのではない。傷の下にある組織が強い力で押し広げられ、その力に耐え切れず、傷跡そのものが内側から破れた」 「……中から?」 「そうだ」  安珠は指先で、下から布を突いた。 「このようにすれば、繊維が裂けるだろう。それに近い」  東雨は息を止めた。 「そして、その下を通る血管まで裂けた」 「だから……あんな血が?」 「そうだ」  安珠は低く続けた。 「皮膚なら縫えば済む。しかし血管は違う。裂ければ、中から血が流れ続ける。その場に心得のある仙水どのがいたのは、運が良かった」  東雨は青ざめた。安珠はその様子を横目に見ながら、それでも続けた。 「傷そのものが治ったわけではない。今は、かろうじて血が止まっているだけなのだ。背中は呼吸するだけでも動く場所。それだけで容易に傷は開いてしまう」  安珠は静かに言った。 「次に同じことが起これば、命を落とす危険もある」  静まり返った部屋で、誰かがぎゅっと布を握る音がした。 「だから今は絶対安静だ」  のたうち回って気を失うほどの痛みに、玲陽は激しく呼吸を乱しただけで、強靭な精神力を持って耐えていた。 「何があったのか、私には何となくわかるんです」  やがて、浅い呼吸の下から、玲陽が細く言った。 「これは、しかたのないことだった。ひとつの賭けだった。あの人は私を信じてくれた。たぶん、祈ってもくれたでしょう。私は、その想いに応えねばなりません」  金色の目が、かつてなく濃い輝きを秘めて、凛と見開かれていた。何を言っているのか、東雨にも安珠にも、玲陽の言葉の意味はわからなかった。だが、不思議とその意図だけは伝わってきた。 「陽様」  東雨は、乾いた喉が引きつるのを感じながら、玲陽へ体を乗り出した。 「俺、天輝殿に行きます」  玲陽は黙ったまま、わずかに唇を震わせた。安珠は表情を曇らせたが、それ以上何も言わなかった。 「俺自身も、少し前に知らされたことなんですけれど」  東雨は胸に息を吸い込んだ。 「どうやら、俺は、自分に決着をつけなくてはならないみたいです」  玲陽は問い詰めることなく、東雨を見返すだけだった。  東雨はほんの少しの間、玲陽に見とれた。 「陽様も、終わらせるつもりなのでしょう?」  視線で心を通わせる東雨と玲陽を、安珠は息を詰めて見守っていた。やがて、血と薬が染み付いた安珠の指先が、丸薬の包みを差し出した。 「光理どの。太刀を握るのならば、これを。わずかな間ではありますが、痛みを和らげましょう」  玲陽は優しい笑みを口元に浮かべて、頭を下げた。金色の髪がわずかに光を帯びて、白銀に揺れた。 「ありがとうございます」  細いが芯のある玲陽の声が、雲間から刺す陽光のように、薄暗い部屋の中に響いた。  涼景は宮中へ馬を走らせた。途中、朱雀門で禁軍兵に拘束されそうになったが、戦場さながらの勢いで追っ手を振り切り、朱市に駆け込んだ。そのまま、大通りを北上すると、すぐに痛々しい情景が目に飛び込んできた。  五亨庵の小径の桜が、根こそぎ裂けて倒れていた。 「星……」  手綱をさばいて桜の枝を飛び越えようとして、反射的に涼景は馬を止めた。突然に轡を引かれて、馬は泥を踏み荒らした。  桜よりなお、信じがたい光景が広がっていた。  涼景の前には、小径が続いていた。本来、手前に排出される雨水は、今、道に沿って奥へと流れていた。両側の梅の木は変わりなかったが、葉を落とした先に見えるはずの群青の壁が、瓦礫となって鋭く空に刺さっていた。  五角形をした特異な庵は世界から消え、代わりに、曇天の光の下でも輝く色をした石材が、無秩序に地面から突き出ていた。屋根を覆っていた白色の瓦が周囲に飛び散り、粉々に砕けているものもあった。扉の一部が、地面から覗いていて、そこが通い慣れた内扉だったことをかろうじて伝えていた。 「やっと来おったか」  どこに隠れていたのか、慈圓が涼景を見つけて近寄ってきた。 「これは、どういうことです?」  呆然としつつ、涼景は師に答えを求めた。慈圓は達観したように落ち着いていたが、眉間の皺はいつもより深かった。 「少々、暴走があった」 「少々、ではないでしょう!」  思わず、涼景が声を荒げた。慈圓は顔色を変えずに、 「仲咲どのが、五行の石を寿魔刀で叩き割った。その後、地面が陥没して庵もろとも地下へ崩れた」 「……石を割った? 陥没?」  予想を超える情報に、涼景はどう反応して良いのかわからなかった。 「光理どのはご無事か?」 「え?」  涼景は慈圓の問いに不意を突かれて声を発した。 「師匠、どうしてそれを?」 「やはり、何かあったのか」  慈圓は唸って、 「仲咲どのがおっしゃった。五亨庵を破れば、光理どのも無事では済まぬと」 「…………」 「それでも、堰は断たれた。これより先は、時の流れにも逆らう覚悟、と。わしにはその意味はわからぬが」 「……凛はどこへ?」 「わからぬ。後は追うなと言われたのでな」 「……星は?」  思い出したように、涼景は呟いた。 「星はここに来ていませんか?」 「いや」  慈圓は首を横に振った。 「わしは昨夜から五亨庵にいたが、誰も訪ねてきてはおらぬ」 「……昨夜、から? 何のために……」  涼景の混乱が驚愕に変わり、瞬く間に血の気が失せた。 「まさか……俺は、何も聞いていない……」 「いかにあやつとて、おまえを説き伏せる奇策はなかったと見える」 「ふざけるな!」  涼景の怒鳴り声に、乗馬が気を乱して嘶いた。  虚空を睨みつける涼景に、慈圓はそっと、 「限界だったのだ。天の時が猶予を奪った」 「星はだめだ……」  涼景は血走った目で大通りを見た。 「あいつは、皇位など望まない! あいつは、ただ陽と共にいることだけしか……!」 「落ち着け、仙水」  慈圓は眉を寄せて腕を組んだ。その表情には、あらゆる苦悶を味わいつくした苦さがあった。 「伯華様は、皇帝の器ではない。おまえの悪友がそれを見抜けぬわけはあるまい」 「ならば、誰を……!」  涼景は声を震わせた。  慈圓は黙った。その沈黙が答えだった。  涼景は全身の皮膚が一度に引き剥がされるような衝撃に、体を強張らせた。 「あいつを……あいつを巻き込んだのか!」 「……承諾したそうだ」  慈圓の言葉に、涼景はよろめいて馬の鞍にすがった。 「伯華様に手出しをしない代わりに、策を受け入れたと」  眩暈と言うにはあまりに痛烈な痛みが、涼景の目の奥を貫いた。 「俺のようにはなるなと……言ったのに……ずっと、そう、言い聞かせてきたのに……」  涼景の声は嘆きに震え、やり場のない怒りと絶望に震えた。  慈圓はそっと視線を外した。 「子は親の言うようには育たぬ。するように育つ」 「俺の……せいか……?」 「そうは言わぬ。だが、一度でも言葉を交わし、思いを交わしたのならば、決して無関係ではありえぬ。人は情を介してつながり、互いに変わりゆくもの」  涼景は切れ切れに唸って目を閉じた。  頬の傷に、血がにじむ思いがした。  遠くで、雷鳴が聞こえていた。  その時、泥だらけの男が息を切らせて二人の元へ駆けてきた。 「仙水!」  呼ばれて、涼景は振り返った。  ぬかるんだ道を必死に走ってくる旦次がいた。 「見つけた!」  旦次は、荒く息を吐いて叫んだ。 「歌仙様は、奏鳴宮だ! 今、右近衛が取り囲んでいる!」 「……奏鳴宮?」  涼景の思考が、途端に正気に引き戻された。 「左近衛のやつら、歌仙様を閉じ込めて、右近衛に渡さないつもりだ」  違う。  涼景はすぐに察した。  奏鳴宮へ入ったのは、犀星自身の意思に違いなかった。 「備拓様は?」 「夕泉の遺体を確かめに天輝殿に行ったまま、まだ戻らない。急げ! このままだと、近衛同士、斬り合いになるぞ」  真実を知る者は少ない。  涼景は手綱を短く握った。 「旦次、おまえは都へ行け。暁隊をまとめて東雨を抑えろ! 何があろうと、あいつを宮中に入れるな!」 「待て! 東雨? 東雨を、か?」  旦次は耳を疑った。 「そうだ!」  涼景は吠えた。 「絶対に屋敷から出すな!」 「おい……」  涼景の馬が泥を蹴り立てて旦次の前を駆け抜けて行く。  事態を飲み込めない旦次は、救いを求めるように慈圓を見た。 「気にするな。あやつが動かした者を、そなたが止めることはできない」  慈圓の返答に、旦次はさらに困惑を深めた。 「それより、これを東雨に渡してくれ。あやつの形見だ」  慈圓は握った手を開いて差し出した。旦次は手の中のものを見て首を傾げた。黒光りする玉佩には、龍の文字が刻まれていた。

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