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26 希望の人(4)
玲凛は寿魔内侍の貫頭衣の裾を引っ張って見せた。東雨は不機嫌そうに、
「嘘だ。自分から飛び込んだくせに」
「利害の一致よ」
当然という顔をしている玲凛は、頼もしかった。
数ヶ月ぶりに再会した玲凛は、やはり、玲凛だった。東雨にはそれが雲を破る一筋の光に思えた。
「東雨。詳しいことは全部が終わってから教えてあげる。今は、前だけ見ていればいい」
「……凛は不思議だな」
東雨は油断したように、
「おまえといると、何でもできそうな気がする」
どんな嵐さえ、忘れるほどに。
自分でも気づかずに漏れ出た東雨の弱音を、玲凛は聞かなかったことにした。
「あんた、ここまで来たってことは、覚悟、決めたんでしょ? 手伝ってやってもいいわ」
「全部、お見通しってやつ?」
「かもね」
「……陛下に、会いたい」
玲凛は自分の中で何かに納得して、何度か小さく頷いた。
「簡単じゃないわよ。門前の警備が厳しくて、中に入りたいなら、強行突破するしかない。入ったところで、宝順は後宮に身を隠しているし」
「後宮に? どうして?」
「あそこは、皇帝の最後の砦みたいなものだから」
「なんで、そこまでするんだ? 逃げ隠れするような陛下ではないはずだ」
東雨は、かつて魂に刻まれた恐怖を思い出した。玲凛は肩をすくめて、
「まぁ、仕方がないでしょうね。あっという間に噂が立ったから」
「噂? どんな?」
「星兄様が夕泉を殺して、右近衛と左近衛と一緒に、奏鳴宮を拠点として乗っ取り、謀反の狼煙を上げた。禁軍も寝返って皇帝に刃を向け、陰陽官も宝順に凶相が出ていると読んだ」
「えっ!」
目を丸くして驚く東雨に、玲凛は呆れ顔で首を横に振った。
「疑心暗鬼が膨れ上がっただけの、単なる妄想かもね。でも、噂にしては、物騒すぎる」
「誰がそんなことを……?」
「宮中の噂って、誰かが得をするようにできている」
「こんな噂で、誰が得をするっていうんだ……?」
東雨は自分の想像を超えた大きな力が、裏で時代を揺さぶっているのを感じた。
『何もしなくてよい。あとは全て引き受ける』
いつか言われた言葉が、この瞬間と繋がった。
東雨は、ぞくぞくと背中が震えるような感覚と同時に、静かな怒りを覚えた。
「若様には、何もしないって言ったのに……約束、したのに……」
「たぶん、その約束とやらは守られていると思う」
玲凛は東雨の複雑な表情を、冷めた目で読み取りながら、
「星兄様に異変が起きたのは、星兄様自身が原因だから」
「……え?」
虚を突かれたように呆然とする東雨に、玲凛は呆れたため息を浴びせた。
「あんた、本当に星兄様のこと、何もわかってない」
「だって、若様は、何も言わなかったから……あ!」
東雨ははっとして、奏鳴宮の方を見た。玲凛は腰に手を当て、
「何も言わなかったからって、何もしていなかったってことじゃないでしょ」
その声には、わずかに悔しそうな響きがあった。
「|蒼氷《あお》の親王。そういう人じゃないの、あんたのご主人様は」
「…………」
東雨はすぐに反応できなかった。
「それより、問題はあんたの方よ」
玲凛は階段の両側の見張り矢倉を睨みつけた。東雨は恐る恐る見回した。見上げた天輝殿の門の脇には、槍を手にした禁軍兵の姿があった。昼夜天候を問わず、その警備は厳重だったが、今は普段以上に人が多かった。簡単に通行できるはずがなかった。
「凛、おまえ、後宮にも出入りできる、何とかっていう官位なんだろ? どうにかならないのか?」
「寿魔内侍の肩書きも、この警備下では無意味だわ。第一、私は良くても、あんたじゃ後宮には入れない」
「それなら、どうしたら……」
「本当に、何も考えずに来たのね」
何もなかったわけではないが、東雨は言い出せなかった。頼みにしていた隠し通路は、どこよりも厳重に兵たちが守っていた。
「ここに来れば、取り敢えずどうにかなるかと……」
「どうにもならないわよ」
玲凛はぴしゃりと言って、
「こういう時はね。何が何でも、自分でどうにかするものなのよ」
「え?」
「任せておきなさい。あんたを、宝順に会わせてあげる」
玲凛は、流れ落ちる雨を袖で拭った。
「でも、最後まで一緒に行ける保証はない。だから、決着はあんた一人でつけるのよ」
「そのつもりだよ」
東雨は力強く頷いた。
玲凛は一瞬、きょとんとしてから、ふつふつと笑いがこみ上げてきた。
「あんた、私に似てきたわ」
「嬉しくない」
「褒めてるのよ」
「わかってる。だから、嬉しくない」
東雨は玲凛と並んで、天輝殿正門から、白石で築かれた広大な大階段を上がった。稲妻が明るく周囲を照らし、一瞬、時間の感覚がなくなった。真昼を過ぎた時分だろうが、日が落ちたように薄暗かった。
階段の両脇には、禁軍の象徴色である黄金色の皮鎧を纏った兵が整然と立ち並び、視線で二人を牽制していた。
「止まれ! |何人《なんぴと》も通すな、との命令だ」
段を上がりきったところで、こちらを伺っていた禁軍兵たちが、機を得たとばかりに二人を取り囲んだ。
東雨は落ち着いて、旦次から渡された玉佩をたもとから取り出すと、黙って突きつけた。
「これ、何かわかりますよね?」
兵長が、玉佩にぐっと顔を寄せた。
東雨の手の中にある玉佩は、黒曜石の輝きを放っていた。
石に刻まれた龍の文字は、明らかに宝順の字体だった。また、五本爪の龍の絵が、玉の裏に描かれていた。鱗の一枚一枚までが皇帝のみに許された様式であった。
偽造することは不可能ではない。だが、勝手に模倣、あるいは所持することは、それだけで死罪に値する。偽造者が自分の命を懸けてまでこれほど精密な模倣品を手がけるはずがなかった。
黒龍の玉佩はすなわち、皇帝の継承者を表していた。
玲凛は、緊張した東雨の汗が、雨に流されるのを横目で見ていた。
背中を見て育つと、こうまで似るのね。
まだ盤石ではないものの、恐れを知らぬ策士の貫禄が、明らかに東雨には芽生えていた。
兵長は露骨に驚きをあらわにして、部下に命じた。
「た、隊長をお呼びしろ!」
悲鳴の声に、部下たちが戸惑って周囲を見回した。
「何事だ?」
兵が呼びに行くより先に、然韋が閉ざされた門の隙間から姿を現した。
東雨は後じさったものの、掲げた玉佩は隠さなかった。
然韋は無表情のまま、東雨を見下ろした。然韋の動かない目は、自分の心を読まれないために身につけた沈黙だった。
長く、雨にうたれる東雨と然韋の姿が、石像のようにじっと向かい合っていた。
雨音と雷、そして突風が世界をかき乱した。
「祥雲殿下」
突然、然韋は、東雨の前に膝をついた。あっけにとられた禁軍兵たちは、恐ろしいものでも見るように、その光景を凝視していた。
「すぐに、中殿へお通ししろ」
然韋は、立ちすくむ部下たちに口早に命令した。
「親王様に傘を! 火を起こし、代わりの衣を用意せよ!」
その言葉に一番驚いたのは、他ならぬ東雨だった。玉佩を握りしめ、思わず袖に隠した。
然韋は東雨に道を示しながら、
「殿下。部下の非礼をご容赦ください。真実はかくも見え難く、虚構はかくも容易く人を欺くものにございます」
こいつ、随分な神経をしてるわ。
玲凛は、初めて見る禁軍大将の気質を見抜いて、そう、唸った。
然韋に導かれ、東雨と玲凛は天輝殿の深くへと進み入った。
理解の追いつかない禁軍兵が、互いに視線で牽制しあっていた。
噂通り、然韋が宝順に反旗を翻したのだとすれば、自分たちまでが反逆者となってしまう。このまま放置して良いものか、それとも逃げ出すべきか。
部下たちの落ち着きのなさを感じながらも、然韋はそれを無視した。
物心ついた頃から天輝殿に通っていた東雨も、このような表側へ足を踏み入れたことは初めてだった。
石畳や手すりには、びっしりと尾の長い鳥や雲の緻密な彫刻が施されていた。前殿までは極めて直線的で、広い回廊は多くの臣下が並んで皇帝を迎え入れるためのものだと想像できた。
「あんた、あれ、本物?」
玲凛が、東雨にしか聞こえない声で囁いた。
東雨は泣きそうな目で、玲凛を見た。
「知らない。さっき、旦次様に渡されたんだ。玄草様から、俺に持たせるように言われたって……」
「あんた、いいように利用されているわね」
玲凛は憐れみさえ感じられる顔をしていた。
先導する然韋が、どこまで信じたのかはわからなかった。だが、重要なのはこの状況そのものであり、各々が抱く魂胆ではなかった。
然韋は、突き当たりの謁見室へ入った。右衛房の練兵場ほどもあるのではないかと思われるその広さに、東雨は驚きを隠せなかった。
然韋は、厚い石壁に設けられた仕切りを抜けて、さらに奥の中殿へ向かった。
皇帝の寝所であり、女性達による模擬都市とも言える、宮中の中の集落。後宮と中殿との境には、謁見室に劣らぬ広場があった。石壁の窪みに等間隔で置かれた油灯の炎が、低い天井に怪しげな影を落とし、現実感を奪っていく。
東雨も玲凛も、それぞれに石の間を思い出していた。
そこは一般の官吏の立ち入りが制限される境界であり、後宮への正式な前室だった。
明かり取りの欄間から入ってくるのは、雨音と閃光、そして地面を伝う雷鳴だった。装飾を一切排除した黒檀と石だけの無機質な空間は、現世と仙界の境のようだった。
然韋はついに足を止めた。だが、そこに宝順の姿はなかった。
「陛下は……さらに奥。後宮にいらっしゃる。宇城様のお側に」
然韋の苦渋に満ちた声が、静まり返った広間に響いた。宮中の構造を熟知する然韋にとっても、現在の後宮は全容の知れない迷宮へと変貌していた。宝順が身を隠した宇城の居室への道すら、わかるはずもなかった。
一行が後宮へ通じる大扉を見上げた時、慌ただしい気配が彼らを阻んだ。
部屋の左右の通路から、ばたばたと乱雑な足音が押し寄せ、東雨たちの前に武装した男たちが立ちはだかった。後宮を管理する宦官兵の一団であった。
彼らの眼光には、武人の忠誠とは異なる、底のない執着が宿っていた。 宦官にとって皇帝の代替わりは、特権の喪失を意味する。それはすなわち、生の拠り所を失うことと同義である。
「ここを通すわけにはいかぬ」
長らしい年配の男が言った。玲凛は名は知らぬが、紀宗の一つ上の位の陰陽官であることは覚えていた。
「知ってのとおり、これより奥は、そなたらのごとき|全躯《ぜんく》の男の侵入は許されぬ」
不貞を避けるためとはいえ、これは東雨にとっては痛烈な皮肉であった。宝順の所業により、今の東雨は男ではなくなった。しかし、宦官とも違っていた。
長は、声高に叫んだ。
「世の秩序を正し、陛下をお守りするのが我らの役目!」
「建前はどうでもいいわよ」
玲凛はつかつかと進み出ると、冷ややかに言い放った。
「あんたたちの役目は、皇帝を守る事じゃない。自分の権威を守ることでしょ」
宦官兵たちは玲凛を見知っていたが、玲親王の推薦で迷い込んだ、寿魔内侍という|俄《にわ》か勤めの女だと、たかをくくっていた。
形ばかりの、中身のない女。
それが、宦官の玲凛に対する評価だった。
長は露骨に不機嫌な顔をした。
「道理を解さず、知恵もなく、軽率な娘になど、永遠にわからぬ人の道よ」
「あら、そう」
玲凛は、雨に濡れて重くなった白麻の貫頭衣の帯を解き始めた。一同の間に動揺が走ったが、東雨だけは慣れきった様子で何も言わなかった。
「これでも、あんたたちより、道は知ってるつもりなんだけど」
貫頭衣の下に隠されていたのは、動きやすさを重視した軽めの革鎧だった。東雨はそれに見覚えがあった。右近衛が揃いで用意しているものに違いなかった。玲凛が右衛房から持ち出したのは、愛馬と愛刀と、そして彼女には大して役に立たないと思われるこの鎧一式であった。
脱ぎ捨てた貫頭衣を、玲凛は隣の東雨に無造作に押し付けた。
「……それ、持っていて」
東雨ははらはらしながら、玲凛の動きを見守った。
久々に手になじむ大太刀を、玲凛は嬉しげに正眼に構え、臨戦態勢をとった。相手は誰でも構わない。空白の数ヶ月の憂さを晴らせるのなら、大義名分も必要ない。正義とやらにも興味はない。
玲凛の背中から、東雨はそんな愉悦が湯気のように立ち上るのを感じた。腕の中で、貫頭衣からぽたぽたと雫が落ちたが、それすら、玲凛の熱に焼かれて床の上で一瞬で蒸発していくようだった。
変わらない。
東雨は、寂しさと嬉しさを半分ずつ噛み締めた。
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