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第10話 峰山の真剣な眼差しに心が掴まれる

「保ー! いつまで寝てんだ。もう朝の六時半だぞ」  オーナーに布団を掴み上げられて眠気まなこのまま廊下に放り出される。昨日の出来事が走馬灯のように脳内を駆け巡る。 「すみません。すぐ行きます!」  ばっと服を整えて大風呂に走る。なぜかいつものうきうきとした気分になれなくて、蛇口を捻る間もぼんやりと浴槽を眺めていた。ここで起きた出来事がよみがえってしまいそうでぶんぶんと頭を振る。忘れろ。あれは気の迷いに違いない。きっと峰山は自分を見ても飄々とした態度でいるはずだ。気にしているのは自分だけだ。  峰山と鉢合わせになる前に風呂に入ってしまおうとまだ大風呂が開かれる十分前にシャワーを浴びた。大急ぎで頭を洗い流し、ボディーソープを塗りたくる。ざぱんとまだ八分目あたりの湯船に飛び込みいつものルーティンと化したいぬかきで湯船を漂う。  そう、いつも通りにしていれば何も問題はないのだ。保はタオルを掴むと風呂から上がった。鏡にうつる自分の姿を見ながら思う。そこそこ筋肉はあるものの誰かを魅了するほどいい体というわけでもない。男が可愛がるような華奢な男でもない。そのへんにいる普通の大学生だ。そんな自分が人気役者とあんなことをしたというのが今でも信じられなかった。 「お、朝からご苦労さん」  脱衣所で髪を乾かしていると、いつのまにやってきたのか花房が声をかけてきた。男らしい逞しい肩幅や無骨な腕周りを見て、自分の平凡な体を思い出してげんなりとする。そういえば、峰山の役の相手を務めるのはこの人だよな。そう思うと口が開いていた。 「次の公演のお芝居って花房さんが峰山さんの相手役なんですか?」  聞いた後で後悔する。こんなこと聞かなくても自分には関係ないじゃないかと。花房は服を脱ぎ去りながら答える。 「ああ、そうだな。あいつが乙一(おといち)役で、俺が重吾(じゅうご)役の江戸時代の男色の話だ。なんだ、芝居に興味あるのか?」 「あ、えっと。男色って触れたことがない世界なので……気になるといえば気になります」  そうかと小さく頷きながら、花房が履いていたスウェットのズボンに手をかけるのを保は目の端で見ていた。太く硬そうな太ももにすらりと伸びたカモシカのようなふくらはぎ。どれをとっても自分とは違う。それを悔しいと思った自分に驚く。何を比べているんだろうと。 「あいつはえらく保くんのこと気に入ってるみたいだから、これからも仲良くしてやってくれ。俺たちは旅をしながら日本を渡り歩いてるから友達も作りにくいし、あいつああ見えて寂しがり屋なところがあるから」  幾筋もの筋肉の筋が流れる広い背中を見せて花房は大風呂に入っていった。アスリートのような体つきだったなと思いながらドライヤーで髪を乾かしていると、ガラリと脱衣所の扉が開く音が聞こえて慌てて鏡越しにその人物を見る。 「おはよう。昨日はよく眠れたかい?」  ただ顔を合わせただけなのに、頬にカッと熱が集まる感じがしてぼさぼさの頭で脱衣所から去る。あいつの顔まともに見れなかった。自分でもおかしいとわかっている。客人に挨拶もせず出て行った自分がひどく幼く見えて自己嫌悪に陥る。  元はといえばあいつの変な行動のせいだ。俺は悪くない。  そう自分に言い聞かせて朝食の準備に取り掛かる。地元の漁港でとれた鮭の塩焼きとアサリの味噌汁。自家製の沢庵と卵焼きを皿に盛り付けて食堂に配膳する。最後に緑茶を淹れてすぐに飲んでもらえるようにお盆の隣に置いておく。  ちらほらと宿泊客の姿が見えてくる。祝日を挟んだ土曜日ということで客足も多い。クーラーを効かせた厨房では料理人の田代さんがこめかみに汗を流しながら腕を振るっている。今日の宿泊客三十人分の食事を作るのは全て田代さんの仕事で、料理人として歴の長い彼はあっというまに大鍋を使って食事を作ってしまう。普段は無口で大人しい人だが、調理をする時には厳しく配膳係に指示を出してくれる。旅館のスタッフの中でも一番頼れるお兄さんだった。  今日は昼公演、夜公演と新作のお芝居が幕を開けるとあって、十二時ごろには玄関にぞろぞろと地元のお客さんや追っかけのお客さんがやってきて軽い混乱状態に陥っていた。  保はそれを誘導する役割を買って出て、お客さんをロビーにあげて宴会場へ二列に並ばせて連れて行く。チケットをもぎり、あっというまに8割がた席が埋まってしまう。予備のパイプ椅子を増やして急遽後方の席を追加するも、やってくる人が後をたたない。  オーナーから聞いた話だが、峰山の所属する旅一座『劇団うるは』は大衆演劇と呼ばれる時代劇を主に演じる団体の中で一、二を争う人気劇団らしい。  観客の多くが四十代から六十代が多い大衆演劇だが、劇団うるはは二十代から三十代の若い女性に圧倒的に支持されており、役者ごとの親衛隊ができる始末だという。  一番人気は花形の峰山で、親衛隊の人数は百人を超えると言われている。地方公演にも脚繁く通うファンを見ていると単純にすごいなと感じる。  ここ保の地元の宴会場は町一番の広さを誇るが小規模で、収容人数は二百人にも満たない。会場としては最も狭いレベルだ。それにも関わらず満員御礼となったのは劇団うるはが初めてだった。  たびたびこの宴会場は演歌歌手やマジシャンの一芸披露の場所になっていたが、そのときは客が百人いたかどうかだ。普段とは客入りの違う宴会場を見て、オーナーはにんまりと笑っている。  旅一座が一定期間泊まることもあり、観客の宿泊は断っているのだが旅館自慢の温泉には浸かることができる。といっても、ファンの多くは女性のため役者たちと顔を合わせることもない。しかし、過激なファンがいることも事実で他の劇団ではストーカーまがいの行動をしてくる悪質なファンもいるという。 「今日はえらく気合が入ってるよ、峰山のやつ」  花房が楽屋に戻ってきた保にそう囁く。黒々としたカツラをかぶって、男物の着物を着て準備万端といった顔をしている。三十手前の花房らしいが、その顔や体に歳を感じさせない。  体調を崩していたお手伝いさんが回復したというのもあり、手慣れていない保よりも迅速な行動ができる彼女に今日は着付けをしてもらうと聞いていたので、峰山とは朝の一件以来顔を合わせていなかった。期待のかかる大舞台の邪魔はしたくないので楽屋の片隅でひっそり空気を殺していると、どたどたとこちらに向かって歩いてくる音が幕の下りた舞台から聞こえてきた。 「保! ちょっと来て」  血相を変えた峰山がらしくもない歩き方でやってくる。緊急事態を察知してすぐにそばに駆け寄った。 「これ、ちょっとほつれてないか?」  そう峰山が指し示したのは帯の結びの部分だった。言われてみれば布が皺々になってしまっている。 「ちょっとうまく隠してくれないか? このままじゃ笑われちまう」  お手伝いさんは他の役者の着付けにでも追われているのかそばに姿が見えない。観客がざわざわとざわめき出している。開演五分前なのだからそれも仕方ないだろう。こんなに焦っている峰山を見るのは初めてで、少し驚く。こんなやつでも慌てふためくんだな。そう思いながら帯を正していると、男化粧のいつもとは薄い化粧に目がいった。白粉をはたいているが、目筆も僅かで口紅もほんのり桃色なだけだ。素顔に近い姿になぜかほっとする自分がいた。

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