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第30話

 心臓が早鐘を打つ。  喉の奥が熱くて、久しぶりに言葉に出来ない喜びで感情が昂ぶっていた。  ​ 並んで頭を垂れる皆の中で一人、ぽろぽろと涙を流して立ち尽くすロレティカに、控えていた大人たちは突然泣きだした少年の様子に驚き、どよめいていた。  誰かに名前を呼ばれた気がした。  でも、それが誰なのかロレティカにとってはどうでもいいような気がして、見つめていた陛下が今度はロレティカだけを見つめ返してくれることに、回帰前の思い出が脳裏にパラパラとページをめくるみたいに流れていた。  最後のページは真っ白な棺桶に眠る陛下の顔だ。  未練が残ったまま別れてしまったから、ずっと忘れられなかった。  何年経ってももう一度会いたくて、声が聞こえないことが寂しくて──。  そして何よりも頭を優しく撫でてもらえないことがすごく心細い。  生きる意味がわからなくなっていた。それが──、 (本当にいる。生きてる陛下が目の前にちゃんといる。俺の陛下がちゃんとこの世界に居てくれている……!)  目を閉じて口を開く。声にならない息を漏らして、しゃくり上げるロレティカに、ザワつきがより一層大きくなった。   「ぅ……ぁ……っ……ひくっ……」     愛情を知らなかったロレティカに、最初に温もりと感情を教えてくれたのは陛下だった。  だから物事の善悪だって、陛下が感じるだろう損得で決めていた。  それがいきなり、王城の外にいたロレティカのもとに王城からの使者が来て、「息を引き取った」と報告されても何かの冗談だと思ってた。  ──思っていたのに、いざ王宮に戻って、ベッドで眠る陛下の名前を大声で呼んでも起きない姿を見て、本当に亡くなられたことを知った。  もう二度と目を覚まさないのだと、あの時、膝から崩れ落ちたロレティカのことを陛下は知らないだろう。  こうして会えた今だって、陛下はロレティカのことを何も知らないはずだ。 (俺のことを覚えてなくて良い。覚えてなくて良いから、こうして会いたかった……。やっと会えて嬉しいのに……)  涙が止まらなくて、息が苦しい。  これが“喜び”と言う感情なのだと知れた。  生きていてくれていることが、何ものにも代えがたくただ嬉しくて。 (どうしよう……)     本当は決められた位置で跪かないといけないのに、​涙を拭うのに必死で、歩けるような状態じゃなかった。  すると騒がしかった大人や子供たちが、一斉に静まり返った。  顔を上げれば玉座にいた陛下が立ち上がり、ゆっくりと階段を降りていた。  そして優しく目を細めて両手を横に広げる。   ​「おいで」  そう囁いた声が、記憶と重なった。  陛下はいつだってロレティカを見つけると、手を伸ばしてくれる。  ​ 迷ったのは一瞬だった。  謁見の間でいくら許されたとしても相手は国の王様なのだ。たかが貴族の子供が抱きついて良いようなものじゃない。  だけど今だけは、ただの子供として甘えさせてほしい。  侯爵ではもう駄目なのだ。ロレティカが認めた親は陛下ただおひとり。  小さな身体を弾ませて駆け出したロレティカは、待ち構えてくれている陛下の胸へと飛び込んだ。 (陛下……!)   ​ 鍛えられた身体の中央にすっぽりとおさまるように、大きな腕がロレティカを包み込む。  懐かしい爽やかなフローラルの香りが鼻をくすぐった。  温もりに包まれれば安心感があって、息が楽になる。    服をギュッと掴んで止まらない涙をそのままに、もう二度と離れないようにとくっついていた。  それに応えてくれるかのように陛下も背中と後ろ髪を同時に掌で撫でてくれる。  その瞬間になって同じ世界に戻って来られたんだと全身で実感出来た。   ​「へいか……、へい、か……っ……」 「よしよし。存分に泣きなさい」  それは間違いなく聞き慣れていた声色だった。  変わらない穏やかな声が数年振りに耳に入ってきて慰めてくれる。   「こんなにも感動してくれるとは思わなかったぞ。ありがとう」    優しい言葉、咎めて来ない寛大な心。  泣いても良いんだと、思える。  涙が枯れるまで側にいて欲しい。  さまざまな思いが胸に湧いて、いつの間にか口元が笑っていたことに気づいた。  顔を埋めて呼吸を繰り返せば、肺いっぱいに爽やかな匂いで包まれていた。   ​「へいかの匂いがする……。陽だまりみたいなお日様とお花の匂い」  すると声を立てて笑う陛下に、ロレティカは顔を上げた。   「そうか、私からお日様の匂いがするか。初めて言われたぞ。それに、やっと元気が出てきたようだな」 「うん。僕、陛下に会えてすごくすごく嬉しい」 「私もだ。お前は自分の名前を言えるかな?」 「ロレティカ・フォロバトンと申します」 「そうか、フォロバトン侯爵の子だったか。綺麗な髪色をしているな」  ロレティカの頭を撫でながら陛下が呟く。クリーム色の髪は滑らかで陛下の金髪とは全然違う。  王族の髪はキラキラと輝いている。   「ありがとうございます」    ​ 泣き尽くしたおかげで、張り詰めていた身体が弛緩していた。  更に失くしてしまったものを取り戻せたのだ。安心した心は、急激な睡魔に襲われて欠伸を漏らしてしまう。  いつまでも離れないなんて無礼なのは分かっているのに、体力のない身体には耐えきれず頭が泥のように重たい。   ​「眠たいのかい?」 「うん……。ごめんなさい、もう……」  陛下に寄り掛かって何とか身体を支えようとする。  頭では起きないといけないと分かっているのに、瞼が重たくて思考が何度も途切れてしまっていた。 「良い。眠ってなさい」  目元を手で遮られると暗闇へと落とされた。  身体が浮いて、完全に陛下の腕に身を委ねる。   (だめだ。もう眠気が……。最後にこれだけはちゃんと言わないと……)   「ずっと、そばにいさせて、ね──」 ​  陛下が前世でなくなった年齢は決して天命とは言えない。比較的若い内に亡くなった。  それに疑問点もあった。  だから今世では絶対に、早くに死なせたりはしない。  陛下が亡くなった後に完成した治療薬も、先に完成させてみせる。  その資料をロレティカは何度も読んだ。  何度も読んで後悔して、結局その紙をロレティカは悔しさのあまりに破り捨ててしまったけれど。  ちゃんと頭の中には陛下の病名も、それを治すための材料も、その比率もちゃんと覚えている。  だから、ロレティカは薬を開発した学者に近づいてヒントを与えれば良い。  一日でも多くこの世界に引き留めたい。  すると上から声が降ってきた。  ​「──良いだろう。お前がそう願うなら」 ​ 陛下の優しい声が遠くで聞こえた気がして、それを最後に深い、深い眠りの淵へと落ちていった。 ​ ──心地よい暗闇の中で、ふと、光が灯り温かい風が吹いた。  あれは確か、まだロレティカが王城に通っていて、学院に入る前の頃。  バレック殿下たちの外遊びについていけずに一人でいたロレティカは、お気に入りの場所でもあった鋸壁の狭間に寄りかかって都を見渡していた。  何も考えず、流れる雲や目の前を横切る鳥を、ぼぅっと目で追って時間が経つのを待っていた。  そんな時、後ろから名前を呼ばれて振り向いた。 「──陛下」 「ロレティカも気分転換をしに来たのかな」 「はい」    軽くお辞儀をして挨拶をすると、陛下は手を差し出してきた。 「おいで。暇なら一緒に歩こうか」  一人でいると必ずと言っていいほど陛下は手を差し伸べて、散歩に誘ってくれる。  その日も和やかな陛下の人柄に釣られて、ロレティカは大きな手を見つめたあと笑って手を取った。   「──はい、陛下」  この時、以前から畏まった態度を取らなくて良いと言われていた。  もちろん謁見の間では敬称で呼ぶのがマナーだけど、他の部屋や外では父親のように接して良いと、そう言ってくれた。  普段大股で歩く陛下が、側に行けばロレティカに合わせようと歩幅を小さくゆっくりと歩いてくれる。  それから、「ロレティカ」と名前を何度も呼んでくれる内に、隣にいる時間が唯一の安らげる場所になっていた。    目を覚ました時、ロレティカは見慣れないベッドに横たわっていた。  見たことのない木目をした天蓋の中には滑らかなシルクのシーツに、薄いふわふわした毛布があって、枕も高品質なのが触感から良く分かる。   「ここは……、どこだ……?」  思い出せる範囲の記憶からして、陛下が放っておくわけがなく、王城の中にある一室なのは分かる。  けれどレースのカーテンから覗く内装やインテリアからしてこんな部屋は初めてだ。    ​(まさか、陛下の部屋……? いや、そんなわけないよな……。けど、こんな高品質な部屋なんて……。ぁ、他国の王族用の客室かもしれない。それなら納得でき──)  る、と心の中で唱えた瞬間、部屋の扉が開き、馴染んだ声と姿が中に入って来た。   「ロレティカ。起きたかい?」    どうやらロレティカが起きたことは気配で外の警備兵に伝わっていたらしい。 「──っ! はひっ!」  上擦る自身の声に、更に落胆してしまう。  もう恐れ多くて、焦りに焦った。  直感で感じていたように部屋へ入って来たのはファウスト国王陛下で、その後ろにはイカロフ宰相が控えていた。  レースのカーテンが開かれると、まだ対処方法が浮かばなかったロレティカは慌てて布団にくるまる。  流石に前世の教養があるロレティカでも、これはどう対処すれば良いのか分からない。  膨らんだ布団に重さを感じた。 「どうした。恥ずかしくなってしまったのかい?」 「うぅ、ごめんなさい」 「問題はないさ。私への紹介は済ませただろう。他の子たちとの謁見は予定通り済ませた。今は控え室にいる」  淡々と語る陛下は本当に怒ってないようで、ただロレティカの人生に新たな大失態が刻まれただけだった。   (やってしまった……。あの場には大勢の貴族も、王妃もいた。陛下に夢中で目に入らなかったが、レイリス殿下やサルクだっていたはずだ)  落ち込むロレティカを急かすことはせず、陛下は優しく起こすと、使用人に預け、他の子供たちの元へ行くように見送られた。

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