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第90話

「こら」 聞き慣れた声がした。 「風邪ひくよって前も言ったよね」 優しく頭を撫でられる。 その感触でゆっくり目を開いた。 ぼんやりした視界の先には榊原がいた。 「あ……」 頭がゆっくり働き始める。 「おかえりなさい」 「ただいま」 榊原は少し困ったように笑った。 「また玄関で寝てたの?」 「少しだけです」 「少しだけで寝る場所じゃないんだよなぁ」 そう言いながらもう一度頭を撫でる。 その時。 湊は思い出した。 今日が何の日なのか。 「あ」 「ん?」 「目、瞑ってください」 榊原が首を傾げる。 「目?」 「はい」 少し真剣な声だった。 榊原は苦笑しながら目を閉じる。 「はいはい」 「瞑ったよ」 「こっち来てください」 湊は榊原の腕を軽く引いた。 「ここ座ってください」 椅子へ座らせる。 準備はできている。 湊は深呼吸をした。 そして。 「目、開けてください」 「うん」 ゆっくり目を開く。 榊原は固まった。 部屋にはささやかな飾り付け。 テーブルの上にはプレゼント。 そして食事の準備。 「お誕生日おめでとうございます」 静かな声だった。 でも一生懸命さが伝わる声だった。 榊原はしばらく言葉を失う。 「……これ」 「はい」 「湊が準備したの?」 「しました」 即答だった。 「飾り付けも?」 「しました」 「プレゼントも?」 「買いました」 榊原は何度か瞬きをする。 「え」 そして小さく笑った。 「嬉し」 本当に嬉しそうだった。 「ありがとう」 その言葉を聞いて少しだけ安心する。 喜んでもらえたらしい。 「それから」 湊が続ける。 「料理もあります」 「料理?」 「はい」 「何作ったの?」 「ビーフシチューです」 榊原が固まる。 「ビーフシチュー?」 「はい」 「手間かかるやつじゃん」 「そうなんですか?」 「そうなんですかじゃないの」 榊原は思わず笑った。 湊はキッチンへ向かう。 鍋の火を確認する。 温め直したビーフシチューを器によそう。 ゆっくりとテーブルへ運ぶ。 濃い茶色のルー。 大きめに切った野菜。 柔らかく煮込まれた肉。 部屋の中にいい匂いが広がる。 最後の皿を置く。 「できました」 榊原は並んだ料理を見つめていた。 「いただきます」 「いただきます」 榊原はスプーンを手に取る。 湊は少しだけ緊張していた。 何度もレシピを見た。 母にも電話した。 煮込む時間も確認した。 でも。 美味しいかどうかは別の話だ。 榊原が一口食べる。 そして。 「うまい」 「え」 「普通にうまい」 もう一口食べる。 「ほんとですか」 「ほんと」 「よかった」 自然と肩の力が抜けた。 榊原はスプーンを止めない。 「これ教えてもらったの?」 「はい」 「誰に?」 少しだけ迷う。 「母に」 榊原の表情が少し柔らかくなった。 「そっか」 それ以上は聞かない。 ただ。 「美味しいよ」 もう一度そう言った。 その言葉だけで十分だった。 二人はゆっくり食事を続ける。 誕生日の主役なのに。 榊原は何度もビーフシチューを褒めてくれた。 それが少しだけ嬉しかった。

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