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第10話

 ロレティカの母であり、前候爵夫人の名はゼシカ・フォロバトンと言う。  三歳の頃に聞こえた使用人の話しをまとめるなら、候爵領の端にある街に住んでいた母上は、視察に来ていた候爵に見初められ、強引に抱かれた末に子供を孕まされたらしい。  妊娠した母上は仕方なく候爵家に連れて来られて子供を生んだ。  そうして生まれたのがロレティカだった。  それから母上は、嫌いな夫との間に出来たにも関わらずロレティカを育ててくれた。愛してくれていた。  ──そう思ってたのに、ロレティカが候爵の書類に水を溢してしまい、躾部屋に閉じ込められた夜。  母上は候爵家から消えた。  街で両想いだったらしい男性の痕跡を残して、街中で消えたと、翌日、躾部屋から出たロレティカは知った。  それから母上の行方は知らない。  候爵は母上が逃げたことに苛立ち、俺をいじめて八つ当たりをして来たけれど──。 (直ぐに愛人だった現候爵夫人と再婚し、俺を地下書斎に閉じ込めて、妻と連れ子のオルガを迎えいれた……)  最初は泣いたし、迎えに来てくれるって思ってずっと、ずっとずっと、思って暮らして来たけれど。  愛する人と消えたと云う母上は、城下町にさえ現れることはなかった。    ロレティカはサンドイッチを食べ終わると、スープを飲み干して手を合わせる。   「ごち、そうさま、でした」 「ロレティカ様、完食出来てすごいです」 「将来きっと大きくなりますね」 「作らせた甲斐がありましたぁ」 「つくって、くれたひと、にも、おいしかった、つたえて!」  はいと頷くメイドに皿を片付けられると、今度は真っ白な紙と、色とりどりのクレヨンが置かれた。   「こちらお絵かきセットです」 「私たちは仕事をしてますので楽しんでください」 「もちろんいつでも声をかけてくださって大丈夫ですよ」 「わかった。……ううん、なに、かこうかな」  何を書こうか迷ったが、考えている時に目の前にミルクが置かれて、ロレティカはカップを書くことした。  その様子にメイドたちは部屋の掃除や、ベッドメイキングに追われる。  ロレティカはこれまで、クレヨンを握ったことがなかった。  前世では内気な性格で、メイド長の言われるままに授業がすぐにはじまって、広間に差し込む強い日差しに晒されたことや、リーリックのいじめに合い、身体を壊したのだ。  たった一ヶ月の猶予だったとしても、屋敷になれる時間が出来て良かったと思う。  それにこの部屋も悪くないと思えていた。  暑く苦しくなく、日向が差し込むのも日中の数時間で地下暮らしの身体を慣らすのには丁度良い。  何より物置き部屋は、家族の生活音が滅多に聞こえないから好都合だった。 (前世で地上に苦しめられたのは、広間にいる時間が長かったからだな。ここでの生活自体は、特に大きな支障は問題なく過ごせてる)  生活に支障があるとしたら立ってるだけで疲れてしまうことと、過度な貧血くらいだろう。  具合いが悪くなったら直ぐに、ベッドで寝られる暮らし方でロレティカは日々を満喫していた。  寝て、食べて、日を浴びてお絵かきや本を読む。  その繰り返しにやっと肉料理が食べられると、ロレティカの骨張った腕や胸もようやっと見せられる体付きになっていた。  そして家庭教師の紹介からちょうど二十日後、ヨシュアから礼儀作法のボウ・アンド・スクレープから学びはじめた。  男性のお辞儀は片足を後ろに滑らせて、右手を胸に当てて左手を軽く横に伸ばす。 「ロレティカ様、とても挨拶がお綺麗ですね。ここまで優雅なお辞儀は私の夫以来です。宰相様でもぎこちなかったのに……」 「それは、よかったです」  バレック殿下と候爵媚びるため身に着けたことも、恥じらうことなく利用するつもりでいた。  一番最初の挨拶が出来るようになると、今度は着ていく場面に合う洋服のことを学ぶことになった。  礼儀作法の授業が終われば、音楽の時間に入る。 「私はピアニストだけど、兄がヴァイオリンの方が得意でね。教えてもらったから、初心者向けに丁度良いとおもうよ」 「そうな、ですね。ふたつも、できるのすごい。ぼくも、いろいろやる」 「はい。応援してますよ。頑張ってくださいね」  ヴァイオリンは出来ると思って挑んだが、記憶の中の感覚と子供の手と言うのは想像以上に違いがあって、上達するのには時間がかかりそうだった。  授業が終わると昼食をとるために休憩に入る。  お昼寝付きのおやつタイムまで自由時間で、お絵かきだったり、本を読んだりして自室で過ごした。  候爵に出ることを禁じられていたのもあるけど、家族がどこをほっつき歩いているか分からない以上は外に出る行動は起こせなかった。  そうして教養の授業に入ると、まだ年若いビークは年齢相応のテストを作ってきていて、テーブルに置く。 「ロレティカ様、文字はどのくらいかけそうですか?」 「えっと、よめるけど、かけない……?」  そう言って、ロレティカは今読んでいる本を机に置く。  本の表紙を見たビークは「なんと」と粒いて口を開いて固まった。  指を口元に当てると思案するビークはボソボソを何かをつぶやきはじめる。  なんたって、ロレティカが置いた本は学者が読むような歴史書だ。  それもとある戦争を題材にした本で、到底子供が読むものじゃない。 「なるほど。では文字だけを書けるようになれば、アカデミーの試験は問題なさそうですね」  そう言ってビークは、眼鏡の縁をかちゃりと上げる。 「候爵様はアカデミーに入れるくらいの学力で良いと言いつけられていましたが、心配なさそうで良かったです。──とは言え、私も早々に解雇されると困りますから、そうですね、経済学や計算とかどうですか?」  そう提案してくるビークに、ロレティカは直ぐにコクコクと首を縦に振った。  これは予想外だ。  まさか経済的なことを専門に学ぶ機会に恵まれようとは。  ビークはアカデミーの首席卒業生と聞いたから期待出来るだろう。 (若いと思って侮っていた……)  ロレティカの前向きな反応にビークはニコッと笑って、基本文字と数字の書かれた表をテーブルに広げた。 「では一文字ずつ綺麗に書けるようになりましょうか」 「き、きれいに……?」 「はい」  優しく笑っているはずのビークだったけど、ロレティカは何故か背筋筋が寒くなるのを覚えた。  その悪寒が本能的に感じた嫌な予感だったことは間もなく知ることになった。  なんたって、基本文字一つに何十分もかけて徹底的に覚えさせられたのだ。 「──段々と形になってきましたね」  形と言われたことにショックを受ける。  まさかここまで綺麗な字を求められるとは思わず、テーブルに項垂れた。 (アカデミーに入るよりも難しいじゃないか!)    ようやっと六文字を書けるようになってきた頃、メイドが呼びに来て授業が終わった。  剣を振っているわけでもないのに腕がパンパンで、授業終わりにはスプーンさえ持てないようなあり様だ。 「つかれた……」 「お疲れ様です。今日は念入りにマッサージしますね」 「うん」  相変わらず騎士に抱えられて部屋に移動しながら、ロレティカはメイドたちのやさしさに素直に頷いた。  ベッドに寝転ぶとこれから学べる教育内容に笑う。  こんなに学ぶことが楽しいとは思わなかった。  生きるために必死になって学ぶんじゃない。逃げるために学び、好きな人のためになる。  認めるられるためじゃない、自分が自由になるために学べる環境がここにある。  これからやることは全部、自分のため。サルクの役に立てることをこれから学びたい。 (アイツは公爵家の息子だからな。それに仕えているのは次期国王だ。宰相もいるけど、仕えることになれば、それこそ多方面で知って、紅茶の淹れ方もとびっきり美味しいものを作れるようにならないと)  そしたらサルクは喜んでくれるかな。  レイリス殿下が王太子になれたら、サルクは笑ってくれるかな。  未来を描くのが楽しい。  サルクが思いっきり笑う姿を、ロレティカはすぐ側で見てみたい。 「えへへ」 「あら、今日は楽しかったですか?」 「うん。ぼくね、じゅぎょ、がんばるよ」  ロレティカは手を天井に伸ばすと、手の平をぎゅっと握りしめた。

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