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第5話 それ、本当?
でも、俺の逃走劇はものの数秒で終わってしまった。
「颯斗!」
千里くんの右手が、鞄を持った俺の左腕をがっしりと掴んだからだ。
夏並みに暑い日が続いているけど、十月からはブレザーの着用が決められている今。
布越しでは伝わらないはずの千里くんの熱が、左腕から全身に広がっていく。
腕、振りほどきたいけど、千里くん相手にそんなことできない。
どうしようか迷っている間に溜まった涙が決壊しそうで、俺はドアから視線を外さずにいた。
「な、何?」
それなのに、千里くんはぐっと俺の腕を引いた上に、俺の頬に手を添えてきた。
優しく導かれて、俺は千里くんの方を振り返る。
そこには、春のひだまりのような柔らかい微笑みを浮かべた千里くんがいた。
かっこよくてどこか可愛らしい、今まで見たことのない表情に、俺の心臓は胸を突き破って飛び出しちゃいそう。
「俺は、颯斗が好きだ」
ゆっくりと噛み締めるような、誓うような言葉。
びっくりしたけど、聞き間違いなんかじゃない。
千里くんは今、俺のことを好きと言った。
「お、れ……?」
「そうだ。颯斗が久我家の個展で、初めて花を展示したときから」
「そんなに前から?」
だって、それは俺が四歳のときだ。
あのときの作品はよく覚えている。
自分で育てた朝顔を使った夏の展示作。
母さんから「朝顔の花はひとつかふたつにしなさい」って言われたんだけど、俺は「賑やかにしたいからいっぱいがいい」って譲らなかった。
俺が一歩も譲らなかったからそのまま展示された拙い作品を、千里くんは見たってこと?
「そうだ。落ち着いた花の中に、弾けるような光を見つけた。それを作ったのが颯斗だって聞かされて、目で追うようになったんだ。きっと、そのときには好きだった」
「でも、俺たちって高校になるまでそんなに関わりなかったよね?」
「なんて話しかければよかったかわからなかったんだよ」
千里くんは気まずそうに視線を逸らした。
その顔は真っ赤で、耳まで染まっている。
誰とでも堂々と話す千里くんが、俺相手には迷って声をかけられなかった。
それは、とても特別なことなんじゃないかな。
どうしよう。
嬉しいんだけど、なんだか恥ずかしい。
「いつも一生懸命なのも、俺と同じくらい強いところも。それから、俺に可愛い顔を向けてくるのも。だから、付き合ってくれ」
顔を上げてじっと俺の目を見る千里くんは微笑んでいるけど、その瞳は少し潤んで揺れている。
「え、ぁ……そ、の……俺、は……」
思ってもみなかった千里くんの言葉に息が止まりそう。
だって、てっきり千里くんは生徒会長が好きだと思っていたから……。
千里くんは嘘を吐く人じゃない。
だから、俺を好きっていうのは間違いなく本当のこと。
その事実に、胸の傷はあっという間に癒えていき、嬉しさで花が咲き乱れていく。
千里くんにずっと伝えたかったこの気持ち。もう、言っていい?
「ねぇ。颯斗の気持ち、教えて?」
潤んだ視界が鮮明になった。
ぽろりと溢れた涙を指先で掬った千里くんは、じっと俺の目を見て待ってくれている。
その期待に応えたい。
心を曝け出すのはちょっと怖いけど、俺は千里くんの隣でいつまでもずっと笑い合いたい。
「俺も、好き。ずっとずっと前から、好きだったよ」
緊張して心臓はバクバクしてるし、口の中はカラカラに乾いてる。
舌がもつれちゃったけど、ちゃんと千里くんの目を見てやっと言えた「好き」の言葉。
うわぁッ……どうしよう言っちゃった!
嬉しいけど、すっごく恥ずかしい。
なんなの、これ。
体がめちゃくちゃ熱い。
俺だけが緊張して恥ずかしがってるみたいで落ち着かない。
だから、千里くんそろりと視線を外そうとしたんだけど。
「え……ん、ふ……」
その前にぐっと引き寄せられ、千里くんの腕の中に捕らわれる。
それからすぐに重なった熱い唇。
目を見開いたその先には、はちみつみたいにとろける甘さを湛えた千里くんの瞳があって……。
チュッと乞うように唇を食まれる。
キスは初めてだから、ドラマや映画で軽いキスや深いキスがどんなのかわかっていても、自分でするってなると難しい。
息ってどうやってするの⁉︎
わけもわからず少しだけ口を開くと、千里くんの舌がぬるりと入ってくる。
ざらついたそれが俺の舌に絡みつくと、コーヒーのほろ苦い味がした。
その苦味さえも美味しいと感じるから、キスって凄いね。
でも、考える余裕があったのもそれまで。
千里くんの舌が優しく口の中を撫でていく。
くすぐったくて気持ちいい。
特に、舌の裏側をゆっくり撫でられると、腰がじんと熱くなって力が抜けちゃう。
だんだん息が上がってきて、くらくらして、でも幸せで。
千里くんに体を預けて抱きつくと、優しく吐息で笑われた。
チュッと軽やかなリップ音を立てて唇を啄まれ、千里くんが離れていく。
それを追いかけて背伸びをするくらい、俺は千里くんとのキスに夢中になっていた。
「ありがとう。嬉しい」
「お、俺も……嬉しい、よ」
息も絶え絶えに言葉を返すと、千里くんが耳元に唇を寄せてこう言った。
「この続きは卒業後に、な」
「え……?」
低く掠れた声は、唸っているようにも聞こえる。
ご飯を目の前に我慢しているライオンみたいな、そんな感じ。
てっきりこのあとゴニョゴニョするのかと思ったんだけど……。
え、待って、卒業後?
「卒業って、あと一年以上先だよ?」
「そうだな。でも、俺の役職、何?」
「風紀委員長でしょ」
「正解。風紀を取り締まる俺が、風紀を乱すのは?」
「うわ、あ、そっか……よくない、ねぇ……」
「だろ?」
千里くんは眉尻を下げて困った顔をして一歩下がった。
千里くんと密着していた体が途端に冷たくなる。
仕方ないし納得はしてるんだけど、やっぱり寂しいなぁ。
急降下した気持ちに引き摺られるように、自然と視線が下がる。
それを掬うように、千里くんは俺の左手をそっと握って持ち上げた。
「一緒に我慢。な?」
宥めるような声とは裏腹に、艶のある綺麗な千里くんの唇が俺の左の薬指をクチュリと啄んだ。
「千里くん!」
「ごめん。つい」
パッと手を離した千里くんは、両手を挙げて降参のポーズを取る。
でも、その顔は満足そう。
これはどう考えても確信犯!
「煽った責任。卒業したらちゃんと取ってね?」
「もちろん」
力強く頷いた千里くんは優しく微笑んだ。
でもね、俺、気付いてるよ?
千里くんの目の奥は、腹ペコのライオンみたいにギラギラしていたことに。
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