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『詩雨の心が俺から離れた』という冬馬の言葉が信じられなかった。  そう冬馬に思わせようとして、また近づいてくるのではないかと心のどこかでいつも不安になっていた。  そして冬馬自身の心も。  こうして僕と婚姻関係を結び、一緒に暮らしていても。僕を守り(いつく)しんでくれていても。  心の片隅には詩雨が棲んでいるのではないかと。  それは名前のつけようもない『想い』。  僕への愛よりもずっとずっと強く結びついているようなそんな気がする。  詩雨が撫でていた場所を今度は冬馬が愛おしむような、それでいてどこか淋しげな表情で撫でている。 「あの紐は、ずっとそこにあったんだ」 「そうか」 「でも、陽に照らされ、風雨に晒され、次第に擦れ切れ、とうとう昨年の嵐の晩に……」 「そうか」 「すまない」  何に対して謝っているのか。 「いいよ。それはおまえに返したものだ」  詩雨はそこに何もないことが少し嬉しいような顔をしている。  やはり、詩雨の『恋心』はもう冬馬にはないのだ。  それでも彼の心には冬馬に対する『何か』が残っているのだろう。 「じゃあ、オレたち行くよ」 「え?」  それには僕も驚いて声をあげた。 「中に入っていかないの?」  僕は今初めて彼に声をかけた。  詩雨は僕にも(いと)おしむような表情を向けている。 「それは――また、今度。そのうちに」 「何しに来たんだ」  淋しげな顔はもうなく、冬馬は呆れたように言った。 「まぁ、今日はちょっと話に? それからオレたちの報告も――秋穂」  彼もまた僕の名を初めて呼んだ。 「変わったね。すごく幸せそうだ、良かった」  僕は詩雨が嫌いだ。  たぶん、彼も僕のことが嫌い。  でもその言葉は嘘偽りないものだとわかる。 「うん。今が一番幸せだよ」 「オレもだ」  僕らは微笑み合った。これもまた嘘偽りのない笑みだ。  僕らの関係は複雑だ。 「じゃあな」  ハルの腕を取ったままくるりと背を向ける。しかし、すぐまた向き直った。 「なぁ、冬馬」 「ん?」 「冬馬はさぁ、少しだけハルに似てるよな」 「そうか?」  冬馬が怪訝そうな顔をする。  今までずっと無表情だったハルの口元がむずっと少しだけ動いたような気がした。  どこか嬉しげに見えるその表情の意味が、僕にはなんとなくわかったような気がする。 『冬馬はさぁ、少しだけハルに似ているよな』  もしこれが冬馬のことを想っている頃の詩雨だったら。 『ハルは冬馬に似ている』  そう言っていたかもしれない。  実際二人が出会った頃、詩雨はそう思っていたのだろうと僕は確信する。  それが逆転したということは、真実今の彼の心は冬馬ではなく、ハルにあるということだ。

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