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26 希望の人(3)

 歴代の陰陽官に伝わるどの書物をひもといても、石の間が、清浄な空気に包まれたなどと言う記述はなかった。それは紀宗の不真面目がもたらした無学ではなく、人一倍、誰よりも熱心な彼でさえ、見つけることのできない記述だった。  禁軍兵たちがこれでもかと言うほどに自分を睨みつけてきても、紀宗は一切意に介した風もなく、ただ部屋の中を一瞥し、そして運び出されていく夕泉の輿とすれ違った。  紀宗は全身に鳥肌が立った。  石の間の禍々しさは、すべて、夕泉が連れ去ったのだと、直感が告げていた。引かれるように、紀宗は輿の後に続いた。  銀色の厚い天蓋と、黒漆の平輿は、あまりに簡素であり、夕泉にふさわしくもあった。遺体を包む布は白く、だが、わずかに百合の花弁の赤さを秘めていた。担ぎ手は寡黙に淡々と歩いた。  埋葬に当たっては、おそらく陰陽官の長であり兵の長を務める長官が当たることになるだろう。紀宗は、自分はまた面倒な手続きばかりを押し付けられるに違いない、と思いながら、今だけは、自身の好奇心に正直であろうとした。夕泉を乗せた輿は、ゆっくりと石の間の前を通り後宮の方へと運ばれていく。  輿が揺れるたび、四方に垂れた小さな珠が、乾いた虚ろな音を立てた。  しばらくの間、紀宗は誰に咎められることもなく、その後について歩いた。ゆっくりとした輿の動きは、紀宗の歩みの速さとも調和していた。  布に包まれ、板に乗せられたその体の奥底に、紀宗は今までにない妙な気配を感じていた。初めて出会う動物のような、全く異質な存在。人の亡骸と言うには、あまりにも生々しく命に溢れ、熱を秘めていた。  夕泉の死因は、毒の塗られた刃によるものだと、然韋と備拓が話しているのを聞いた。しかし、死体でありながら、まるで別の生き物に変容してしまったかのような奇妙な生命感を放っていた。  さしもの紀宗もそれ以上深く入り込むことは避け、一定の距離を取ったまま様子を伺うに留めた。  ここから先はおそらく、恐れを知らない玲家の娘の領域であろう。  石の間そのものを支えていた数百年の怨念が結晶となって、夕泉の体の内側にびっしりと張り付いているのを、紀宗は想像した。  なぜ突然そんなことを思ったのか、紀宗にもわからなかった。目に見える証拠があるわけでもない。知識が裏付けするわけでもない。それは本能的な感覚に近かった。  あの娘がこれを見たらなんと言うだろうか。  関わるな。  想像して、紀宗は足を止めた。輿は静かに遠ざかり、石の間であり続けた何かは、中殿へと連れられていった。  誰の目にも見えない空気のように、紀宗は兵たちの間を逆行して、天輝殿の階段を降り、門の前まで辿り着いた。  空を見上げればひっきりなしに雨が降り続いている。やむ気配もない。傘でも申し付けようかとあたりを見たが、急な出来事に一人で駆けつけた紀宗には、手足となる者もいなかった。  全く、ろくなことがない。  不満はあったが、それを上回る期待もまた、胸に湧き上がっていた。紀宗は降りしきる雨の向こうにかすむ景色を見た。この雨が上がる時、面白いものが見える気がした。  不意に、どこからか、大きな地鳴りと唸る轟音が聞こえた。  気の迷いかと怪しんだが、それは間違いなく現実だった。天輝殿よりも南側から吹きつけた強風が、あたりをひと撫でした。煽られた雨が不自然に横に飛び、紀宗は眉を顰めた。  風が過ぎ去り、紀宗は煩わしそうに顔を向けた。  南の空に一段と濃い雲が見えた。  五亨庵の悲鳴か。  紀宗はどっと肩を落とした。  人の身で天地の均衡を守り続けられると信じた傲慢さは、今は暗い記憶であった。  力の暴走がいかなるものか、どこへ向かうのか、紀宗には想像もつかなかった。  そのとき、更に想定外の男の声が階段の下で聞こえた。 「紀宗様じゃありませんか?」  紀宗は、視線を落とした。  破れ果てた傘の柄を大事に握り締めて、見覚えのある男が、雨でぐしゃぐしゃになった顔をひっきりなしに袖に擦りつけていた。  紀宗の目が、思わず険しくなったのは不機嫌のためではなく、ある種の失望に近い思いだった。  こちらを見上げて、緑権は大声を上げた。 「よかった、お会いできて!」  緑権は濡れて重たくなった直裾を摘んで持ち上げながら、階段を駆け上がってきた。 「こちらにいらっしゃったのは、天の恵みというものです。天輝殿の中を探せなんて言われたって、恐ろしくて足がすくみます。第一、私なんか入れてもらえそうもありませんし」  言いながら緑権は、周りの禁軍兵を伺った。誰もが、緑権が五亨庵に仕える文官であることを知っていた。だが、なぜこの時にこの場所に現れたのかを知るものはいなかった。紀宗とてそれは同じだった。 「そなたは何をしに来た」 「仲咲様から|言伝《ことづて》を頼まれました」  緑権は立ち止まると、直したところで甲斐のない身なりを整えた。曲がった巾を指先で押さえたが、じわりと雨水が頬に垂れるだけだった。 「凛からの伝言か」  緑権に無関心だった紀宗の目がぎらりとした。緑権はそんな相手の変化には気づかず、ただにっこりと微笑んだ。 「はい。宮中の排水路のお話をするようにと言いつかりました」 「排水路、とな?」  紀宗はぐるりと目玉を回した。あれこれと慌ただしくすっかり忘れていたが、以前、玲凛に頼まれて花街の地下水路について調べさせられたことがあった。数年前まで、宮中から花街に水を売るために使っていた粗末なものだった。犀星の治水計画によりそれらの水路は廃止されたが、今も密かに温存されている区画があるらしい、と、玲凛は紀宗に詳細な調査を依頼したのだ。もちろん、紀宗もただでは動かなかった。見返りとして、玲凛がそれほどまでに気にする理由を聞き出していた。  水の流れには意味がある。  玲凛は多くを語らなかったが、それだけでも紀宗にはおおよその予測がついていた。 「話とは?」  紀宗はぼそりと、しかし、雨音に負けない声で尋ねた。  緑権は満面の笑みだった。そして自信満々だった。 「先ほど、五亨庵前の水の門を開いてきたところです。そのことを伝えるように、と」  言いながら、緑権は八穣園の方をちらりと見た。紀宗は改めて宮中の水の走り方を思い出した。 「治水には詳しいと言ったな?」 「何なりとお尋ねください」  緑権は拳で胸を叩いた。ぴしゃりと雨がはねた。  庇の下で雨水を避ける紀宗は難しい顔をして立ち、一方、降りしきる雨の中でびしょ濡れの緑権は誇らしげに顔を上げていた。紀宗はそっと顎を撫でた。 「そなたが開いたという水路だが、先はどこに通じている?」  緑権は目を輝かせて、 「一度、八穣園に行きます。あの池はこの場所からも通じています」  言いながら、緑権は足元を靴で踏み叩いた。 「天輝殿の下水も、すべて一旦、八穣園に流れるよう組んであります」 「八穣園の先はどうなっている」  紀宗がたたみかけた。緑権は淀みなく、 「そこからは、いろいろです。一部は貴人の方たちのお屋敷の池や庭に引かれていますし、他は西の城壁の向こうの水路へつながっています。その先は川まで……」 「貴人の庭に引かれている……?」  紀宗はふと、奇妙なひらめきを覚えた。 「それはもしや、奏鳴宮にもつながっているのでは?」  緑権が指を一本立てた。 「その通り! 奏鳴宮の滝の水もすべて八穣園から引いているもの。伯華様が夕泉様のご希望に沿い、庭作りにお力を貸して差し上げたのです」  明らかに夕泉よりも犀星の方が上であると言う含みだったが、紀宗はそのようなことには気も留めなかった。重要なのは、《《つながっている》》と言うことだ。 「そなたの話をまとめると」  紀宗は言った。 「この天輝殿と八穣園の池、五亨庵の前の水路、そして奏鳴宮は、すべて一つの流れで結ばれていると言うことになる」 「その通りです」  緑権は頷いた。 「それらは最終的にどこへ行く?」 「ですから、西の城壁の外へ……」 「その手前だ。花街の地下はどうだ?」 「花街ですか?」  緑権は初めて考え込んだ。 「確かに、伯華様は花街についてはかなりこだわっていらっしゃいましたけれど……」 「|何故《なにゆえ》に?」 「さぁ。でも、多分、光理どののためだと思います」  緑権は口にした途端、確信に変わったように大きく頷いて、 「伯華様がなさることは、全部、光理どののため、と決まっていますから」 「それか!」  紀宗の細い目が見たこともないほど見開かれ、輝いた。 「そなたはさっさと帰るがよい。この雨は長く続く。そしてその後は荒れる。しばらく宮中に上がらぬことを勧めよう」 「でも、水路の管理が……」 「やめておけ。そなたにこの水は手に負えん」  紀宗はどこか嬉しげに言った。 「ここから先は我らの役割だ」  突っ立ったままの緑権をその場に残し、紀宗は天輝殿へととって返した。  天輝殿は、雷と雨に光り、雷鳴に脈打つように息づいていた。見る者をすくませる威圧感はいつも東雨をたまらない思いにさせた。  東雨は少しでも雨を避けて、木陰で馬の足を止めた。いつものように腹帯を緩め、首を撫で、鼻先を布で拭ってやった。何を察したのか、優しい月毛の愛馬は、東雨の胸に顔を擦り寄せてきた。 「ごめんね。ここで待っていて」  東雨は後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れた。  仰ぎ見る巨大な白い天輝殿の大階段。石段を洗うように、水が流れ降っていた。道に流れ出た雨水は、緩やかに傾斜した地面に沿って深さを増しながら、西へ流れていく。  東雨はふと、先ほど別れた玲陽を思った。奏鳴宮に向かった玲陽の背中を思い出すだけで、寂しさが湧いてきた。  玲陽と交わした最後の言葉が、思い出せなかった。  自然と、東雨は俯いた。  体にまとわりつく雨は、このまま雪に変わりそうなほど、冷たかった。 「東雨!」  呼び声に、東雨は驚きの声を上げた。慌ててあたりを見回すと、太い柱の陰から栗毛の馬が見えた。その後ろから少女が顔を覗かせた。 「宮中で、その名前で呼ばないでよ」  憎まれ口を叩きながら、東雨は途端に緊張が解けて、笑顔になった。 「何と呼ぼうが、あんたはあんたでしょ」  にやりと笑って、玲凛が早足で寄ってきた。ほんのわずかの間、雨が遠のいた気がした。 「凛、それ……」  東雨はふと、玲凛の腰に吊るされた大太刀を見つけた。 「ええ。薫風と一緒に右衛房に預けていたのを、引き取ってきたの。寿魔刀、壊れちゃったし」 「こ、壊れた?」  東雨は大声をあげた。 「あれ、玲家を守る宝刀だったんだろ」 「だからこそ、家の役に立ってもらったのよ。刀も本望だったでしょう」  東雨は額を抑えた。 「相変わらず、本当に怖いもの知らずというか、罰当たりというか……」 「実利主義なのよ。使えるものは使う。あんたみたいに、名前なんかにこだわってないわ」 「それと俺の話は別だと……」 「血よりも情、名よりも実」  玲凛は伝家の宝刀のごとく、言を掲げた。 「私にはこっちの方が真理だわ」  東雨は一時の玲凛とのやり取りの間に、自分の心を縛っていた緊張や重圧がどこかに消し飛んでいることに気づいた。 「そうだ!」  東雨は途端に頬を上気させた。 「玄草様がおっしゃってた。おまえが石を割ったから、五亨庵が崩れた、って。一体、何をしたんだよ?」 「血を絶つの」  聞きなれない言い回しに、東雨は勢いを削がれた。 「どういう、意味?」 「さだめを、絶つ」  玲凛はまた、判然としないことを言った。 「それより、陽兄様は、ご無事?」 「え?」 「一緒だったんでしょ?」 「……まぁ」  はっきりしない東雨の態度に、玲凛は隠さず舌打ちした。雷さえ恐れて勢いを弱めるほど、玲凛の苛立ちは凄みがあった。 「五亨庵を破壊すれば、何か起きるだろうと思っていたけれど」  玲凛は大きく一呼吸つくと、階段を見上げた。 「陽兄様は、今、どこに?」 「奏鳴宮」 「え? なんで?」 「若様が……一人で、奏鳴宮に行ってしまって、それを追って……」  東雨は、道中で会った旦次から聞いた言葉を伝えた。 「陽様、決着をつける、って言ってた。陽様のことだから、間違ったことはしないと思うけれど、俺にはもう、何が正しいのかさえわからない」  悔しそうな東雨に、玲凛はほんの少し、目を細めた。 「そう」  玲凛に驚いた様子はなかった。東雨は少し拗ねたように、 「凛はさ、全部知っているんだよね?」 「偶然、巻き込まれただけだけれど」

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