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26 希望の人(5)
玲凛は獲物を見る狩人の目で宦官兵を捉えながら、
「然韋様。あんた、立場上あいつらを傷つけられないでしょ? 私がやるから、黙って見てて」
「おまえ……!」
然韋の答えなど、玲凛が待つはずがなかった。たとえ聞いたところで、行動を変える玲凛ではなかった。
咆哮とともに、玲凛は宦官兵の群れに飛び込んだ。少女には不釣り合いなほどの長さと重量を誇る大太刀は、縦横無尽にその場を制圧した。打撃は骨を砕き、兵たちの悲鳴さえ斬り裂いた。禁軍兵さえ後じさって、玲凛から距離をとった。中には、初めて間近に見る実戦の凄まじさに、震える者までいた。
権力にしがみつく宦官兵の数は予想を超えて多く、玲凛といえども一人では限界があった。普段は後宮に散っている兵たちが、総出で部屋に押し寄せた。しかし、数の有利があろうと、一人一人の力量は、到底玲凛に比べるべくもない。次々と戦意を喪失していく部下に業を煮やし、兵長は何やら口の中で呟くと、竹筒に入れた赤黒い液体を周囲に撒き散らした。
それが、血と臓物を混ぜ合わせたものだと、玲凛は匂いですぐに察した。
長がにやりと笑って言った。
「顔も潰れて見分けもつかぬが、腕は確かだ」
玲凛が身構えるのと、巨体が立ち上がるのは同時だった。
異様にざらつく臭気。
広間の石床には、肉を固めた巨体から滴り落ちる血と濁った液が混じり合い、石の床に広がった。雨水よりも滑りやすく、足場は途端に悪くなった。
肉人形が放つ腐敗した臓物臭が吹き付けて、玲凛の鋭敏な嗅覚が抉られるように痛んだ。
「陰陽の術、か」
然韋は後ろに東雨をかばい、部下をさらに下がらせた。禁軍を動かせば宦官勢力との全面戦争になる。東雨を自らの金色の甲冑の背に隠し、歯を食いしばって見守るしかなかった。
「いかに紀宗が認めた寿魔内侍と言えど、あのようなものを相手取って、武力で敵いはしない」
諦めかけた然韋の声に、東雨はなぜか、優越を感じた。
「そうでもないです」
東雨は言った。
「凛を、侮らない方がいい。暁将軍が認めた、唯一の剣士です」
東雨の意外な言葉に驚きつつも、然韋は前方を見つめた。
皮のない肉人形は、まさに、異様の極みであった。刀を使わず、剥き出しの筋肉の収縮のみで、人を超える跳躍や打撃を繰り出し、玲凛の予測を裏切る動きで襲いかかった。
玲凛はためらいなく、大太刀を腹に突き刺した。
急所だった。
だが、痛みを感じない肉人形は、太刀が深く食い込んでも構わずに、その巨体で玲凛を圧殺しようと、長さの違う両腕を伸ばした。足で胸を蹴りつけて太刀を引き抜き、玲凛は後ろへ跳んだ。
「今だ、殺して構わぬ」
長の号令のもと、宦官兵たちが無秩序に襲いかかった。
四方八方を囲まれ、正面からは疲れを知らない肉の怪物が襲ってくる。
逃げ場のないこの窮地こそが、玲凛の活路を開いた。
正面衝突では体格差で不利な玲凛は、周囲に並ぶ宦官兵たちを足場にした。踏みつけ、蹴り上げ、高く飛んで肉人形の首を落としにかかった。
振り回された腕の一撃を避けるため、近場にいた宦官兵を引っ掴んで自分の前に放り出した。玲凛の盾とされた兵の体が、勢いよく殴り飛ばされ、壁に激突して動かなくなった。
「なんだ、これは……」
玲凛の見事な実戦力に、然韋も目を見張った。然韋の中に残っていた玲凛への侮りが、跡形もなく粉砕されていくのが、そばで見ていた東雨にもわかった。
玲凛は大太刀の重さと遠心力を使い、肉人形の四肢の腱を正確に狙い、物理的に機動力を奪う、解体を応用した戦法に終始した。それはどこか、巨大な獣をさばくのにも似ていた。
だが、どれほど玲凛の腕が立とうと、体力には限界があった。
肉人形の切り裂かれた肉は、切り口の間に細い|蚯蚓《みみず》のような繊維が蠢き、瞬く間に引き合って修復された。
「きりがない」
肉人形を動かしている核は『術』である。見抜いた玲凛は、背中に隠した寿魔刀を左手に構えた。刀身はとっくに砕け散り、残るは柄のみであった。
東雨は困惑した。
いかに呪術を切る寿魔刀と言えど、哀れな姿になった末に、何ができるというのか。
「これでも喰らいな!」
玲凛は、思い切り、柄を肉人形に投げつけた。東雨の目が、あっけにとられてまん丸になった。
よりによって、一族の宝ともいうべき寿魔刀の、最後の扱いが投石と同じとは。
東雨の憐憫をよそに、玲凛は声を上げて、肉人形に迫った。
柄の食い込んだあたりを目掛けて、大太刀を振りかぶった。太刀で肉を削ぎ、剥き出しになった内部をさらに縦に切り裂いた。寿魔刀の柄が、さらに肉人形の内側に押し込まれた。
東雨は耳元で、赤く熱した炭に冷水を浴びせたような音を聞いた。
打撃と、なけなしの寿魔刀の力。
それは玲凛にとって、最後の賭けだった。肉人形は悲鳴さえなく、ただ、水の焼ける音を発しながら、空中へと霧散していった。
自分たちの権力を象徴する術が、一人の少女の物理的な暴力によって崩されていく光景に、宦官たちの虚構の権力が剥がれ落ちていく。
同時に、もはや、後には戻れぬことを悟った殺気が、玲凛ばかりか、然韋や東雨にまで襲いかかった。
然韋はとっさに刀で東雨をかばったが、何度跳ね返されても、宦官兵の攻撃は止まなかった。
「やるしかないのか」
然韋が覚悟したその時だった。
背後の石床を激しく蹴立てる足音が響き渡った。東雨は振り返った。そして、もう、驚く力すらない顔で、そのあまりの様子を絶望的に眺めた。
天輝殿の美しい床も、敷かれた高級な毛氈も、焚かれた上品な香りも、何もかもが蹴破られた。
「どけえッ! 暁隊だ!」
旦次率いる紅蘭切っての厄介者の乱入である。
型も礼儀もない、泥を啜って生きてきたならず者たちの喧嘩戦法が、整然とした三百年の秩序を粉砕していく。
「おまえたち、正気か?」
然韋は思わず叫んだ。
「俺たちが、まともだった試しはねぇ!」
旦次の怒号に、暁隊士たちは次々と咆哮を上げた。
「馬鹿……」
玲凛は呟いたが、すぐに宦官兵へと太刀を向け直した。
「そこの隊長っぽいあんた! 宝順に用がある。ここへ呼んで!」
「ふざけおって」
宦官兵長が吐き捨てた。
「そのような無礼、陛下がお聞きになるはずがあるまい」
「ならば、こっちから行くから、ここを通して!」
玲凛が負けじと怒鳴った。
その間にも、問答無用で暁隊士たちは、宦官兵を殴り倒していた。
宦官兵長が、叫び声を上げた。
「これより先は、後宮の庭。お通りできるのは、皇帝陛下お一人だ」
「皇帝が通れるっていうなら、次の皇帝だって通っていいんでしょ!」
玲凛がまた、突拍子も無いことを叫んだ。
気づいた数名の隊士がざわめき、その中で旦次が東雨に気づいた。
「東雨、もしかして、あの玉佩は……」
そばにいた隊士が驚いて、
「なんだ? 東雨が皇帝になるのか?」
「そうよ!」
玲凛は無責任にそれを煽った。
「皇帝? 東雨が?」
「宝順より偉くなるのか?」
「馬鹿か! 同じになるんだ」
「おもしれぇ! 隊長の敵討ちだ!」
暁隊士が興奮して口々に叫んだ。
「あんたたち、手伝いなさい! 祥雲帝の誕生よ!」
「おお!」
まるで、自分たちの仲間が大手柄を上げた祝杯、という勢いで、隊士たちはあっさりと東雨の即位を歓迎した。東雨は慌てて手を振った。
「そ、そういうわけでは……むしろ、俺は……」
後継などのためではない。東雨の理屈はもっと単純であり、しかし、事実は新時代の到来を招くという一大事だった。
興奮の絶頂にある暁隊に、何を言っても無駄だった。
然韋が、混乱に乗じて動いた。玲凛と旦次たちが宦官兵を惹きつけた隙に、然韋は禁軍兵と共に後宮の巨大な扉をこじ開けた。然韋は東雨を振り返った。
「祥雲殿下! 奥へ!」
「え? で、でも……」
「ここは我々が食い止めます。殿下は宇城様のお部屋へ!」
東雨の怯えた表情を見つめて、玲凛は不敵に笑った。
「大丈夫、もう、怖がらなくていいから」
「凛?」
東雨は涙を堪えて玲凛を見た。
「あいつはもう、星兄様が喰っている頃だから」
「え? 凛、それ、どういう意味……!」
「さっさと行って!」
玲凛の手が、東雨の背中を強く突き飛ばした。
「今のうちに!」
玲凛は縦横無尽に刀を振り回した。その顔には、戦場とは思われない笑みが浮かんでいた。
「さぁ、行け、東雨!」
力自慢の暁隊の男たちが、数人がかりで後宮に続く扉を更に引き開けた。本来、裏から閂がかかっているはずの扉は、今はあっさりと両開きにされた。
中から、手引きして鍵を外した者がいたらしい。
「おまえはそっち、俺たちはこっち!」
隊士達は荷物のように東雨を小突いて、部屋の奥へと押し込んだ。勢い余って床に突き飛ばされ、痛みに一声呻いて、東雨はよろよろと立ちあがった。
「血を辿ればたどり着く!」
玲凛の声が、閉まり始めた扉の向こうから聞こえた。
「凛? それ、なんのこと!」
東雨は部屋に戻ろうと駆け寄った。だが、それより早く扉が乱暴に閉じられた。東雨は扉にすがって拳で叩いたが、どうにもならなかった。刀の音と叫び声に混じって、扉の向こうに重たいものがぶつかる音がした。
びくりとして、東雨は後じさった。喧騒が、はるか遠くに聞こえていた。
東雨は一人、後宮の奥底に取り残された。 腕の中には、まだ温もりの残る玲凛の着物があった。湿った空気と、鼻を突く濃厚な香の匂いが瞬く間に東雨に絡みついた。
皇帝の落胤という逃れられぬ血の宿命を抱えた少年は、途方に暮れながらも、暗い回廊の先に待つ、父という名の男へと足を踏み出すしかなかった。
いつもなら警備に当たっている宦官軍は全て、玲凛たちとの戦いに駆り出され、しんと静まっていた。忙しく働いている女たちは、皆、暴風雨と宦官の戦いを恐れて、部屋に閉じこもり、しっかりと戸を閉めていた。
「宇城様の部屋って、どっちだよ……」
東雨は途方に暮れて周囲を見回した。
「やっと、来たか」
背後で低い声がして、東雨は振り返った。
薄紫の袍をまとった女が一人、立っていた。が、声は男のものだった。
「え……?」
東雨は周囲を見回したが、他に人影は無かった。
「あの……俺、陛下を探していて……」
正直に答えてしまってから、東雨は我に返った。
「そいつを寄越せ」
女は、東雨の返事を待たずに、玲凛の着物を奪い取った。
「それは……ええと、寿魔内侍様の衣で……」
「違う。地図だ」
女は着物を裏返して見せた。袋になった薄い色の裏地には、黒糸で複雑な縫取りがされていた。
「後宮の、見取り図だ」
女は繰り返した。東雨は思わず覗き込んだ。
不器用な玲凛の慣れない針仕事の成果には、ところどころに血の痕があった。
「ついてこい」
女は東雨の先に立って地図を読みながら足早に進んだ。
東雨はそっと、女の横顔を伺った。髪と面纱で隠していたが、どこか見覚えがあった。
「あの……」
「急ぐぞ」
追求を避けるように、女は足を速めた。
不揃いな段差と複雑な分かれ道、似たような景色が繰り返し現れては、時折、外の光が遮られる暗い廊下を通り抜けた。
女はしきりに地図と周囲を確かめながら、身軽に進んだ。
地図に残されていた血痕は、決して玲凛の不名誉を表すだけのものではなかった。縫取りの地図に染み込んだ血の跡は、意図して仕組まれたものだった。そしてその意図を、女はすっかり理解しているらしかった。
東雨は何度も足元の段や、手探りになる通路に翻弄されながら、それでも精一杯に女を追った。
雨音だけが、静寂に響いていた。壁一枚向こうには、大勢が息をひそめる気配があったが、小石を転がすほどの音も立たなかった。
怖い。
熱に浮かされた感覚を覚えながら、それでも東雨は顔を上げ続けた。天井を流れ降る水音は、自身の体を巡る血の音にも思われた。
ふっと湿った風が前方から吹きつけた。角を折れると、回廊の庇の隅に座る紀宗の背中があった。東雨は歩速を緩め、紀宗の横で足を止めた。いつしか、案内していた女は姿を消していた。
「結末とは?」
振り返りもせずに、紀宗が問うた。その横顔には、疲労困憊の色が見え、体は一層小さくなっていた。
「結末とは……?」
東雨は繰り返し、何も考えずに答えた。
「たぶん、始まりと同じものです」
紀宗は微動だにせず、
「ならば、これは、始まりの景色だ」
東雨は紀宗の視線を追って、開けた庭の方へと顔を向けた。
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