92 / 113

第92話

「プライベート用の腕時計持ってないって聞いてたの思い出して買いに行きました」 湊がそう言うと、 榊原は手元の時計へ視線を落とした。 「全然気づかなかったなぁ」 「そういうの得意なので」 少しだけ得意げに言う。 榊原は笑った。 「褒めてないよ」 「そうですか」 「そうです」 でも。 嬉しそうだった。 それからケーキも食べ終えた。 食器も片付ける。 誕生日会らしいことは全部終わった。 二人並んでソファへ座る。 テレビはついている。 でも誰も見ていない。 榊原は何度も腕時計を見ていた。 時間を確認しているわけじゃない。 ただ眺めている。 気に入ったらしい。 それが少し嬉しかった。 「今日」 湊がぽつりと口を開く。 「お祝いできて楽しかったです」 榊原が顔を上げる。 「ひとりで色々考えたり」 「買い物行ったりしたけど」 少し考える。 「全然苦じゃなかったです」 その言葉に榊原はしばらく黙っていた。 「湊」 「はい?」 「お礼にさ」 少しだけ照れたように笑う。 「ぎゅってしていい?」 湊は首を傾げた。 よく分からない。 でも。 嫌ではなかった。 「いいですよ」 返事をした瞬間だった。 ぎゅっ。 優しく抱きしめられる。 強くはない。 でも離したくないみたいな力だった。 肩に顔が乗る。 「ありがとう」 耳元で声が聞こえる。 「嬉しかった」 その声はいつもより少しだけ小さかった。 本当に嬉しかったんだろう。 湊は抱きしめられたまま考える。 誕生日だからだろうか。 プレゼントだろうか。 料理だろうか。 よく分からない。 でも。 胸の奥が少しだけ温かかった。 それはきっと。 榊原が喜んでくれたから。 そう思うことにした。 「よかったです」 小さくそう返すと、 榊原は少しだけ抱きしめる力を強めた。 その温もりは、 思っていたよりずっと心地良かった。

ともだちにシェアしよう!