81 / 83

26 希望の人(7)

 涼景は玲陽の腹に肘を打ちあて、さらに柄で力強く突き上げた。崩れかける玲陽の体に乗りかかって飛び越えると、一歩前まで涼景がいた空間を、犀星の刃が斬り裂いた。よろめきながら玲陽は犀星の腕を掴んで引き倒した。すかさず涼景が牽制の太刀を玲陽目掛けて降りおりした。振り向きざまに玲陽が刀を構え、腰を落としてを防ぎ切った。犀星が下から涼景の喉元へ刀を突き出した。自分を囮に犀星を引きつけ、玲陽との間に割って入った。  俺は誰と戦っている?  涼景は複雑な軌道を描く犀星と玲陽に集中しながら、おぼろげに達観した。  俺は、誰を、守っている?  答えは永遠に得られない、無言の終焉。  戦うことをやめた時、全て終わるのだと、涼景は感じていた。その瞬間を少しでも遠ざけたくて、己を鼓舞して声を発し、全身で二人を受け止めた。  三人が等しく距離を取り、一点でぶつかり、また散った。  雨の間を縫う三枚の刃は、行く先を見失った鳥の羽のように旋風に翻弄され、幾度もぶつかりあった。風を裂き、雨を断ち、震える|刃音《はおと》が重なり合った。  近衛たちの目に、その光景は危機であるよりもむしろ、美しい舞に思われた。  秋の冷たい雨に打たれた紅葉が、彼らの白刃に落ちて赤い小さな光を放ち、泥の中に沈んだ。 三鳥向東飛 雷震落首喙 奪羽仲鳥墜 無足永恒翔  渦の中で、玲陽はあらゆる色が混濁したねっとりと絡みつく想いに、体を包まれていた。自分の最も深い奥底にため込んでいた言葉が、喉へ上がってきた。 「あなたは、私から大切なものを全て奪った」  玲陽の目は、犀星だけを見ていた。  犀星は玲陽には目もくれず、涼景だけを執拗に狙った。  玲陽には、それがまた悲しかった。 「あなたは、誰も救ってなんていない」  絶叫は雷鳴よりも遠くへ響いた。 「あなたの記憶は、あなただけのものじゃなかったのに!」  押し殺した激情は痛くその喉を突いた。声は泣き崩れたが、玲陽の太刀筋はいっそう鋭さを増し、その一撃は激しく、犀星の太刀を弾いた。 「返してください。私の大切なあなたを返して!」  絶叫が雷鳴を破った。  玲陽の足元にふわりと赤い色が落ちた。傷口が開いて、大量の血が流れ出していた。雨に混ざって血は瞬く間に広がった。  ほんの一瞬、三人は呼吸を合わせた。視線が交叉し、時が飛んだ。 「|翔陽《しょうよう》」  わずかに落ち着いた玲陽の声が、真名を呼んだ。  犀星の指先が一瞬震えた。 「あなたと、いきたい」  玲陽は構えた。総身の限界が近かった。初めて手にしたときのように太刀は重く、肩が痛んだ。  犀星が、わずかに刀を下ろした。防御が解けた一瞬に、玲陽は踏み込んだ。  視界を横切る玲陽の影に、涼景は動くことができなかった。  すれ違う刹那、玲陽の心が見えた気がした。  犀星の胸を刺し通した刃は、滝を貫いて石の隙間に突き立った。  圧倒的に世界が崩れる。  その光景に、涼景はただ、声も出せずに凍りついた。  玲陽の体が静かに犀星に寄り添い、犀星もまた、最後まで玲陽を見つめ続けていた。二人の体が滝の向こうへと消え、一瞬、大地がぐらりと揺れた。  手前へ流れていた水が逆流し、全てが滝壺へと落ちていく。  涼景は我に返ったが、時はすでに遅すぎた。  滝壺の底に空いた深い穴が、水もろとも何もかもを飲み込んだ後であった。   ・  厚ぼったい木簡に記された濃い墨文字に、初冬の日の光がちらちら揺れていた。几案の上には、布に書かれた図面がきちんと揃えて置かれていた。  東雨は木箱の蓋を少しだけずらして、中を覗き込んだ。乾いた藁に包まれて、灰色の鳩が一羽、首を傾げた。東雨はうっすらと微笑んだ。今の彼に残された精一杯の感情が、その柔らかい頬に満ちていた。 「少し寒いけれど、大丈夫かな?」  呟いた声をどう思ったのか、鳩は傷の癒えた翼を羽ばたかせ、箱を飛び出した。数本の藁が黄金色に輝いて東雨の胸元に散った。その鋭くも淡い煌めきを力強く打って、鳩は色薄い都の空へ飛び立った。  目を細めて、東雨は仰ぎ見た。  羽音はすぐに聞こえなくなり、わずかにきらりと陽に輝いていた尾羽の軌跡は一筋の雲のように伸びて、やがて、透明になって空に溶けた。 「逃がしてしまわれたのですか?」  東雨から目を離すまいと、数名の近衛が、すぐ脇に膝をついていた。  その中の一人が、落ち着きなく、こちらを伺っていた。湖馬だった。 「はい、もう、飛べますから」  東雨は頷くと、振り返った。  一瞬目があって、湖馬は息を飲み、顔を伏せた。  その仕草に、東雨は、繋いだ手をそっと振り払われた気がした。湖馬もまた、所在なさげに視線を落としたままだった。  雪が降る前に、奏鳴宮の庭の水は止められていた。それは凍りつく季節に向けての当然の処置のようでもあり、また、別の何かのためとも思われた。  深く崩れた穴の周囲には、安全のため、重たい格子が立てられていた。先日、数名の陰陽官が来て、格子の数カ所に、複雑な模様と読めない文字が描かれた護符を貼って行った。それが何を意味するのか、東雨にはわからなかったが、二度と、格子の向こうの世界には行けないような気がして足が震えた。  今朝は一面に霜が降り、あたりは墨絵のように色を無くした。東雨はそれを美しいと思ったが、誰に話すこともなかった。  この一月半の間、記憶は曖昧になっていた。記憶は断片だったが、確かに現実の出来事だった。  東雨の傍らには、一連の行事を取り仕切る慈圓が付き添い、常に気難しい顔で周囲に睨みをきかせていた。  東雨は促されるままに状況に流されながら、時折り、頑として意思を曲げず、湖馬たちを困惑させた。  先帝と夕親王の葬儀には、黙って参列し、最も高い席に座った。  東雨には、後宮は必要のない場所だった。宇城を始め、女たちに郷に帰ることを許した。庭となっていた土地は耕作地として開墾し、行くあてのない者にはその畑の世話を任せた。  その計画を東雨が口にした時、参謀としてそばにいた慈圓は、甘いと辛いを同時に味わった表情を浮かべた。  基本的に、東雨は従順だった。慈圓たちのやり方に素直に従って文句は言わなかった。だが、いくつか、どうしても東雨が意志を曲げないことがあった。  一つは、住まいの件だった。皇帝の住まいは天輝殿と決まっている。だが、東雨は当然のように、それを拒んだ。  東雨は、自分の寝所に奏鳴宮を選んだ。慈圓も湖馬も、今はそれが最良の方法だと理解していた。  さらに、五亨庵に対しても、東雨は独自の意見を通した。  跡地を詳しく調べたいと言う陰陽官は多かったが、東雨はそれを許可しなかった。小径から先を禁足地とし、厳しく守らせた。    景色を覆い隠す雨も、太陽を遮る重たい雲も、現実感を遠のかせる。  だが、そんな見えにくい世界が、今は希望であると感じた。  風が、何かの香りを運んできた。遠い昔に出会ったことのある、憧憬の香りだった。  足元には、ひっそり芽吹いた名も知らぬ花が、根を下ろしていた。土を掴み、風に耐え、雨に打たれ、それでも開いた花と、まだ開かぬ硬いつぼみに温もりが宿る。  東雨は知らず知らずにまた、うっすらと微笑んでいた。  冷たい風が手の甲を包んだ。  慌ただしい日々が遠のき、ようやく、呼吸を許された空白の午後は、静かに宵へと傾きつつあった。  空はもう青さを失って、ただ雲と同じ色彩に変わった。西のほうにわずかに白く残った光を見上げて、東雨は夜の向こうに朝を祈った。  明日は来る。必ず。  そのまなざしに、雲がゆっくりと流れて答えた。  もし、世が世であり、時代が別の方向に向けて流れていたのなら。  大地がほんの少し北へ傾いていたのなら。  見える世界もまるで違ったものになっていたはずだ。  だが、そうはならなかった。そうならなかったことが、さだめだった。  雲間から、悠々と広がる空の奥行き。  地平線の下の太陽に照らされ、雲の底だけが夕焼けに染められていた。  振り返れば色あせた天空に雲が踊っていた。  風と雲と光が、空を生かしていた。  久しぶりに東雨は命を感じた。  目の前の小さな棘ばかりが気になって心を痛めていた日々の向こうにも、確かに世界はあり続けた。揺れていた東雨の視線が、ぴたりと止まった。  雲の切れ間に、強い瞬き。夕暮れの西空に輝く、たったひとつの星。太陽の一滴がこぼれたような、凛とした青白い光芒に、東雨は涙が込み上げた。唇を噛み、その想いをそっと殺す。  流れる雲が星の光を遮り、やがて何事もなかったように、空は静かに夜へと向かう。  満天の星が輝いたとしても、夕焼けの中で見たたったひとつの光は、どんな星空よりも美しいだろうと思われた。  まっすぐに、あの星に向かって歩いて行く。  それは東雨の心に刻まれた道標だった。  一日が暮れる。  雲の輪郭は、空の手前にくっきりと際立っていた。似たように見える雲も、実際には濃淡があると見えて、陽光が波のように筋を作り、雲の揺らぎで静かに空を動かしていた。  冬の風がまた、香った。  ゆっくりと夜へと動いていく時間の中で、小さく、鳥のさえずりが聞こえた。姿はなく、風音に混じってどこからか差し込んできた。  きっと、明日は晴れる。  東雨は当然であるかのように、そんなことを思った。  朝靄の中で畑の手入れをして、新しい青菜を摘み取って、暖かな粥を炊いて、大切な人に茶を淹れる。そうして、また新しい日が始まる。  それが永遠に来ないのだとしても、夜が来るたびに、東雨は次の朝を願うだろう。  その幻に青春のすべてを閉じ込めて、氷の器の小さな炎を守るように、命尽きるまで抱き続ける。  それは、東雨に残された唯一の自由であり、彼が東雨であったことの残り香だった。  雨と雲の向こう側に、確かに新しい日が待っていた。  何も言わずに空を見上げる東雨の背中を、ざわつく胸を抱きながら湖馬はじっと見つめていた。 「風が冷たくなって参りました。お体に触ると良くございません。お早くお部屋へお戻りください」 「……最近、そんな言葉をよく聞くようになりました」  東雨は優しく返した。それから吐息と共に、 「ほんの少し前まで、俺が、誰かにそう言っていました」 「……どうかご自身にこそ、御慈悲をおかけ下さいますよう」  うつむいたまま、湖馬はさらに声を小さくした。東雨はその姿を見下ろし、わずかに首を傾げた。 「顔を上げて下さい」  東雨の奥から、自然と言葉が湧き上がってきた。 「人と話しをする時は、相手の目を見るものです」  自分の声を聞きながら、東雨は少しだけ胸が冷たくなった。  湖馬は戸惑いながらも、顔を上げた。  目線の高さは違っていても、二人の間には懐かしい距離が残されていた。  湖馬は息を飲んだ。  侍童として、近侍として、そして世を継ぐ者として、この目の前の優しい人が歩んできた道は、どれほど魂を削り取り、その形を変えてしまったことだろう。それでもなお、東雨の黒い瞳は、眩かった時代のまま曇ることなく、鏡のようだった。  私はまだ、そばに居られる。  この人のために身を尽くそうと、湖馬は密かに心に誓った。  どのような生涯が祥雲帝を待ち受けていようと、自分だけは最後まで、そのそばで見届けよう。  不器用な気持ちを精一杯に込めて、湖馬はひたすら見つめ続けた。  東雨の目に、そのまっすぐな思いは確かに届いていた。届いてはいても、東雨にはそれを受け取る意思はなかった。返事が見つからず、頷くこともできず、ただ、せめて、微笑もうとした。  東雨が欲したのは忠誠ではない。  懐かしい日に、自分を友と呼んでくれた、あの優しく包み込む声が聞きたかった。  誰もが、一人。  東雨もまた、一人。  霧の中をくぐり抜けるように、数々の甘い記憶をすべて背中の向こうへ見送って、思い出の中の星影を頼りに、新たな道を歩むのだ。  軽快な足音が、回廊の奥から響いてきて、力強い暁将軍が曲がり角から姿を表した。 「陛下」  厳かに呼びかけ、二歩の距離まで近づくと、涼景は膝をついた。一連の動きは洗練され、流れるように美しかった。身は低めても、涼景の目はしっかりと東雨の顔を見据えていた。東雨は苦笑した。 「おまえにそんな真似をされても、嬉しくない」 「お言葉なれど」  涼景は微笑すらせずに、 「陛下に対し礼を欠きましては、近衛隊長どのにお叱りを受けますれば」  涼景はちらっと湖馬を見た。真っ赤になって狼狽える湖馬に、東雨はため息をついた。

ともだちにシェアしよう!