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第75話

榊原から連絡が来たのは数日前だった。 『現場が猫の手も借りたいくらい忙しい』 『休みの日だけでいいから手伝ってくれない?』 そんな内容だった。 特に予定もなかったので了承した。 当日。 首からスタッフ証を下げて現場へ向かう。 久しぶりの空気だった。 懐かしい。 そう思ったのも束の間。 「湊ちゃん来た!?」 「助かったぁ!」 「こっちお願い!」 「これ運んで!」 本当にてんてこ舞いだった。 スタッフ達は泣きそうな顔をしていた。 俺は言われた仕事をこなしていく。 資料を運ぶ。 確認をする。 備品を届ける。 気づけば時間はあっという間に過ぎていた。 「ありがとうね」 「助かった」 そう言われる。 少しだけ嬉しかった。 時計を見る。 そろそろ終わりの時間だった。 帰ろう。 そう思って廊下を歩いていた時だった。 「あ」 聞き覚えのある声。 振り返る。 そこにはあの時の女性がいた。 向こうも俺に気づいたらしい。 「なんでまたいるんですか!」 廊下に声が響く。 周りの人達が振り返る。 「この前注意しましたよね!?」 「……」 「ていうかスタッフ証ですか?」 「誤魔化してもダメですよ!」 胸の奥が少し重くなる。 さっきまで楽しかったのに。 少しずつ気持ちが沈んでいく。 俺、何かしたっけ。 頼まれて来ただけなのに。 なんでこんなに怒られているんだろう。 そう考えていた時だった。 「そろそろ」 静かな声が聞こえた。 「いい加減にしてくれるかな」 空気が止まる。 女性が振り返る。 そこには榊原が立っていた。 「あっ、榊原さん!」 女性の顔が明るくなる。 そして俺を指差した。 「こいつです!!」 「この前荷物持ってきた気持ち悪い人!」 沈黙。 数秒。 誰も動かなかった。 榊原はゆっくりこちらへ歩いてくる。 そして。 俺の前に立った。 視界から女性が隠れる。 「気持ち悪い人?」 榊原の声は静かだった。 穏やかなくらいに。 だから少し怖かった。 「この子ね」 俺の肩を軽く叩く。 「俺が頼んだの」 女性の表情が固まる。 「バッグ持ってきてって頼んだのも俺」 「今日手伝ってって頼んだのも俺」 「元々ここのスタッフだから」 「みんなが頼るのも普通のこと」 静かに説明する。 誰も口を挟まない。 「だからさ」 少しだけ笑う。 でも目は笑っていなかった。 「俺の知り合いに気持ち悪いとか言わないでくれるかな」 女性の顔色が変わる。 「で、でも私は……」 「あと」 榊原が言葉を重ねる。 「今まで黙ってたけど」 「そういうの多いよ」 廊下が静まり返る。 「知らない人だから」 「自分が正しいと思ったから」 「それで相手に何言ってもいいわけじゃない」 女性は何も言えない。 「仕事熱心なのは分かる」 「真面目なのも分かる」 「でも」 少し間を置く。 「相手を傷つけていい理由にはならない」 静かな声だった。 怒鳴っていない。 なのに誰も何も言えなかった。 榊原はそこで話を終える。 そして振り返った。 「帰る?」 何事もなかったみたいに聞いてくる。 俺は少しだけ頷いた。 「はい」 「送るよ」 そう言って歩き出す。 その背中を見ながら、 胸の奥に溜まっていた重たいものが少しだけ軽くなった気がした。

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