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26 希望の人(8)

「涼景。おまえ、最近本当に性格が悪くなったぞ。暁隊にばかりかまっているからだ」 「すでに官位は退きましたゆえ」 「それは……」  東雨は口を尖らせた。涼景はさらりと、 「今の臣のありようは、陛下のご命令にございましょう?」  どこまでも丁寧な口ぶりで、それでも全く敬意が感じられないのは、そこに情がないからだと、東雨にもわかっていた。  左右の近衛は一つになり、禁軍もまた、そこに加わった。涼景は一線から身を退き、暁隊に籍を置く一介の武人として、外から東雨を見守る位置についた。副長を拝命した備拓と然韋の支えを受けながら東雨の側近を任されたのは、年若い湖馬だった。  無造作に、涼景は立ち上がると、残っていた二歩分の距離を詰めて、東雨に並んだ。途端に東雨の肩から力が抜けた。  雪の気配の夕闇が、全てを飲み込んだ奏鳴宮の庭に広がっていた。歌仙から持ち込んだ草花は寒さに震え、凍えていた。東雨の髪が、葉と同じように静かに揺れていた。  いつだったか、この髪を撫でてくれた人が懐かしくて堪らなかった。 「みんな、同じだった」  東雨は囁いた。 「大切なものが違っていただけなんだ」  その目は寂しげに、天の低いところを見つめていた。  涼景は触れることもできず、ただ熱の伝わる距離に立って、その横顔を見下ろした。  白い肌、黒い髪と瞳。  幼かった東雨は、今は皇帝として国の頂点にあり、それでもなお、無垢な心を失ってはいなかった。  奇跡、かもしれない。  涼景は穏やかに目を細め、東雨を見つめた。  この人は、何もかもが失われてしまった世界に、残酷に残された、情の結晶なのだ。 「今朝、凛が顔を見せた」  涼景は東雨に並んで遠くを眺めながら、 「出立が遅れると面倒だから、会わずに行く、と」 「そう……」  東雨は目を細めた。 「凛には、犀家のこともいろいろ頼んだから、挨拶したかったけれど……」 「改めて言わなくても、わかっているだろう」 「そう、だな……それで、あいつは、いつ、戻る?」 「一年を空けずに帰ると言っていた。だが、今回のことは玲家も看過できない事態だ。凛と言えど、簡単にはいかないだろう」 「凛なら、約束を守るよ」  東雨の囁き声は、凍った石に滴る雫のように響いた。 「そういうやつだろ、あいつは」 「そうだな」  涼景の吐息には、確かな疲労が感じられた。東雨はそっと涼景を盗み見た。  短い間に多くを失い、これからまた、大切なものを失う涼景に、今はそれ以上、何も告げることはできなかった。  こうやって沈黙し、人は孤独になっていくのか。  東雨の胸に空いた小さな穴を、紅蘭の冬の風が吹き抜けた。  俺は、決して、自分を諦めたりしない。  東雨は、押し流そうとする心の傾斜に、あえて逆らった。  一言でも多く、一瞬でも長く、本心で語り合えること。たとえ傷つく真実であろうとも、優しい嘘はつかないこと。  東雨にはまだ難しかったが、理想はしっかりと見えていた。 「謀児……様は?」 「辰巳へ。冬支度に忙しいらしい」  短く、涼景は答えた。 「師匠も玄武池のあれこれに駆り出されいる。隠遁するのは先になりそうだ」 「紀宗様は?」 「花街の地下の水路の調査にのめり込んでいる。商売の邪魔だと、店主たちから苦情が絶えない」  涼景は落ち着いた声で、 「紀宗の調べでは、『日』の文字の形に掘られた、巨大な貯水槽が見つかったそうだ。星が作らせた図面が、花街の小さな宿の隅に残されていた。洪水から宮中を守るためだったのだろう……」  言いながら、涼景は自分でも納得していない口ぶりだった。東雨は察した。 「若様が、陽様以外のために、何かするとは思えない」 「……そうだな」  涼景はわずかに声を震わせた。 「それに関して、紀宗が妙なことを言っていた。あの水路は呪いの仕掛け、力を満たした水を導き入れたのは、初めからの算段、と」 「……それなら、わかる気がする」  東雨は小さく呟いた。  国の長きを支配してきた怨念を飲み込んだ器は、たった一つ、望んだ光とともに、微笑んで水の底へ沈んだに違いなかった。  花街は玲陽への贈り物だと、いつだったか、犀星が独り言を漏らしていたことを、東雨は覚えていた。  こうなることは、すべて、若様の思惑だった。 「今頃、きっと、うまくいったと笑ってる」  東雨は庭の景色へとその目を戻した。  混乱の最中、自分には及びもしないことが起きたいた。  東雨が知らずとも、誰かがどこかで、痛みを引き受けて支えてくれた。  懐かしい人の背中は見たくなかった。  自分が見送ることなど、考えたこともなかった。  別れはもっと先だと、そして別の形だと疑いもしなかった。 「何もかも……」  言いかけて、東雨は黙った。  涼景は尋ねなかった。  太陽が遠のくにつれ、雲はその存在感を増した。彩度が落ちた空一面に、風と水と光が溶けて、不思議な模様が続いていた。  どこを見ても、一様ではなく、いつを切り取っても同じではない。この空の見え方は、人の生き様と同じだ。  ならば、生まれては消える雲は、何に重なるのだろうか。希望か、期待か、涙か。  何にせよ、その瞬間にしか存在し得ない幻に近かった。  それが何であれ、今はただ霧の香りと肌を濡らす夕暮れの風に包まれていることしかできない。  東雨は袖の端を指先で摘んだ。  どこまでもちっぽけで、力のない自分に命があることが不思議でならなかった。  自分にも、誰かのために花を咲かせ、実を結ぶことができるのか。  その問いかけは、東雨の一生に残酷な影を落とし続けるだろう。  かつて憧れた星の輝きがあまりにも眩しい。あの輝きに比べては、自分がこれから成すすべてのことは、無駄にも無益にも無力にも思われた。  それでも進まずにはいられない。ここに留まり続けることはできない。  時が巡り続けるように、生が巡り続けるように。  遠くで雲が鳴っていた。その下では雨が降っているらしかった。  やがて静寂がひたひたと寄せてきて、草木は雫をきらめかせ、音もなく風に揺れた。  この煌めきの|一雫《ひとしずく》が、やがて花になり、実になるのだ。そして種となり、新たな土地に希望を運ぶだろう。  それを、東雨は見届けることができるだろうか。  たとえ自らの命がその時を迎えることなく尽きたとしても、今この瞬間、その時を祈った自分の思いは決して消えはしないと信じたかった。  東雨が信じる限り、確かに思いはここにあった。消えはしない。消せはしない真実だった。  誰かが思い続ける限り、何者もこの世界から消えてなくなりはしない。  それは儚い夢なのかもしれない。唯一の力なのかもしれない。  一迅の風が、東雨の足元から遥か天へと舞い上がった。風を受けて東雨は目を細め、隣に立つ涼景を見上げた。薄暗がりの中で、涼景の頬の傷が色鮮やかに浮かんで見えた。  傷つきながら、笑って支えてくれたその頼もしさと、そうさせてしまった後ろめたさが、東雨の孤独な心を揺さぶった。  自分の血を知った運命の夜、東雨を突き動かした激しい想いは、確かに涼景に繋がっていた。憧れ続けた暁将軍に、少しでも近づくことができただろうか。こうして並んでいても、東雨と涼景の間を、目には見えない、決定的な何かが遮っていた。  東雨の視線に気づいて、涼景は黙って顔を向けた。大切な人を見失った嵐の日から、涼景は感情を手放したように、笑わなくなっていた。微笑を浮かべても、それは仮面のように硬く、温度が感じられなかった。  烈火のごとき燕涼景の威勢は、あの日を境に永遠に失われたのだと、東雨は知っていた。それでもなお、抜け殻の心で戦おうとする涼景の姿は痛く、狂おしくさえあった。湖馬も、他の近衛たちも、皆、涼景を長にと望んだが、東雨はそれだけは頑として拒んだ。  東雨とて、涼景を信じたかった。  だが、湖馬から聞いた犀星の最後の行動が、警鐘となって頭の奥で鳴り続けていた。  若様は、意味もなく、行動する方じゃない。  それは、東雨が犀星のそばで、自分自身で導き出した答えだった。  それに、これは、俺の約束の守り方だ。  東雨は拳を握りしめた。  涼景を自由にすること。  何もかも、そのためだけに組み立てられた筋書きだったことを、東雨は理解していた。まさに血を吐く命と引き換えの決意を、東雨は裏切る気にはなれなかった。  たとえ、最愛の主君がその名を貶められようとも、である。  名などにこだわる人ではない。  東雨はそう、確信していた。  歴史は虚実を合わせて、語り継ぐだろう。  暗殺者によって夕親王を殺害し、玲家の不穏な力を用いて宝順帝を呪いに落とし、皇位を狙った玲親王の謀反。その陰謀を暴き、父帝の仇を討った世継ぎの皇子。  疑惑にとどめる若干の配慮を交えて、それでも真実のごとく、人々は後世に伝えていくのだ。  歴史が謀反人の汚名を着せようとも、犀星は何も言わないに違いなかった。引き換えに手に入れた情と実を前に、微笑むだろう。それはあまりに犀星らしい幕引きであった。  今も、一緒にいるのでしょう?  東雨は、崩れた滝壺を見た。  あなたはそのために五亨庵を守り、花街を育て、俺を生かしたのだから。  東雨は目を閉じた。その睫毛にわずかに光が宿っていた。  涼景は、東雨の焦がれるような表情を、いつかどこかで見たような気がした。 「東雨」  そう、涼景は呼んだ。声は甘く、まるで都に残してきた屋敷の庭先で聞くように、柔らかかった。 「天輝殿へ、移る気はないか?」  東雨の震える肩に、そっと温かい手が置かれた。すっと、冷たさが東雨の背中を伝い落ちた。 「ここでは、警護が難しい。天輝殿ならば、幾重にも囲いがある。守りやすく近衛の負担も減らせる」  東雨は黙っていた。  涼景の声と、言葉が、別のもののように聞こえた。強い手の力が、東雨の肩を掴み、抱き寄せるように胸に引いた。東雨は逆らわなかった。逆らわず、しかし、安堵よりも悲しみで胸が張り裂けそうだった。  どうして、おまえが、そんなことを言うんだ?  言葉にすれば、すべてを壊してしまいそうで、東雨は沈黙することしかできなかった。必死にこらえ続けていた涙が、ついに頬に溢れた。  涼景は東雨の耳の後ろへ唇を寄せた。 「陛下……」  囁かれた声にくらりとして、東雨は膝が震えた。体の芯に、やり場のない熱が灯った。肌は冷たく、身の内は熱い。頭は冷えて、心は煮えた。  湖馬が耐えかねて、小さく咳払いをした。  東雨は指先で涼景の胸を押し返した。 「湖馬様」  東雨の眼差しに込められたえも言われぬ苦しさを読み取って、湖馬は唇を引き結んだ。 「無理ばかり言ってごめんなさい。せめて、今夜は皆さんを休ませてあげて下さい」  東雨は、震える声を殺して、深呼吸をひとつした。 「警護は、涼景だけで大丈夫ですから」 「しかし……」 「明け方に、交代をお願いします」  そう言って、東雨は小さく湖馬に頭を下げた。 「……かしこまりました」  寝室へと入っていく東雨と涼景の姿を、湖馬は不安そうな顔で見送った。  涼景はちらりと湖馬を振り返った。目が合って、湖馬は思わず声を上げそうになった。涼景の目は、湖馬の知る誰でもなかった。  翌朝。  まだ陽の昇らぬうちに涼景は東雨の部屋を出て、人気ない回廊を歩きながら、ふと、東の空を見上げた。  霞を照らす暁の光が滲むその空に、涼景は無防備に微笑んだ。  暁に祈る。  長い間、静かに心の奥底に抱いていたつぼみが、ようやくゆっくりと開いていくような心持ちで、涼景はまっすぐに空を仰いだ。  始まりの時を、今も覚えていた。あの頃に夢見た未来へ、また、歩みだしたかった。  次こそ、道に迷わない。  涼景のそばを、沈丁花の香りが吹きすぎた。  途端に視界が反転して、身体は無造作に回廊に崩れた。季節外れの曼珠沙華の温かい花弁が、庭の隅からこちらを見つめていた。  涼景の表情はどこまでも穏やかだった。その目は朝の光を宿して静かに空を映したまま、二度と閉じられることはなかった。

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