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26 希望の人(6)

 雨はいつしか、凍りつくほどに鋭く尖っていた。  東雨は広がる庭園を見回し、ぞくりと肩を震わせた。  半ば以上色づいた橘の木立に隠れて、男女が寄り添っていた。  雨空の沈んだ光の下で、女の浅黄色の艶のある単衣が目を引いた。開いた袖から覗く白い手首が、男の頭を膝の上に支えていた。  黒に見えた男の着物は、水を吸った濃緑だった。墨色の地紋が弱い光の加減でかすかに浮き上がり、龍の姿を描いていた。肩を包む柔らかな淡灰の肩掛けを、女がそっと直した。  記憶とは別人のようでありながら、男は宝順帝に違いなかった。だとすれば、女は正室の宇城と思われた。  打ち付ける雨は宝順の体を溶かし、大地へと還す雪解けの日差しにも似ていた。東雨には、宝順の衣の裾が泥と一つに繋がり、身も心も土へ帰ろうとしているように見えた。  水へ溶けていくのは、一人の人の命ではなかった。  遥かな年月、数も知れない多くの魂と情念とが形を持った、不可思議な存在だった。  人の体に宿ったそれは、宝順が、夕泉が、その身と名と命を賭して、葬ることを誓った闇だった。  東雨は宝順を見つめたまま、一歩、庭へ降りた。  水が跳ね、雨がその髪をまた濡らした。  一歩。  一歩。  一歩。  その小さな一歩が、東雨を本当に望む場所へと連れていく。  女がそっと視線を上げたが、すぐにまた、下ろした。その仕草だけで、もう、残る時間が少ないことがわかった。  東雨は迷わなかった。  自分はここへ来なければならなかった。今この瞬間に立ち会うことが運命づけられた、逃れようのない、同時に、生まれる前から望んでいた願いであるかのように思われた。  大国のすべてを手に入れたと言われた皇帝が最後に見る景色は、自分であるべきだと悟っていた。  それこそが、相応しい。  この時代に共に生きた者として、成すべきことだと信じていた。  東雨は、弱り果てた相手を、なんと呼ぶべきかわからなかった。何も言わず、傍に寄り添い、その手を辿り、自分にもわからない想いを込めて、冷たくなり始めた大きな手をそっと握った。  最初で最後の、わずかなひととき。交わした黒い瞳の色が、血よりも濃く深い絆を信じさせた。  宝順もまた、同じものを悟っていた。乾いた唇が何事かを呟き、眩しげなその目が、ここに辿り着いた東雨をしっかりととらえた。  生きて、生きて、生きて、東雨はここに来た。この日まで来た。それが、何も持たない東雨の、たった一つの誇りだった。  前を見続けた証だった。  その誇りを、宝順は最期まで見つめ続けた。  それはある時、突然目の前に現れる。  巨大な岩が崩れ去り、見たこともない景色に覆われる。  犀星は故郷に似た水のほとりに立ち、東の空を見つめていた。  胸の中の感情が、一滴残らず蒸発してしまったように空っぽだった。  心の凹みには、かつて美しい水が溜まっていたはずだった。  それは犀星の胸から、どこか別の場所へと旅立ってしまった。  初めは、その空白を、新しい水で埋めようとした。  だが、どうしてもうまく注ぎ込むことができなかった。  何もない。  それが小さな罪悪感として、犀星の奥でちりちりと痛んだ。その感触に、犀星はふっと世界が広がるのを感じた。  見回せば、一面の紅葉だった。  美しすぎるのに、涙はこぼれなかった。  大地と色づく木と、滝を流れ落ちる水。  この景色は、あの人と見たはずだった。  それが誰のことであったのか、犀星は凍てついた仮面の下で思い出そうとし、途方に暮れていた。  忘れていた。  どうしてここにいるのか、何を思い出そうとしているのか、自分は誰だったのか。  空を仰いだ犀星の頬に、ぽつりと、小さな雨粒が落ちた。  瞬く間に、激しい雨が戻ってきた。  雨は滝に混じり、池に溶け、水路を走った。犀星の目の奥に残されていた最後の光が、音もなく尽きた。  吸い寄せられるように、犀星の片足が水に入った。  激しく滝から下る水は、いつになく荒れて|濁々《だくだく》と池の中にとぐろを巻いた。水に浸った犀星の白い裾が、雨とは違う色に濡れていった。  足元でのたうつ、水。  絡みつくその感触を味わうように、犀星は目を閉じた。  奏鳴宮の庭に涼景が姿を見せたのは、それからすぐ後のことだった。備拓に守りを命じられた左近衛と、犀星を取り返そうとする右近衛の殺気立った空気を一喝して、涼景は回廊を走るように庭へと急いだ。両の近衛たちはしっかりとした説明もないまま、それでも一度お互いを見ただけで、おとなしく従った。  軒に吊るした銅鐘に雨が当たって、星屑を擦り合わせたような音を立てていた。ただ、少し風が強すぎた。音は張り詰め、長春花の棘で擦るように痛かった。  雨の中に見慣れた姿を見つけ、ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、新たな不安が叢雲のように涼景の胸に湧いた。  犀星は膝下まで、水の中にいた。  降り続く長雨で水かさは増し、いつ、事故が起きないとも限らなかった。  涼景は近衛たちに見えないよう、顔をしかめた。  犀星は、水をよく知っていた。それゆえに、決して|侮《あなど》りはしなかった。だというのに、今の犀星はまるで、入水する決心を抱えたように流れに踏み入って無防備だった。  涼景は声を掛けたが、滝と雨、そして遠雷がそれをかき消した。たとえ、呼び声が届いたところで、振り返る様子でもなかった。  涼景は雨に濡れながら、庭に降りて池の淵に立った。  改めて名を呼ぼうとて、涼景は喉が締まった。雨に打たれて池の中に立つ犀星の横顔は、魂が抜けたように蒼白だった。それは、命が感じられない、石の彫刻のように、美しく整って冷たかった。  涼景の不安が、焦燥に変わった。悪夢は残酷なまでに、涼景の未来を切り刻んでいた。  誰だ?  涼景が問いかける相手は、どこにもいなかった。  滝の水が耳の底に轟いて、滝壺を強く打ちつけた。その音と衝撃が、細かな振動として地を伝わり、奏鳴宮を揺らしていた。家鳴りのように、宮は震えた。  絶えることのなかった弦楽が、今は聞こえなかった。  時が、切れた。  涼景の頭に、そんな言葉が浮かんだ。  同時に、脈絡もなく、一年前の光景が思い出された。  それは、歌仙でのこと。犀家での一場面だった。  犀遠に語られた情景は、いつしか、涼景の妄想の中で、自分の体験と変わらぬ鮮やかさで自分の記憶のように鮮明に思い出された。  こちらに向かって伸ばされた、優しい手のやわらかな温もり。 「…………」  涼景は唇の動きで、犀星の名を呟いた。  たとえ、そこに残されたのが|器《うつわ》だけだったとしても、自分が守ると誓った人。それが犀星だった。  友であり主人であり、それ以上の何かだった。  変わり果ててしまった今も、涼景の気持ちは微塵も揺らいではいなかった。  何があろうとも、最後まで涼景は犀星の盾であった。  涼景を追ってきた左右の近衛隊は、牽制し合いながらも、暁将軍の号令を待っていた。  事実、両部隊が戦う理由など、初めから存在してはいなかった。  全て、宮中の暗い情念を求める皇家の計らいの産物だった。  静謐な雨の庭を見守っていた近衛の後ろから、何人かの叫び声が聞こえた。  涼景は犀星を視界に残しつつ、視線だけをそちらに向けた。  制止を叫ぶ声に混じって、 「光理様!」  右近衛らしき兵の呼ぶ声がした。  涼景は大きく振り返った。 「星!」  突然、玲陽が涼景の前に躍り出た。その手には、すでに群青の鞘から抜かれた大太刀が力強く握られていた。黒い着物に沁みて見えるほど、背中には血が滲んでいた。  涼景は咄嗟に玲陽を突き飛ばし、犀星を守って刀を抜いた。 「陽、どういうつもりだ!」 「どけなさい!」  玲陽は体勢を立て直すと、踏み込んだ。涼景の小太刀が曲線的な玲陽の剣筋を横へ逃し、大太刀が足元を薙ぎ払った。玲陽は俊敏に飛び退いた。砂利が滑って耳障りな音を立てた。 「もう、終わらせるんです!」  狂気すら感じる玲陽の表情に、涼景は両手の刀を交差させ、重心を低めた。 「血迷ったか!」 「私は正気です!」  玲陽は叫んだ。 「涼景様こそ、その人を守って何になるんですか!」 「俺は星の近衛だ。何があろうと!」 「星の命なんて、とうに尽きている!」  玲陽は涼景の向こうで、遠くを見つめたまま振り返りもしない犀星を睨みつけた。 「それがわからないんですか!」  玲陽の言葉にも、犀星は眉一つ動かさない。涼景は一瞬迷い、それでも、その場を動こうとはしなかった。 「星……あなたはいつもそうだ……」  玲陽の声は、強く弾かれた弦のように震えていた。 「そうやって、そ知らぬ顔して、自分だけで始末をつけようとする」  犀星は、じっと滝を見ていた。 「あなたは、ずっと前からそうだった」  砂利の感触を靴底に感じながら、玲陽は太刀を横に構えた。 「でもね、星。もう二度とあなたにそんなことはさせない。私が絶対にさせない」  玲陽は一気に間合いを詰めた。  涼景は素早く刀を突き出し、玲陽の一撃を弾き返した。それは体に刻み込まれている本能にも近い防衛だった。  幾度も、刀と刀が容赦なくぶつかり合う音が雨音を切り裂いた。  涼景が応じるより一瞬早く、玲陽は犀星との間合いを詰めた。  稲光とともに玲陽の刀が閃いた。涼景の体が玲陽の力を滑らせて翻り、振り向きざまに胴を薙いだ。その一閃を、玲陽は危なげなくかわした。  切っ先が絡み合い、骨に響く音を立て、足元では水と泥が泡立って雨音と混じり合った。  稲妻が瞬き、ふたりの視界を雨風が遮った。 「私は絶対に許さない」  玲陽は、かすみそうになる目を見開いた。傷の痛みは感じなかったが、体中から力が抜けていくのがよくわかった。  涼景と打ち合いながら、玲陽は犀星に向かって叫び続けた。 「わかりますか。私、今、ものすごく怒っているんです」  鍔迫り合いで近づいた玲陽の頬がわずかに光った。  新月の光。  涼景は、唐突にそれを思い出した。  今夜は新月だっただろうか。数える暇もなく、玲陽は一歩下がって涼景の脇腹に回し蹴りを放った。玲陽に迷いはなく、容赦もない。体の傷はやむを得ぬとしても、精神の強さは人並みはずれていた。  涼景もいつしか、本気になっていた。  左近衛と右近衛はどう動いてよいかわからず、見守ることしかできなかった。ふたりとの力の差は歴然としていて、割って入る者はなかった。 「引かない!」  玲陽は、腹の底から声を絞り出した。互いに踏み込む間合いを計りながら、一刀一足の間合いに構え、呼吸を整える。少しでも早く、少しでも深く、次の一撃に全身全霊をかける。  両者の力は拮抗していた。傷がある分、玲陽の方が不利なはずだった。だが、それをものともしない気迫が燐光となって、じんわりと玲陽の体の内側から溢れていた。  ふたりの本気の太刀筋が雨を裂き、雷光を弾き、雷鳴と重なった。足場の悪い水辺の戦いだというのに、どちらの動きにも淀みがなかった。  玲陽の重たい一刀に涼景の小太刀が弾き飛ばされ、犀星の額をかすめた。それが、始まりだった。  ゆらりと犀星の体がこちらへ傾いた。玲陽は息を飲み、涼景は振り返った。  犀星は静かに刀を抜いた。こちらへ向けられた瞳は見開かれ、恐ろしいものを見るように、涼景を見据えていた。犀星は素早く水から上がると、大きく薙ぎ払った。その剣筋は真っ直ぐに涼景に向いていた。戦場の勘で、涼景は一撃を免れた。 「星っ……?」  涼景が困惑を振り払う間もなく、玲陽が犀星の間合いに踏み込んだ。後ろに飛び退いた犀星の前に涼景が割り込んだ。玲陽の刀が再び、涼景の刀に阻まれて大きく逸れた。涼景の背中に、犀星の刀が斜めに振り下ろされた。涼景は泥に転がってかわすと、跳ね起きた。  犀星は涼景を狙い、玲陽は犀星を狙い、涼景はその間で犀星を護る。  すでに何と戦っているのかすらわからず、涼景は混乱した。  自分を殺そうとする犀星から身を守りつつ、犀星に襲いかかる玲陽の狂刃を打ち返す。息つく間もない紙一重の攻撃が、涼景を取り囲んでいた。  踏みしめた砂利の中の小石が、聞こえないほど小さな音を立てて割れた。  きっかけなど、何でもよかった。涼景という器を溢れさせる最後の一滴。

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