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第11話 『江戸町恋手帖』※

「……たぶんこれで大丈夫だと思う」 「助かる。さんきゅうな」  そう言って颯爽と舞台袖に上がっていく後ろ姿を眺めていると、不意に峰山が振り返ってこちらを見た。さんきゅう、と口パクでこちらを見てくる。それをじっと見据えて頷いた。  開幕を知らせるブザー音が会場内に鳴り響き、ふっと人の声が消えた。ゆっくりと舞台の幕が上がっていく。座長の花房が一人で正座をして頭を下げる。 「本日はどうも遠路はるばる、いや人によっては近路はるばる足をお運びくださいまして誠にありがとうございます」  くすくすと会場内に笑いが起こる。 「今日から新しい演目が始まります。題は、『江戸町恋手帖』わたくし花房が主演をつとめてまいります。それではよろしくお願い致します」  スッと頭を下げてまた幕が降りていく。拍手がそこかしこで聞こえてきた。舞台の背景を動かす|黒子《くろこ》と呼ばれる黒装束に身を纏った男たちが忙しなく動き始める。一分もたたないうちに幕が再び上がっていく。重吾役の花房がひとり家の屋敷で母親と会話する場面から物語は始まった。 「おまえ結婚はどうした? わたしは早く孫の顔が見たくてたまらないのよ」  母親がそう嘆くように呟く。花房はぼりぼりと髪をかいた。 「そう言ってもお|母《かあ》。俺みたいな田舎者と付き合ってくれる女と出会えるわけがねぇだろう」  普段の口調とはまた違う花房の演技に見入ったように保はその場から動けなくなる。袖から見ているとかなりの照明が演者を照らしているので、眩しくて目を凝らさないと細部が見えない。  母、息子同士の掛け合いが終わり、今度は峰山演じる乙一のシーンに変わる。城下町の味噌屋で働く若者は、いつか自分の店を持つために親方に弟子入りしているところだった。 「|満天堂《まんてんどう》のお味噌はいかがです。お出汁の味がよく染みる、保存期間は二週間。長く使える万能味噌。これで鯖の味噌煮も味噌汁も味噌漬けも全部一役買えますよ」  音頭をとりながら街ゆく人に声かけをするも、味噌を作る店は数多とあるのでそれぞれお気に入りの店があるのだろう。なかなか立ち止まって店に入ってくれる人は少ない。それでも懸命に呼び込みをしていると、重吾と母親が店先に姿を現した。そこから物語はゆっくりと加速していく。 「お客さん。満天堂の味噌はいかがですか?」  ちらりと母親が目を向ける。興味を持ったのかすたすたと店内に入っていった。食事の準備をするのは母の役目だったので、重吾は外の平椅子で街ゆく人を眺めていた。快声を響かせて客を呼び込む乙一に自然と目がいく。 「そこの若どん。名前は」 「乙一です」  乙一か。小さく呟くと重吾は手を差し出した。 「仕事に精が出ている。うちのお母も気に入っているようだし、また来るよ」 「ぜひ、ご贔屓に」  深々と頭を下げた若者を重吾はそっと目に留める。  物語は進み、ある晩。街を散歩していた重吾は味噌屋の店先で膝を抱える乙一を見つけた。なんでも、味噌瓶を割ってしまったのだという。こっぴどく親方に叱られ、今晩は晩飯もなし、外で寝ろと言われたのだという。不憫な若者を放っておくことができず、重吾は家に連れ帰った。母親は寝室でぐっすりと寝ている。湯浴みを終えた乙一から香る甘い匂いに誘われて、二人は一夜をともにしてしまう。お互い初めての男相手というのもあって、ぎこちなく肌を重ねた。 「乙一。昨晩はすまなかった」 「いや、お互い様だ」  重吾は居心地悪そうに胸のあたりを掻きむしる。乙一はそっぽを向いていた。  その後、何度か逢瀬を重ねるうちに重吾と乙一は互いの心を通わせていく。しかし、ある不幸が突然二人の身に降りかかった。  都で猛威を奮っている伝染病にかかり、乙一が危篤状態となってしまったのだ。病床で弱々しく天井ばかりを見つめる乙一を重吾は放っておくことができない。 「乙一。何か食いたいものはあるか?」 「ない……胸がつかえて腹がすかないんだ」  ぽつぽつと話し始める乙一の額に重吾はそっと手をやる。目を瞬かせて乙一が重吾を見上げた。  客席はしん、と静まりかえっている。物語の行く末を見守るように舞台に視線が注がれる。 「乙一。大丈夫さ。おまえはきっと良くなる。だから今は休め」 「重吾にはわからないさ。体が動かないのがわかるんだよ。俺はもう終わりさ」  弱音を吐く乙一を重吾はなだめる。翌日、また見舞いにやってきた重吾は小町通りで買ってきた桜餅を買ってきた。乙一は紅谷庵の桜餅が大好きだったという。 「一口食ってみろ。美味いぞ」 「いらないっ。俺に構うな」  力の入っていない手で、ぱんと重吾の差し出してきた桜餅をはたき落とす。ころん、と桜餅が転がっていく。 「同情はよしてくれ。お前の顔を見るだけで辛くなる」 「乙一……」  そこで前編の幕が下りた。十分ほどの休憩時間の後に後編が始まる。ぞろぞろと客席が波打つように人が動き出す。前編のシーンを振り返る、あそこが良かった、あれは良いと客同士の会話を盗み聞いていると、楽屋に戻ってきた峰山に「水」と声をかけられる。急いで手渡し、ついでに近くに置いてあった峰山の手拭いも渡した。 「ふぅ。男言葉も慣れてないと疲れるな」 「桜餅、あれ本物か?」  舞台の隅に転がった桜餅が気になりそう聞くと、ぷっと峰山は飲んでいた水を吹き出しそうになった。 「俺の心配じゃなく、餅の心配をするのか。おまえは」 「だって造りものじゃないんだろう?」  保は食べ物を粗末にすることに非常に敏感な性格だった。昔から米粒ひとつ残すなとオーナーから厳しく指導されてきたからだろう。食べ物を床に転がすなど、見ているだけではらはらとしてしまうのだ。 「大丈夫。遠目でわからないように薄いラップでくるんである」  それを聞いて一安心していると、ふっと峰山が小さく笑った。黒い着物に身を包み両腕を組むその姿にしばし目を奪われる。ブーっとブザーの音が鳴り響いて、ゆっくりと幕が上がっていく。 「ここからが見どころだぞ」  峰山は機嫌が良さそうに舞台袖に向かう。その姿に緊張した様子はない。さすが役者だと保は思った。反対側の舞台袖から花房が出てくる。凛とした顔で背筋をすっと伸ばしてまばゆい照明の中に消えた。 「死ぬなよ。おまえにはまだ見せたい景色が山ほどあるんだ。故郷の河も山も、海も。おまえにだけ見せてやるつもりだったんだ」 「そんなの俺が死んだ後に嫁さんにでも見せてやればいい。俺が死ねばおまえと別れられるんだ。一石二鳥じゃないか」  床の中で息も絶え絶えに乙一が言う。そのしゃがれた声が重吾をさらに悲しませる。悲痛な面持ちで重吾は乙一の手を取った。恭しくその指先に口付ける。 「おまえじゃないと嫌なんだ。嫁なんてもらわない。もし、おまえが死んだとしても一生独り身でいてやる。だから安心して眠れ」 「頭の悪い男だな。そんなことを聞かされたらうかうか寝られもしない」  ごほっと咳をする乙一の肩を重吾が支える。

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